「過剰志向」と「過剰反省」

この言葉は、「希望の見つけかた(日経BP社)」という本で知った。

この本は、精神科医にして哲学者である「ヴィクトール・E・フランクル博士(1905~1997)」が唱えた「意味への意志」という概念に基づき、いかにして人生を意味あるものにしていくか?ということを、アレックス・パタコスという人が書いたものである。

何冊かの本を同時並行で途中まで読んでは放置する癖がある僕は、まだ、この本を読み終えていないが、とても多くのことを学んでいる。この本を読み始めたのは、まだ、インタースコープの経営陣として仕事をしていた昨年の秋だったと思う。

明日か明後日にでも、このブログで書こうと思っているが、今更ながら自分がやっていることの「責任の大きさ」に気がつき、ここ数週間、前向きでありながら、やや重たい気持ちに支配されていたこともあり、久しぶりに読みかけの『希望のみつけかた』を手にした。そこで目にしたのが、「過剰志向」と「過剰反省」という言葉だった。

要するに、自分に対しても周囲に対しても「過剰な期待」をしてしまうため、それが実現できないことに「苛立ち」を覚え、また、実現できなかったという「現実」に対して「過剰な反省」をしてしまうということである。

完璧主義者と言ってもよいかもしれない。

以前の僕は、そういう傾向があった。それ故に、自分自身も相手をも責めてしまうところがあり、「心の安定」とは程遠かった。

「過剰志向」と「過剰反省」という言葉を説明しているページは読んでいなかったが、そのことを表す事例を説明しているページは既に読んでいたようだが、改めて読み返してみると、初めてそのことの「意味」を理解したような気がする。つまり、最初に読んだ時には、その本質は理解できていなかったということだろう。

人間は、文字から何かを吸収することは容易いが、そこに込められている「意味」を理解する、その「本質」を理解することは、実は簡単ではなかったりするように思う。

実際に自分が経験をしてみて、初めて気がつくことがあるのだろう。昨日はそのことを改めて感じた一日だった。

「坊主頭のりょうへいさん」がいつもコメントしてくれているように、正しい v.s. 正しくない、すべき v.s. すべきでない、という考え方よりも、「楽しいか? v.s. 楽しくないか?」という尺度で物事を判断した方が、モチベーションが上がり、物事を推進できるような気がした。実にシンプルな話しだ。そのことを考えた。