東証の100億円ルールは、日本のスタートアップ・エコシステムをどう変えるか?
Crunchbaseによると、米国でシードからシリーズAへの「卒業率」が崩落している。日本でも各ステージ間の間隔は伸びている。表面的には同じように見えても、その原因は、日米で大きく異なる。
2025年、東証はグロース市場の上場維持基準を「10年で40億円」から「5年で100億円」へ改めた。この一手が日本のスタートアップ・エコシステムをどう変えるかを、希望的観測を排して論じてみたい。結論を先に述べるなら、いわゆる「小粒上場」の弊害に対処するために「より過酷なファネル」だけを設置しても、「大きな勝者」という見返りは期待できない。少なくとも5年、いや10年は難しいだろう。
同じ症状、異なる原因。
出発点は、Crunchbaseが報じた米国の異変である。シード調達の中央値は約300万ドルと2018年の3倍に膨らむ一方、シードからシリーズAへ進める企業の割合は、2020年までの55%超から、2023年コホートで24%、2024年コホートで16%まで急落した。シリーズAへの到達も2年を超えた。大きく調達し、しかし先へ進めない——これが米国シードの現在地だ。
日本でも、各ステージ間の間隔は伸びている。Speeda「Japan Startup Finance 2025」によれば、設立からシードまでの中央値は12ヶ月(2021年)から21ヶ月(2025年)へ、シード〜シリーズAは13ヶ月から16ヶ月へ、シリーズA〜Bは15ヶ月から18ヶ月へ。設立からシリーズD以降への到達は87ヶ月(7年3か月)から109ヶ月(約9年)へと延びた。調達社数も、シードで1,245社から855社へと3割減った。


症状は似ているかもしれないが、米国と日本では、その背後にある構造が大きく異なる。まず、米国について説明したい。第一に、時間軸について。ここで効いている力は二つあり、作用する層が違う。金利は「資本の総量」を動かし、AIは「資本の配分先」を動かす。シリーズA通過率の崩落を最初に駆動したのは、AIではなく、2022年3月から始まったFRBの歴史的な利上げである(本パラグラフ末尾の注釈参照)。過剰流動性が逆流し、エコシステム全体の水位が下がった。通過率はコホートを跨いで測られるため、このショックは時差を伴い——通過率が24%、16%へと落ちた2023〜24年のコホートに——遅れて表面化し、コホート分析とも符合する。Infarmへの投資と日本法人の経営を通じて、これは実体験として理解できる。
もう一点、言及すべきことは、ChatGPTのリリース(2022年11月)だろう。まさに、この利上げの最中に起きたことだ。AIの種は逆風の中で撒かれ、2024年9月に利下げが始まり、資本の水位が再び上がった時、その水が、勃興するAIという地形に一気に流れ込んだ。つまり、2022〜23年は金利が主役(量の収縮)、2025〜26年はAIが主役(集中的な回復)——主役が交代したのであって、スタートアップへの投資崩落の原因は、AIだったわけではない。
第二に、集中について。その「潤沢さ」は、かつてないほど一部に偏っている。Crunchbaseによると、2026年第1四半期、世界のスタートアップ投資は約2,970億ドル(約47.5兆円。160円/ドル換算)と過去最高を記録し、その81%がAIに向かっている。OpenAI、Anthropic、xAI、Waymoのわずか4社が四半期の世界投資の64%を占め、米国一国で83%に達する。シードは金額こそ前年比30%増だが、件数は31%減——裾野が広がったのではなく、むしろ、選別され、大型化した。Keith Teare氏がThat Was The Weekで指摘するように、a16z、Sequoia、General Catalyst、Lightspeedといった著名VCがディールの多くを占め、彼らの投資を受けられない企業が、シード以降のラダーを上がるのは極めて難しい。
そして、この「金利=潮、AI=地形」という二つの変数が、日米の対比を鮮明にする。米国では、金利という潮がスタートアップやVCへ大きく影響する。従って、満ち潮が戻った時、米国にはAIという地形があり、資本を惹きつけ直し、頂点へ集中させた。事実、米国ではシードそのものが3倍に膨らんだ。一方、日本のシード中央値は5,000万円前後でほぼ動いていない。日本には、世界と伍して戦える人材もテクノロジーもある。だが、米国の英語圏や中国の十数億人のような巨大な単一市場を持たず、大企業の内部留保も個人金融資産も潤沢でありながら、少なくとも現時点では、そこに向かうリスクマネーは限られている。米国は底打ち・反転し、日本は構造的な収縮が続く。さて、日本はどうするべきか?
※このパラグラフは、Rebright Partnersの蛯原健氏のご指摘——米国のシリーズA通過率崩落の最大要因は2022年のインフレ・高金利によるダウンターンであり、ラウンドの時差で効く(コホート分析とも符合)。AIはむしろ2025年の底打ち要因——を受けて加筆・修正した。データ出所:Crunchbase News, “Q1 2026 Shatters Venture Funding Records…”(https://news.crunchbase.com/venture/record-breaking-funding-ai-global-q1-2026/)

東証の100億円ルール:出口関数の書き換え。
2025年9月、東証はグロース市場の上場維持基準を正式に改定した。従来の「上場10年経過後に時価総額40億円以上」を、「上場5年経過後に時価総額100億円以上」へ引き上げる。2.5倍の規模を、半分の期間で求める基準だ。適用は2030年3月1日以降、上場5年を経過した企業から。未達なら、上場廃止またはスタンダード市場への区分変更の対象となる。
数字には注意がいる。東証自身は、影響を受ける時価総額40〜100億円の企業を「全体の約3割(約200社)」としている。一方、上場5年後に時価総額100億円に届いていない企業は約7割にのぼる、との集計もある。前者は現存上場企業のうちの危険ゾーン、後者は上場後の到達率であり、測っているものが違う。論じる際は、数字の意味の違いを踏まえる必要がある。そして重要なのは、強制力の発動は2030年だが、市場の挙動はすでに変わっているという点である。新規上場の形式基準は据え置かれたが、審査では「将来100億円を超える成長性があるか」が問われるようになった。2025年上期のグロース市場へのIPOは前年同期比で約半減(34社→18社)。主幹事証券は時価総額の大きい案件を優先し、小型の準備企業は支援を得にくくなっている。政策の発動日ではなく、政策の「予期」が、すでにファネルを締めている。
冷静な予測——回復ではなく、バーベル化。
この変更は、単なる上場ルールではない。資本スタック全体が参照していた出口関数の書き換えである。これまでの日本モデルの本質は、小型IPOを「安く・早く・確実な」出口として使う、低分散・低天井の系だった。100億円ルールは、その「確実な床」を抜き、IPOを「5年で7割が脱落する(可能性がある)条件付きの関門」へと変えることになる。

再価格付けは後工程から前工程へ逆流する。第一に、IPOがデフォルトの出口でなくなり、M&A・MBO・セカンダリーが増え、VCはPE的に振る舞い始めるだろう。第二に、100億円を達成・維持できるまで上場を遅らせれば、設立〜IPOの期間は延び、ファンドの時間軸が壊れる。DPIが1倍に達するまでの年数は7年から10年へ延びた。10年満期のファンドは、14年かかる出口を待てない。第三に、ファネルの先端が細る。設立1年未満の調達社数の比率は、2015年の55.5%から2025年の15.9%まで崩落した。


帰結として、エコシステムは三層に分裂(バーベル化)すると予想する。縮小・高品質・高集中のベンチャー軌道、非VC・非IPOのSME軌道、そしてその間で拡大する「死の谷」。最大の構造リスクはLPのドゥームループだ。日本のLPは事業会社が中心で、その配分は順循環的——リターンが悪化すれば撤退する。VCのネット・マルチプルは2020年以降のヴィンテージで1.0倍を下回り、同時期にTOPIXへ投じていれば約30%だったところ、VCは約5%にとどまった。事業会社が手を引く合理的理由は、すべて揃っている。
つまり日本は、高分散モデルへの移行を強制されながら、それを支える燃料——非循環的なLP基盤と、グローバル規模の大型出口——をまだ持たない。旧モデルが解体される速度が、新モデルが組み上がる速度を上回る。当面は、数年単位の「エアポケット」を覚悟すべきだろう。
Gengoというスタートアップの創業者で、現在はShizen Capital というVCを経営する Matthew Romaine が「Who will own Japan’s future?」と題し、とても示唆に富んだコラムを書いている。詳細は彼のコラムを参照されたいが、「Before the celebratory sake flows too freely, it is worth asking a slightly impolite question: why are so many foreign investors suddenly so interested in Japan?」という問いを投げ掛けている。内容の一部を紹介する。「Andreessen Horowitzが唯一の海外オフィスを東京に開設すると発表したのは何故か?」「彼ら(外国人投資家)は、価値と価格、潜在力と実現可能性の間に不均衡を見出した時に投資する。これが最終的に日本にとって利益となるかどうかは複雑な問題だが、外国人投資家にとって利益となるかどうかははるかに単純だ」。是非、彼のコラムの原文を一読されることをお勧めする。
どこに機会があるか。
エアポケットは、逆張りで仕込む者にとっての機会でもある。2010年代、様々なプレイヤーがアクセラレーターやシード投資に参入したが、今後は、構造的な空白はむしろ出口側に開く。脱落予備軍とストール企業が滞留し、技術やIPは持つが国内出口を持たない企業群が、海外の戦略的・財務的買い手を必要とする。クロスボーダーM&Aやテイクプライベートの橋渡しは、反循環的で、混雑していない。実際、シンガポール証券取引所(SGX)への上場支援を掲げる事業者も現れ始めた。「海外出口」という抜け道は、すでに立ち上がりつつある。
もう一つの空白は、グローバルへの「縫い目」である。新しい集中的な資本を引けるのは、大型出口への道筋を持つ企業だけだ。多くの日本企業にとって、それは非国内売上を意味する。ただし、フルなシリコンバレー移転は低歩留まりの誤った賭けになりやすい。日本に構造優位がある領域——ディープテック、ロボティクス、素材、製造隣接SaaS、コンテンツ、高齢社会ヘルステック——を、橋渡し可能な大市場(インド、東南アジア、湾岸、欧州)に意図的に当てる精度が要る。 そして、突破口は「個人」ではなく「チーム」かもしれない。単一のプログラムが一人のグローバルな突破者を生む確率は、客観的に低い。だが、グローバルネイティブの共同創業者と、日本のディープテックや市場アクセスを組み合わせた多国籍チームなら、再現性のある仕組みにできるかもしれない。英雄を待つのではなく、勝てる構造を量産する——ここに、最も現実的な勝ち筋がある。
出口の設計:スタートアップの再設計と多国籍チーム。
日本が「大きな勝者」を創出できない理由は何だろう。同じビジネスモデルの2社があったとして、一社は日本市場のみ、もう一社は英語市場あるいは中国市場にも進出している——少なくとも、進出できる能力がある。投資家は間違いなく、後者を評価するだろう。
スタートアップへの投資額はこの10年で約5倍に膨らみ、起業環境も整った。いわば「スタートアップの製造コスト」が5倍に増えたわけだ。それにもかかわらず、日本のスタートアップの多くは国内市場に閉じている。調達額が増えてもIPO時価総額が伸びない——資本効率が7年で75%崩落した——大きな要因は、ここにあると考えている。

では、グローバルに展開できる会社へ再設計するには、何が要るのか。まず思い浮かぶのは「言語の壁」だろう。だが、言語は結果であって、原因ではない。楽天が社内公用語を英語にした時、日本に生まれ育った人材が二年で流暢に話すようになった、という。実例として、そのような知り合いもいる。必要に迫られれば、能力のある個人は言語を習得する。欧州でドイツ人とフランス人が英語でビジネスをするのも、地続きの単一市場で、対等であろうとすれば英語にならざるを得ないからだ。本当の壁は、言語ではなく「カルチャー」——働き方、意思決定、コミュニケーションの作法を、異なる文化へ適応させられるかどうかにある。
そして、この「異なるカルチャーへの適応」は、どの大型出口を選んでも避けて通れない。グローバルな機関投資家を惹きつける大型IPOを目指すにせよ、海外の買い手へのクロスボーダーM&Aで売るにせよ、求められるものは同じ——文化を越えて事業を動かす力だ。しかも、これは出口の段階で後付けできるものではない。国内で、単一のカルチャーのなかで育った会社が、売却や上場の直前に突然それを獲得することはできない。
だとすれば、解は創業の設計そのものにある。最初から多国籍チームでつくる——これは「入口」の問題、すなわち国内市場とカルチャーの制約を、創業時に解く。だが効用はそれだけではない。多国籍チームは、海外の事業会社やスタートアップにとって「買収しやすい会社」として生まれる。Paidyが良い例だろう。日本のクロスボーダーM&Aを阻んできた摩擦——言語、カルチャー、PMIの非対応——は、実は売り手側が抱えていた。多国籍チームは、その摩擦を源流で消す。つまり、入口の設計が、そのまま出口の解になる。出口を後から「用意する」のではなく、出口の開いた会社として生まれさせる。

ここまでは「海外へ出ていく」解を論じてきたが、もう一つ、まったく逆向きの——国内発の——答えもある。ant innovationsの水本尚宏氏が提起する「業界再編による資本効率の回復」だ。
前述のとおり、投資額はこの10年で約5倍に膨らんだのに対して、IPOの平均時価総額も社数も殆ど変わっていない——故に資本効率が崩落した。氏の処方箋は、小型IPOに代えて、本来上場していた優良スタートアップに対し、成長資金と、既存株主(VC)への流動性(EXIT)を、非公開のまま提供すること。そして、単体では規模の足りない企業を、カーブアウト・MBO・ロールアップによって束ね、100億円の壁を越える規模と、より高いマルチプルを持つ事業体へと再編する——氏の言う「マルチプルマジック」である。
ここに、同じ問題に対する二つの戦略的応答が並ぶ。ひとつは「国内で束ねて規模に達する」再編の道(水本氏/AIN型)。もうひとつは、本稿が論じてきた「最初からグローバルに出る」多国籍チームの道だ。両者は対立しない。むしろ補完する。国内で再編して規模と資本効率を回復させた事業体は、次にグローバル市場へ出る足場になり得るし、グローバルに設計された多国籍チームは、海外の買い手にとってだけでなく、国内の再編プラットフォームにとっても、より価値の高い対象になる。重要なのは、どちらの道を選ぶにせよ、「小型IPOをゴールとする」旧モデルから降りる、という点で両者が一致していることだ。出口は、IPOの一本足から、再編と海外という二本の足へと組み替わる。
一点、創業初日に決めるべき設計がある。基本線の出口が海外M&Aなら、持株会社の所在地——日本のKKか、デラウェアやシンガポールか——を、想定する買い手に合わせて選んでおく必要がある。後からの変更が不可能ではないが、相当のコストとエネルギーを要し、開かれる出口の種類を左右する(具体的なストラクチャリングは法務・税務の専門家の確認を前提とする)。東証へのIPOは、能動的に追わなくてよいだろう。魅力的な会社になれば、東証や証券会社のほうから接触してくるはずだ。
データについての注記
本稿の数値の主な出所は次のとおり。設立から各シリーズへの到達月数および調達社数は、Speeda「Japan Startup Finance 2025」(2026年1月時点)。米国のシード調達額および卒業率はCrunchbase。VCパフォーマンスの指標はPreqinおよびJVCAの集計に基づく。資本効率の崩落および業界再編に関する論点は、ant innovations・水本尚宏氏の公表資料および発言に基づく。なお、過年度のレポートは集計主体がINITIALからSpeedaへ変わっており、レポート間での水準の厳密な比較は避け、本稿では集計主体が一貫する2021〜2025年の系列内トレンドを用いた。
























