祝ドリームビジョン20周年:若気の至り

今年3月、ドリームビジョンとして20周年を迎えた。

だからと言って、特に何かをしたわけではない。まだ、何も成し遂げられていないので。ある方から先日、facebookで「ドリームビジョン20周年おめでとうございます!」というコメントをいただくまで、忘れていた。

あれから20年。年齢と共に失ったものもあるが、それと引き換えに得たものもある。若い時はそんなことは考えもしなかったけど、来年はあの桜を見れるのかな?とか…。今年はスケジュールの都合で見ることができなかった、いつものジョギングコースの桜の木を見て、そんなことを考えた。

2024年3月、武蔵野EMCの学生5人を連れて、ボストン&NYCの研修ツアーに行った時だったと思う。NYCのホテルでYouTubeを見ていて、何故か、大橋純子の「たそがれマイ・ラブ」という曲が気になり、その曲の成り立ちをChatGPTに訊いてみた。その時の記憶が曖昧だったので、先日、Claudeに質問した。

彼女のヒット曲「たそがれマイ・ラブ」は、作詞:阿久悠、作曲:筒美京平という昭和の最強コンビによる楽曲。歌謡曲という域を超えて、芸術と言ってもいいと思う。

阿久悠という方の知識や物事を深く掘り下げる才能は驚異的だ。下記はClaudeとのやり取りの要約(一部分)。

「19世紀末のベルリン——明治の日本人エリート官僚と貧しいドイツ人踊り子の実話(森鴎外自身)の恋。それを鴎外が1890年に小説として昇華。さらに88年後の1978年、阿久悠と筒美京平が、それをエリス自身の「一人称の嘆き」として3分間のポップソングに凝縮し、大橋純子の声で日本中に届けた。

尚且つ、哀愁が伝わるように、声量のある大橋純子に「抑えて歌うように」と指導したそうだ。本人は納得が行かなかったそうである。物凄い演出というか考え抜かれた作品だということを理解した。

この曲は1978年8月に放送されたTBSの長編ドラマ「獅子のごとく」の主題歌として創られたそうなので、僕が15歳の頃だ。僕はこの曲を知ったのは、もう少し後だった気がするが、いずれにしても、10代後半や20代の頃は、この曲に限らず、その時代のヒット曲がどういう背景や意味を持って創られたものなのか?までは、興味を持つことはなかった。

ありきたりな言い方をすれば、嬉しいことも悲しいことも悔しいことも、自分なりの成功も挫折も経験して、世の中の無情や他人の痛みを分かるようになったということなのだろう。

20代の頃のようなエネルギーや野性味は無くなったかもしれないが、それと引き換えに得たものもあるだろう。

2006年3月。僕はドリームビジョンという会社を設立した。

中学生の頃から日本の教育制度の在り方に問題意識を持っていた僕は、EduTechスタートアップを立ち上げるつもりだったが、自分なりにFeasibility Studyをした結果、自分如きの能力では何もできないと判断し、その構想は断念した。

但し、既に会社を立ち上げて、何人かに声を掛けてしまっていたこともあり、、あまり先行投資が求められず、比較的早く売上を立てられる事業を行うことにした。

また、ライブドアショックで堀江さんが逮捕されたこともあり、スタートアップ冬の時代が来るだろうと思ったことも、その理由でもある。

今にして思うと、そもそも他の事業を行わず、その時点で会社を閉じた方が良かったかもしれない。ここでは詳細は省くが、2025年1月にシンガポールで設立したGoGlobal Catalyst という会社は、同年6月に解散した。何事も撤退は早いほうがいい。傷が浅いうちに。躊躇は禁物だ。

僕がドリームビジョンを立ち上げた背景には、教育に対する問題意識以外に、個人的な理由がある。それは、42歳にして生まれた長男のことだ。

このブログを読んでくれている方の中にはご存じの方もいらっしゃるかもしれないが、当時の僕はインタースコープという、ネットリサーチ業界の中では御三家の一角に数えられていたスタートアップというスタートアップを経営していた。また、同業のインフォプラント創業者の大谷さんと一緒に「インターネットリサーチ研究会」なる団体を立ち上げ、会長にも就任していた。

自分で言うのも何だが、スタートアップ界隈では、それなりに知られた存在だった。

でも、既に黎明期を過ぎ、マーケティング・リサーチの手法として、インターネットリサーチが社会に浸透し、会社としても起動に乗ってきたタイミングで、黎明期に無我夢中で物事を立ち上げることに強いモチベーションを感じる僕は、少しずつ、インタースコープの経営に対する情熱を失いつつあった。

一方、予てからの問題意識である「日本の教育を変える」という大きな問題に取り組むことへの躊躇もあり、その一歩を踏み出せずにいた。

そんな時に生まれたのが、今年、大学3年生になった長男だった。

彼が物心つき、父親の仕事に興味を持つようになった時、狭い世界とはいえ、それなりに実績も社会的立場も収入もあるインタースコープの創業経営者に留まっている自分と、仮に失敗したとしても、リスクを取って長年の問題意識に取り組んだ自分と、どちらの方が胸を張って彼に説明できるか? と考えた。

大概の物事は3年もあれば白黒つく。42歳で始めて、45歳で失敗したとしても、そこからやり直すことはできるだろう。でも、45歳で始めて、48歳で失敗したとしたら、そこから挽回するのは、精神的にかなり厳しいだろうと思った。

それでドリームビジョンを始めたわけだが、案の定、45歳の時に、事業を閉めることになる。以前にも何度か書いたことがあるが、それからの1年間は、晴耕雨読ならぬ「晴『読』雨読」生活をしていた。

あれから17年になるが、あの1年間は、僕の人生にとって間違いなく、inflection point(屈曲点)になった。

ところで先日、偶然、NVIDIA創業者のJensen Huang のインタビュー動画を見た。彼のような方の話を引用するのは甚だ恐縮だが、彼が言っていたことには、100%同感である。僕だけでなく、起業したことがある方であれば、誰しもそうだと思う。

彼はこう言っていた。

“If someone asked me to go back and start the company again, I’d be too scared.”(もし、もう一度、あの頃に戻って起業するか? と問われたら、僕は怖くてできないだろう。)

そして、Jensenは、こう続けた。

“It’s okay. You’ll learn what you need to know as you go along. Don’t underestimate the power of ignorance.”

心配しなくていい。Jensenでさえだ。必要なことは、起業した後でやりながら覚えられるから。むしろ、『無知の力』を信じた方がいい。

失って始めて知ることもあるし、知らないからこそ、挑戦できることもある。それが若さの特権であり、アドバンテージだろう。

でも、もうひと勝負、したいと思っている。とてつもなく大きいやつをねw。

ウイスキーがお好きでしょ。

久里浜港から対岸の金谷港までフェリーが出ている。その日の天候にもよるが片道約40分。今から約2年前、中学一年生の9月に罹患したコロナで、次男は後遺症に苦しむことになる。あれから約2年半。完全復帰には程遠いが、ようやく少しずつ何とか学校にも行けるようになった。

だいぶ回復してきたとはいえ、混雑するGWに遠出は無理だ。先日の会津と郡山の2泊3日の旅行に次いで、今度は三浦半島に住む妻の兄の家に泊まりに行った。

そんなことで、彼のリハビリを兼ねて、東京の我が家からクルマで約1時間半もあれば着く久里浜港からフェリーに乗り、東京湾を渡り、対岸にある金谷港へ向かった。まだ子供たちがいない頃、夫婦でよく行ったルートだった。

しかし、我々は考えが甘かった。金谷港を降りると、127号線は大渋滞。目的地の「鋸山ロープウェイ」を目指すも入口のだいぶ手前からクルマの長い列。仕方なく、ロープウェイは諦め、昼食を食べて帰ろうということになる。

海沿いのオシャレなレストランに入ると、席に案内されるまで30-40分、テーブルに着いてから料理が出てくるまで約20分と案内される。海辺で遊んでいると携帯に着信があり、思いの外、早く席に通された。

4人それぞれにモバイルオーダーを済ませ、談笑していたが、周囲のテーブルも料理が運ばれる気配がない。受付の女性にキッチンに確認してもらうと、オーダー後、1時間ほど待つという。

撤退は早いほうがいい。こちらに来る時も予定のフェリーは満車で乗れず、一便、後になった。

何もすることなく金谷港を後にしたが、予定より一便早いフェリーに乗り、久里浜港に帰ってきた。

その日は義兄の家に泊まり、彼が買ってきた新鮮なマグロを食べた。モノがいいのは当然だが、彼は腕がいい。翌日のサラダとパスタも絶品だった。

Screenshot from YouTube_オリコンニュース(以下同様)

ウイスキーがお好きでしょ」といえば、大概の人はサントリー角瓶のTVCMを思い浮かべるだろう。他にもTVCMはたくさん見ているにも関わらず、その歌詞とメロディーがずっと頭に残っている。何か僕の心に留まる理由があるのだろう。

Claudeに訊いてみると、ギターの弾き語りは「RADWIMPS野田洋次郎」氏。邦楽に疎い僕は、その名前を聞いたことはあったが、CMに出ているその男性が誰かは知らなかった。

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そして、その歌は1990年、サントリークレスト12年(何となく記憶がある)のTVCM用のために企画制作され、1990-1991年、石川さゆりさんが「SAYURI」という別名義で歌っていたらしい。その後、本人名義で「カバー」した。YouTubeでその映像を見つけた。

石川さゆりさんで演歌ではなく、ジャズテイスト」でと、CM音楽プロデューサーの大森昭男氏によるリクエストだったそうだ。ジュリー・ロンドンの「Cry Me A River」をイメージして。

僕も含めて殆どの人にとってTVCMやCMソングは、それほど注意深く見たり聴いたりする対象ではないだろう。素人の僕が解説するのは烏滸がましいが、そのカットのひとつひとつが見事に計算されているように思えた。

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1990年、サントリーが「サントリークレスト12年(終売)」という高級ウイスキーのCM用に作曲を依頼した時と今とでは、日本社会におけるウイスキーの位置づけや意味が大きく異なる。ローヤルやオールドは今も製造販売しているようだが、昭和の古(いにしえ)でしかないそれらを再度ヒットさせることは難しいだろう。

僕が中学高校時代だったので、1970年代半ばから1980年代初頭に掛けてだったと思う。我が家のサイドボードには、サントリーのオールドやローヤルはもちろん、Johnnie Walker (赤黒), Old Par, Chivas Regal 等の高級ウイスキーが並んでいた。昭和のウイスキーは「到達の証」であり、「社会的上昇のメタファー」だった

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1989年(平成元年)には、ウイスキーの等級制度が廃止され、関税が大幅に下がったことで、スコッチに代表される輸入ウイスキーの価格が大幅に安くなった。今にして思うと皮肉なことに、バブル経済崩壊前夜だった。

若者がアルコールを飲まなくなった理由は色々あると思うが、サントリーは「ウイスキー」という商品の「意味の書き換え(RePositioning)」を行う必要があったということだ。そして、それは、ある程度、上手く行っているように思う。

「幸せの定義」も人それぞれに異なる。

ウイスキー」=「昭和の出世物語」=「男性社会」という価値観(意味性)から、職業も年齢も性別も社会的立場も異なる人たちが「人生の余白を満たすもの(寄り道は大事)」に再定義した、ということだと思う。

そこには、同じ組織の上下関係やしきたりもない。一人ひとりの「個人」が、何気ない日常の一瞬を共有するだけだ。「昭和の遺物」だった「スナック」が、若い人たちの間で支持を得ていることにも通じるのかもしれない。

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