見えている世界が違う。

元F1レーサーの中島悟さんが現役の頃だったと思いますが、とても印象深い言葉を残しています。

「こういうことを言うと誤解をされるかもしれませんが、(アラン)プロストの走りは想像がつきます。でも、セナの走りは想像がつかないんです。どんな世界を見ているのか、想像がつかないんです(だから、セナと同じようには走れない)」。

大のセナファンだった僕は、その言葉を聞いて単純に嬉しく思ったのと、中島悟さんが言っていることの意味を何となくですが、理解できるような気がしました。

その中島さんの話しを、つい先日、思い出しました。それは、6月1日に行ったマネックス証券の松本さんとの対談をしている時です。

僕の周りには、自分で創業した会社を上場させた「起業家(創業経営者)」がたくさんいます。

誤解を恐れずに言えば、見ている世界を想像できる人もいます。しかし、松本さんと話しをしていて、感じたことは、「この人が見ている世界は僕には想像がつかない」ということです。

敢えて言えば、理論的に想像することは僕にもできます。しかし、「皮膚感覚で理解することはできないだろうな、それも一生」と思いました。まさしく、「I have realized my limitation.(自分の限界を悟った)」です。

ストレートに言えば、人間としての出来が違う。持って生まれたものが違うので���。改めてそう思いました。

昔の僕(血気盛んで世の中が見えていなかった頃/笑。今もそうかもしれませんが・・・)だったら、かなりのショックを感じたかもしれません。でも、一昨日はそうは思いませんでした。

・・・ここまで書いて、また、別の言葉を思い出しました。それは、僕が20代の頃に勤めていたODSという会社の創業者(当時の社長で今もご健在です)の山口さんが僕に言った言葉です。

「林(その当時の僕の上司)は、大したもんだな。人間、バカなのは、たいしてハンディにならないが、自分がバカだということを知らないのは、物凄く大きなハンディになる。それをあなたに分からせようとしたのかどうかは分からないが、あなたにそう言ったのはたいしたもんだなあ」。

要するに、林さんという当時の僕の上司は、僕に対して「お前は自分のことを世界一バカだと思え」と言ったのです。

ODSの山口さんが僕に言いたかったことは、「自分の能力の限界を知っていれば、自分では分からない、判断できないことがあれば、そのことを判断できる人に助言を求めるだろうし、その方の意見に耳を傾けることができる。しかし、自分の能力の限界を知らなければ、そういう判断自体ができない」ということだったのだと思います。

僕の大好きなゴルフで言えば、自分の「飛距離や実力」を自覚していれば、無謀なチャレンジをして、池にボールを打ち込むことはしないだろうということです。

その頃の僕は、コンサルティング会社に入ったはいいが、まるで仕事ができずに、日々、悩んでいました。今にして思うと、あの頃は完全に「自律神経失調症(拒食症)」だったと思います。体重が今よりも10キロも少なくて、食欲が殆どなく、たったひとつのロールパンとポテトサラダとコーンスープのランチセットを全部食べることが出来ませんでした。自分でも不思議でした。

松本さんは中学か高校の時、物理で「世界的な功績」を残すことはできないだろうと悟ったそうです。それ故に、物理学の世界に進むことはしなかったそうです。

僕は、中学や高校時代、そんなスケールのことを考えたこともなかったし、自分ができるとも思いませんでした。当時、バンドをやっていた僕が思っていたことは、日比谷の野外音楽堂で、満員の観客のもとでコンサートができて、観客の方から心からのアンコールをもらえたら、その場で死んでもいい(今にして思うと恥ずかしい話しです/笑)ということぐらいでした。そのことも、なかなか実現できることではないのは事実ですが・・・。

30才でゴールドマンサックスの最年少パートナーになった人なのですから、冷静に考えれば、当たり前のことかもしれません。松本さんの人間性の良さ故、僕のような人の話しも聞いてくれるので、そういうことを考えなかっただけなのでしょう。

ひとつだけ、僕が自分自身のことで自信を深めることができたことがあります。

それは、僕がドリームビジョンを始めようと思った「理由」のことです。

そして、そのことを決して忘れずに、ドリームビジョンを経営していこうと思います。

僕にとって「2番目の起業」だったインタースコープは、自分自身の成功をドライビングフォースにして創った会社でした。

もちろん、そこには、当時は海のものとも山のものとも分からない「インターネットリサーチ」という手法は必ず、社会の役に立つし、きっとそれが「デファクトスタンダード」になる日が来るという「信念」がありました。だからこそ、統計の権威と言わる諸先生達に扱き下ろされても、直接に罵倒を浴びせられても、平気でした。でも、そこに私利私欲が無かったと言ったら、それは嘘になります。

一方、先日のBlogにも関連することを書きましたが、ソフトバンクの孫さんが日経新聞のインタビューの中で、「若者が一攫千金を夢見てチャレンジすることを否定してはいけない。それが活力になる」と言っています。そして、僕もそう思います。しかし、本当に世の中から認められ、永く続く会社を創るためには、そういう次元では創れないだろうとも思います。

しかし、人間は「途中」で変わることができます。僕もそうありたいと思っています。

これから書く内容は、僕が松本さんには敵わないと思っていることの理由とは異なるし、僕が松本さんに「透明感」や「崇高さ」を感じている理由とは違うのですが、まさしく「今現在」の僕が直面している現実に関連するテーマだった故に、僕にとっては、とても印象に残っていることです。

それは、創業経営者の「シェア」に対する考え方です。

今現在の僕が直面している現実とは、この先、ドリームビジョンの創業経営者として、自社に対する「シェア(持株比率)」をどの程度にするか?どうやって保つか?ということです。

その背景には、ある「トラウマ」があります。

僕はインタースコープにおいては、創業経営者でありながら、自分のシェアを大きく失いました。

これは本心ですが、自分のシェアではなく、インタースコープの事業を伸ばすために必要な資金を調達することの方が当然、大切だし、そのためであれば、自分のシェアには拘らない、そう考えて経営をしてきました。しかし、結果的には、自分の理想とする経営はできなかったし、自分で納得のいく結果も残せませんでした。

でも、それは、シェアの問題ではなく、自分の「能力」と「ドライビングフォース」に問題があったと思っています。

松本さんが僕の「これからの人生において成し遂げたいことは何か?」という質問に対して、一言一句は覚えていませんが、「特に、そういうものはありませんが、これだけは『したくない』と思っていることがあります。自分の『操』を失ってしまったら、頑張れなくなってしまいますから」と答えているのを聴きながら、自分の心の奥底にある、あることを思い出していました。

今日のBlogでは、そのことを書くつもりはありませんが、それは、僕にとって、「2度と起こしてはいけない間違い」です。そのことを、改めて考えていました。

僕がドリームビジョンという会社を通じて、世の中に「実現」させていこうと思っている「理念」は、僕の私利私欲ではなく、社会的に極めて有意義であり、より良い社会の実現に通じることだと思っています。そして、そのことは、弊社の「企業理念」として明文化しています。

松本さんがSONYと折半出資でマネックスを創った時、「証券会社」という、人々のお金を扱う極めて「公共性」が高い事業を行う会社において、ある特定の個人や法人が大きなシェアを持っていることは好ましくないという理由で資本政策も考えたし、必ず、株式公開をさせる(パブリックカンパニーにする)ということを「投資契約」に盛り込んだそうです。

松本さんは、「会社(ベンチャー企業)というのは、最初は創業者と同じ(一心同体)ですよね。でも、成長していくと共に、だんだんと少しずつ、分かれていくじゃないですか。タイミングを間違うと会社が存続しなくなってしまいますが、徐々に『親離れ、子離れ』が必要だということです」と言っていました。

このことは、僕もそう考えているし、特に、違和感を覚えはしませんでした。

しかし、松本さんが、「自分自身は『民主的なプロセス』を経て選ばれた人間(経営者)ではない(自らの意志で事業を興した創業者という意味)し、人間は年を取ると必ず、間違いを起こす。なので、必要以上に高いシェアを持っていることは必ずしも良いことではない(むしろ危険である)」と言っていたことは、こうして、夜中にBlogに書くほどに、僕の脳裏に強烈に刻印されました。

この話しは、たかがBlogに書くようなレベルの話しではないし、僕レベルの人間が論じられるような話しでもありません。そのぐらい「奥が深い」話しです。

ソフトバンクの孫さんが、vodafoneを買収するに際して、ご自身のシェアの問題もあり、増資での資金調達には限界があるという話しが新聞等に出ていましたが、それは、「これだけの大勝負ができるのは、孫さんのような人だからであり、その孫さんが経営のトップとして采配を振るうためにも、ある程度のシェア(資本の論理)を保つことが必要である」ということだと思います。そして、それは事実だと思います。

しかし、より多くの人が「共鳴」する「崇高な理念」を持ち、それが「よい良い社会の実現」に寄与することであり、それを実現するには「その人でなければいけない」何かを持っていれば、「資本の論理」に依拠する必要はないのかもしれません。

しかし、難しいのは、その会社のステイクホルダーが、必ずしもそういう判断をできるとは限らない、ということです。リスクが高いことであれば、その事業の社会的価値がいかに高かろうが、自分たちの利益を優先して、その判断を否定する可能性もあるからです。

松本さんは、こうも言っていました。

「市民、顧客、株主、従業員(社員)というのが会社のステイクホルダーであり、『経営者』はステイクホルダーではないのです。それらのステイクホルダーのために存在しているのが、経営者なのです。にも関らず、経営者の『居心地』がいいことを優先して経営の意思決定がなされていることが多い」というようなことを言っていました。

考えさせられる話しです。

松本さんは、身体中からエネルギーが溢れ出ているような人ではありません。しかし、その内面には、確固とした「信念」があり、揺るぎない「強い意志」を持っている人です。僕も、そんな人になれたらと思います。

そして、社員の人達は、経営者のことをよく見ています。

いくら口先で偉そうなことを言っても、このBlogで偉そうなことを書いても、行動が伴わなければ、評価はされません。

その厳しい視線を常に意識して、頑張っていこうと思います。

まだまだ、煩悩を捨てきれるとは考えていませんが・・・。

追伸:もうひとつ、松本さんが「(企業にとって)有事の時」に関する話しをしていましたが、それに関しては記憶が曖昧なので、内容を確認してから書きたいと思います。