いつもなら今頃は桜が満開か、年によっては散り始めているのが、今年に限って東京でもソメイヨシノはまだまだ3部咲き。
それでも、必ず春はやってくる。恵比寿駅前のロータリーにある大きな欅は、新緑が芽吹いていた。
ところで、私事で恐縮だが、4月4日は、僕たちの父親の命日だ。
父が亡くなってから今日で24年。僕が24歳の時だった。
父は地元の総合病院に務めており、自分の病状を悟っていたようで、ある日、僕たち3兄弟を足元に立たせて、ひとりずつ「最後の説教」をしてくれた。
父が僕に残してくれた言葉。
「俺が生きていたら、お前が結婚する時には新居のマンションの頭金ぐらいは出してやれるし、事業をする時は資本金ぐらいは出してやれる。でも、これからは一切、そういった援助はないと思って生きて行け。それがどういう意味か分かるか?お前の友達が一万円使う時、お前は五千円しか使えないぞ。もし、友達と同じように一万円使いたいのなら、友達の『倍』稼がないと使えないぞ。よく覚えておけ」。
20代後半になると、友人達が結婚するようになった。
親父の言うとおり、多くの友人が、新居は「新築のマンション」だった。
僕は31歳の時に結婚したが、40歳を過ぎるまで、僕達夫婦は安普請の賃貸暮らしだった。
ところで、昨年からお世話になっている法政大学専門職大学院イノベーション・マネジメント研究科をこの3月に修了された金子さん(なんと60代半ばの方だ!)という方のメルマガに、とても考えさせられるエピソードが紹介されていた。
転載は自由ということなので、以下に全文を記載させていただくことにする。
★│母│の│愛│は│ご│と|く|に|
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母の愛は「あふれる愛」
【父の戦】
昭和18年4月に父は生まれたばかりの僕と4人の姉、
そして妻を残して出征した。
父が戦死して、
母は5人の子供と共に実家のある石川県小松市に引き上げた。
昭和24年の春だった。
近くに住むWさん夫妻がとても親切にしてくれた。
息子さんが金沢市で内科医をしているという。
そのWさん夫妻が母を朝起き会に誘ってくれた。
朝起き会は、夏季は4時、冬季は5時から始まると言う。
朝起き会の会場までは、歩いて1時間くらいかかる。
母は小学5年生を頭に5人の子供を食べさせるために、
朝早くから夜遅くまで働いて、疲れ果てて
そんなに毎朝は早くには起きられない。
でもWさんには折角のお誘いなので、申し訳なくて断れない。
しかも毎朝Wさん夫妻は
「金子さん・金子さん」と戸を叩いて起こしてくれた。
母は朝起き会に行けないときは、
前夜に玄関に赤い布を付けた棹を立てておく事にした。
でもそうしたら、赤い布を付けた棹を立てて朝起き会を休む事が
段々増えていった。
そんなときに母は、子供達を朝起き会に連れて行くようになった。
朝起き会に行くと大人たちが先生に、
人生や病気や、経済の事を相談しては、いつも怒られていた。
僕が6~7歳くらいの時だった。
こちらは他の子供たちと遊びながら大人たちの話を聞いていた。
「そんなことも分からないのか?」「あの人は馬鹿だなー」と思いつつ。
あとで聞いたら病弱なその人は、高校の先生でした。
余談だが、
長じて僕が高校生になった時にこの先生に教わった事がある。
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【母の口癖】
毎朝毎朝、子供達は強制的に起こされた。
母のスパルタ教育の始まりです。
起こされても起きないときには、
竹の物差しで肩や背中を起きるまでたたかれ、殴られた。
『お母さん!!なんで僕だけこんなに辛い思いをして
早起きしなくてはいけないの?僕の友達は未だ寝ているよ』
『なぜ僕だけ吹雪の中を朝起き会に行かなくてはならないの?』
僕は子供心に不満一杯で母に抗議をした。
母は口癖のように僕や姉たちに言いました。
《お前たちは父親がいないのだから、
人の二倍の努力をしなさい、2倍だよ2倍!》
今も忘れない《人より2倍の努力をしなさい》
母の愛がこぼれるような言葉。そして叱咤。
お陰で今も「朝・4時開店のコンサルタント」です。
<ここまで>
そう、人の「2倍」稼がないと、いけないのである。
この記事も是非、読んでみて欲しい。
「激動の日本」となった今、父の教えをもう一度、頭と心に言い聞かせ、頑張ってやっていこう。