「ロシア」で迎えるクリスマス。

2008年12月23日(火)17:30、今年2度目イコール僕の人生で2度目の「モスクワ」に到着した。

GWに初めてロシアを訪れた際には、まさか、こんなに早く2度目の訪露が実現するとは思ってもいなかった。

前回は、日本人にとっては極めて縁遠い国であるロシア視察が目的だったが、今回の訪露は、ある仕事で、現地のパートナー企業と打ち合わせをするためにやってきた。

当然のことながら、緊張感が違う。

事前に何度もメールのやり取りをし、昨夜遅くには電話で話をし、事前に出来る限りの準備をした。

今回の訪露も、5泊7日(機中1泊)という強行軍。今日からモスクワに2泊した後、サンクトペテルブルグに移動し、モスクワ経由で帰国する。

ところで、今回のフライトは、「AEROFLOT(ロシア航空)」(前回は、トランスアエロ航空)。

「風評」を聞く限りでは、かなりシャビーなエアラインとのことで、正直、気乗りしていなかったが、搭乗口の前で「シャンパン」を用意している姿を発見し、「これは思ったほど悪くないかも?」と期待感が湧き上がった。

すると、シャンパンを注いだグラスを並べたテーブルの前(パーティの時のような感じ)にクルーの人たちが集まり、機長(?)がロシア語でスピーチを始めた(当然、日本語の通訳付き)。

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どうやら、2008年は「AEROFLOT就航85周年」という記念すべき年らしく、また、今日は新しい「エアバスA330」での初めてのフライトとのことで、それを祝ってのシャンパンだったわけだ。クリスマスシーズンでもあり、乗客は喜んでいた。

実際に乗り込んでみると、機内はとてもキレイで、オレンジのファブリックが華やかさを演出していた。ハードだけでなく、サービスも上々。食事の後、アイスクリームをサービスしてくれた。

旧ソビエトのイメージは、もうどこにも無い。

ロシアでの仕事が上手くいけば、今後は出張が多くなるだろうから、マイレージプログラムに入る予定。

ところで、モスクワに向かう機中で、僕の好きな宋文洲さんのメルマガを読んだ。

彼が22歳で来日し、北海道大学で学び始めた頃、6畳一間の寒いアパートに指導教授が訪ねてきた時のことが紹介されていた。

あまりの寒さに、布団に足を入れてテレビを見ていた宋さんは、教授から「寒いか?」と言われ、「はい。寒いです」と答えた。

その翌日、研究室にいると呼び出しがあり、教授の部屋に行くと、「街に出るよ」と言われ、そのまま札幌駅のラーメン屋に連れて行かれたそうだ。

すると、教授の友人が先に来て待っていて、「後藤さん、この留学生の宋君が馳走になりたいと言っているんだよ」とジョークを飛ばし、「後藤さん、宋君のアパートはとても寒い。おたくの会社の来客用のマンションは使われていないでしょう。しばらく泊めてくれませんか」と・・・。

当時、片言の日本語しか話せなかった宋さんでも、教授が何を頼んだか分かり驚いていると、「どうぞどうぞ」と答える社長の返事を聞いてさらにショックを受けたという。

「前日に自ら部屋を訪ね、翌日にもう私のために問題を解決した恩師の姿勢に感銘と感動を覚えました。思いやりとは言葉ではなく行動であると、この時ほど身に染みたことはありませんでした」と、宋さんはメルマガに書いていた。

そのとおりである。自分自身の行動を考えさせられた。

ところで、その教授は、今月初旬に亡くなられたという。

「今年6月、北大工学部の同窓会に講演を頼まれて久しぶりに母校を訪ねました。恩師の木下先生が末期癌と戦っている最中の体を引きずりながら、奥さんと共に工学部に来てくださいました。抗がん剤の管が見えた時、私は目頭が熱くなりました。

恩師木下先生も涙を流しました。初めて見た先生の涙です。その時、彼も私もこれが最後の面会と悟りました」。

この文章を読んで、僕は22年前に亡くなった父親のことを思い出した。

父は亡くなった年の前年の暮れ、年末年始を自宅で過ごすために、病院の許可を得て、しばし、外泊をした。僕は、母親(養母)と一緒に、父が入院していた病院までクルマで迎えに行った。

すると、痩せた身体にぶかぶかになったスーツを着て、笑顔で病院の建物から出てきた。でも、父の顔は、誰の目にも末期癌と分かるほど、黄色くなっていた。

僕は、言葉に詰まり、でも、涙を見せるわけにはいかず、その後、クルマで40分の道のりをどうやって帰ってきたか、何も憶えていない。

でも、人間の記憶とは変なもので、自宅で父と過ごせるのは、これが最後かもしれないと母と弟と話をし、スーパーで売っていたなかで最も高い牛肉を買ってきて、父が好きだったしゃぶしゃぶを食べた(肉の値段の話をしたこと)を憶えている。

父は、とても嬉しそうだった。

ところで、今年は、僕の人生で、とても大きな変化があった。

色々な人に迷惑をかけた。

そして、僕自身も大きな打撃を受けた。

図らずも、今年は、僕の母親が亡くなった「45才」だった(正確には、あと3ヶ月ほど残っている。因みに、父は55才で亡くなった)。

ドリームビジョンで運営を始めた「挑戦する生き方」をテーマとしたメディアでも感じていることだが、人間は、誰かの死に直面したり、自分自身が大病を患うなど、何か大きな出来事に遭遇して、初めて変わる生き物なのだろう。そのぐらいのインパクトがない限り、人間は変われないということでもある。

年の瀬にあたり、今年後半の出来事をもう一度、振り返り、改めて反省をし、来年は良い年にしたいと思う。

僕の拙いブログを読んで下さっている皆さんにとっても、来る年が実り多い一年となりますことを、極寒のロシアでお祈りしたいと思います。

追伸:ロシアは「ロシア正教」が主流のため、キリスト教の「クリスマス(12/25)」に、特別な意味はない。商業的クリスマスという観点でも、カップルが着飾ってレストランで食事をするということもないらしい。キリスト教でいうクリスマスは、ロシアでは「1/7」で、1月前半はお休みとのこと。日本に住んでいると「宗教」と社会の繋がりをあまり意識しないが、異文化とその国の社会構造を理解する上では、非常に重要な要素である。