「経営スキル」を磨く。

インタースコープの経営をしている頃、共同創業者の山川さんから、「平石さんは、能力はあるがスキルがない」と言われたことがある。

確かに、あの頃の僕は、経営者としてのスキルは全くと言ってよいほど無かったと思う。

ドリームビジョンを創めてから、特に、今年になってから、新聞を読んでいても、電車に乗っていても、日常のふとした瞬間にも「経営的な発想」をするようになった。新聞に関しては、読む記事や視点が変わったと思う。

インタースコープの頃、山川さんにこんなことを言われたなあとか、グロービスの小林さんにはこんなことを言われたなとか、整(久恒)には、こんなことを言われたなとか、あの頃は一般論としてしか理解できなかったことが、今は「経営者」として、少しだけではあるが理解できるようになった。

弁護士をしている弟が、「職業人としての経験やスキルを持っているにも関わらず、それを発揮しない、あるいは、発揮させないことは、本人の問題に留まらず、それは『社会的損失』だ」と言っていた。

インタースコープ退任の挨拶に行った際に、あるVCの専務の方が言って下さった言葉(期待)に沿えるよう、「シリアルアントレプレナー」として、経営のスキルを磨いていこうと思う。

追伸:経営とゴルフは、よく似ている。

父の命日。

4月4日は、父の命日だ。人が亡くなった日を「命日」と呼ぶのは意味深い。

父が亡くなってから今日でちょうど20年になる。父は、桜の咲く季節(4月27日)にこの世に生を受け、桜の咲く季節に亡くなった。

僕が生まれ育った福島県郡山市は東京から200キロほど北にあり、当時は今ほど地球が温暖化していなかったこともあり、ゴールデンウウィーク直前が桜の季節だった。

父からは多くのことを学んだ。

最近になってよく想うことは、もし、今、父が生きていたら、僕の生き方を何と言うだろうか?ということと、僕の妻と気が合うだろうか?ということだ。

一昨日のブログにも書いたが、結婚というのは本人同士の問題だけではなく、双方の家族の問題であることを自分自身の経験から学んだ。でも、間違いなく、どんなことがあっても、孫のことは可愛がってくれたと思う。

僕は15才の時に母を亡くし、24才の時に父を亡くした。母は45才、父は55才だった。そのせいか、同年代の人達よりも「死生観」というものが発達したように思う。

こうしてブログを書いていることにも幸せを感じられるのは、両親を早くに亡くしたことと無縁ではないと思う。

話しは変わるが、山手線の中で見た「ADIDAS(アディダス)」のコマーシャルが印象的だった。

辛い時期は必ずやってくる。でも、それを乗り越えるということが大切なんだ」。by デイヴィッド・ベッカム

そのことの「本質」を理解できる人は、「困難(辛い時期)」を乗り越えたことのある人だけだと思う。

ラソナの入社式。

月曜日は僕が社外取締役を務める「ラソナ」の入社式があった。ラソナの新卒採用2期目で「精鋭の4人」が新たにラソナのメンバーになった。昨年は10人の採用で、30人の会社がいきなり40人になったが、今年は緩やかな変化だったとも言える。

昨年の入社式も出席したが、来年は出席できない可能性がある。ひょっとすると、ドリームビジョンでも来年は新卒採用があるかもしれないからだ。そうなったら、さすがに自分が社長を務める会社の入社式に出ないわけにはいかないから(笑)。

ところで、僕にとって「3月」は「大きな変化」がある月ということを書いたが、実はラソナにおいて、僕の誕生日である「3月30日(エリック・クラプトンの誕生日!!)」に大きな出来事があった。やはり、そういう巡り合わせにあるようだ。

詳細はラソナ広報からのリリースがあるまで言えないが、今回の出来事は、今後のラソナにとって非常に大きな意味を持つことになると思う。

話しは変わるが、先程、久しぶりに「プラン・ドゥ・シー」の野田に電話をした。ケイタイの留守電にメッセージを残したところ、それから1時間後に、わざわざ海外から電話をかけてきてくれた。相変わらず元気そうだった。

人の縁とは不思議なものである。

僕がラソナの取締役をしているのも、元を質せば、僕らの結婚式のプロデュースをいつ潰れてもおかしくなかったプラン・ドゥ・シーに発注したことがきっかけで、野田の親友であるポン(岡村)を紹介されたことに起因している。

今までに何万人という人と会ってきたなかで、こうして同じ会社の経営に携わるというのは、何人もいない。

そんな人の縁をこれからも大切にしていきたいと思う。

「目黒川の桜」。

3月最終日のゴルフは、「44+45=89」でベストスコア・タイ。前半と後半それぞれ1ホールずつ大叩き(9打、8打)があった以外は、バーディ(1つ)、パー、ボギーというゴルフだった。ロングホールで「2オン2パット」のバーディが取れたことは、ちょっと嬉しい出来事だった。

大叩きの2ホールは、いずれも「欲張った」結果で、自分のレベルを考えて手堅いゴルフをしていれば、85~86というスコアが出た可能性があったと思う。

因みに、ティーショットをラフに外したことが2~3ホールあったが、そこは無理せず、フェアウエイに出すだけのショットをし、結果としては、いずれもボギーで収まっている。ビジネスにおいても、同じようなことが言えるような気がする。やはり、精神的に未熟な自分との戦いということだろう。

ところで、昨日は「代々木公園」に花見に出掛けた。

ゴルフの帰り道に、僕らの結婚式の際に立会人をお願いした元H2Oの赤塩正樹氏から久しぶりに電話があり、国際結婚をした元奥さん(最後に会ってから7年になる)との間にできたお嬢さん(ジュリア/とても可愛い)が日本に来ていて、代々木公園で花見をするから来ないか?ということだった。7年ぶりに会ったジュリアは、脚が長くてスタイル抜群のティーンエイジャーになっていた。

ところで、昨日は代々木公園に行く前に、五反田の赤ちゃん本舗に買い物に行ったのだが、その帰りに「目黒川沿い」の桜を観に言った。とても大勢の人で賑わっていた。

「目黒川沿いの桜」は、僕にとっては特別な想い出がある。僕らが中目黒に住んでいた頃、義理の母親と一緒に桜の花を観に行って写真を取ったことがある。

彼女は幼少の頃に大病をして、どちらの脚だったかは覚えていないが、片方の脚が短く、身体障害者だった。そんなこともあり、僕は身体が不自由な人達のことに関心を持つようになったし、「健常者」という言葉を初めて知った。

義理の母はとても頭の良い人で、趣味で「短歌」を詠んでいた。何かの会で入賞したりもしていた。

そんな母は物事をストレートに言う人で、相手の感情を考えないところがあったりもして、実は最初は彼女を受け入れることができなかった。そのことで、妻と喧嘩をしたこともあった。

それがいつ頃だったかは忘れたが、僕の中で変化があり、彼女を受け入れるようになっていった。僕のことを「自慢の娘婿」と思っていることが分かったことは、僕にとっては大きかった気がする。自分の知り合いに僕を紹介する時に、嬉しそうな顔をしていた。

母は、神社仏閣が好きで、不自由な身体にも関らず、日本全国の色々なところを訪ねており、その手のことに造形が深かった。

いつだったか両親が住んでいた久里浜(横須賀市)から車で出掛けた有名な神社だったかで、母をおぶってあげたことがあった。母とは、たった8年の付き合いだったが、あの時の想い出は僕の宝物でもある。

自分から心を開き、相手のことを受け入れることの大切さを、母から学んだ気がする。

「目黒川の桜」は、僕にとっては「母との想い出」そのものの特別な存在なのである。