幼稚園の頃。

もう30年以上前のことになるが、僕は幼稚園の初日、家が恋しくて泣き出してしまった。

友達が楽しそうに遊んでいる中で、園庭の門のところで、ここから飛び出して家に帰りたいという思いを必死に堪えていたのだが、どうしても、たえきれず、泣き出してしまった。今でもよく覚えている。

いつだったか、インタースコープを一緒に創業した山川さんから、最も古い子供の頃の記憶が、その人の人間性の本質だというような話しを聞いたことがある。

最も古い記憶という意味では、幼稚園に入る前に、母方の親戚と一緒に温泉旅行に行った時のことが、ぼんやりとではあるが記憶に残っている。それは「楽しかった」という記憶である。

幼稚園のことに話しを戻すと、初日に泣き出してしまった僕だが、その後は楽しく通っていた。

ある時、幼稚園の後ろにある川で遊んでいたのだが、幼稚園に戻ると、だいぶ時間が過ぎていたようで、送迎のバスは既に出発していた。それで、仕方なく、友達と2人で歩いて帰ったような想い出がある。たかが裏の川だったが、その時の自分にとっては、「未開の地」に足を踏み入れたような感覚だったことを覚えている。

その一方、ある時期、登園拒否になったこともあった。

特に、幼稚園がおもしろくなかったとか、誰かに苛められていたということではないが、本質的には「内向的な性格」の僕は、祖母に守られた自宅で、緊張感のない、やわらかい、温かい環境で過ごすことが、最も快適だったのだと思う。

起業をした今でも、時々、自分をストレッチしながら何かに挑戦することが辛くなることがあるが、それが、僕の本質なのだろう。

なりたい自分になるのではなく、本来の自分(素材)を活かして、なれる自分になるということが、自分らしく生きるということかもしれない。

まあ、ええか。

テン・スターズ・ダイニングという会社をご存知の方はいるだろうか?

大坂出身の吉田さんという方が経営されている飲食業の会社である。その吉田さんに、Y-CUBEという会社が主催するセミナ-でお会いした。

1953年生まれで現在53才、笑顔がとてもステキな方だ。もうひとり、僕の目標とする人ができた。

その方は、26才の時、大坂でお好み焼き屋を始めた。900万円を親から借りて。でも、半年で潰してしまったという。

しばらくして、単身上京し、27才の時に「原宿」でリベンジを企て、「お好み焼き屋 TEN」という店を出し、成功した。

その後、業態を「鉄板焼き」に変更し、今では10店舗(だったと思う)の店を経営している。

その吉田さんが会社案内の表紙に「まあ、ええか」と書いている。

いままで、いくつも失敗してきたけれど、いつも笑っていたそうだ。「まあ、ええか」と言って。

「楽しいから笑うやなく、笑うから楽しくなる。楽しかったら、何とかなりますもん」。

明るい性格の持ち主なのだろう。羨ましいと思う。

そして、こうも書いている。

「ぼくは親父の金で商売始めた。今度は、ぼくがみんなの親父になる番や」。

「僕は、ボンボンやったから親に借金して保証人になってもらって、この会社をはじめた。それを今度は、みんなのために、ぼくが親父の代わりになろう、と思っています」。

こんなふうにも言っている。

その前に、まだまだ頑張らないといけませんが、僕もはやく、そんな親父になりたいと思う。

J-POP

20代の頃は「洋楽一辺倒」で邦楽は殆ど聴かなかったが、30代になってからは、少しずつ邦楽を聴くようになった。

学生の頃は、ブラックコンテンポラリーが好きで、レイパーカーJr.やLL Cool J、EWFあたりをよく聴いていた。社会人になってからも、その傾向は変わらず、ベイビーフェイスがプロデュースするアーティスト等がお気に入りだった。あとは、アシッドジャズが好きで、Brand New Heavy’s やミシャ・パリスなんかを聴いていた。

それが結婚して暫くしてからだろうか。急速に、洋楽を聴かなくなっていった。

結婚するまでの僕は、家にいる時はテレビは殆どつけず、FMラジオを流していて、新しい楽曲の情報源にしていたのが、僕の妻は「テレビッ子」で、彼女のために仕方なく、FMラジオの代わりにテレビをつけるようになった。

それで少しずつ、洋楽の最新事情から疎くなり、そのうち、殆ど洋楽は聴かなくなってしまった。CDは400~500枚ぐらいはあると思うが、それらの大半は結婚する前に買ったものである。

洋楽を聴かなくなったことと直接の関係があるわけではないが、ここ数年は「邦楽」いわゆる「J-POP」と言われる曲を聴くようになった。

それは、妻の影響も少しはあると思うが、最も大きな影響は、古くからの友人である佐藤 裕氏のように思う。

彼は、自分の会社を経営し始めて、かれこれ10年近くになるが、ウェブサイト構築や映像製作、最近は、ウェブアプリケーションの開発等の仕事をしている。

その彼とは、ここ5~6年、定期的にゴルフに行っているが、彼の車で行くことが多く(2年前まで僕は車を持っていなかった)、車中でよくかかっていたのが「J-POP」だった。

彼は職業柄、流行りの曲には極めて詳しい。

それまでの僕は、J-POPを聴くなんていうのは極めて「ミーハー」でカッコ悪いことだと考えていたが、そういうステレオタイプな考え方こそ、頑固でカッコ悪く、自分の可能性を狭めているような気がしてきて、自分から、いわゆる「流行りもの」の邦楽を聴くようになった。

話しは変わるが、先程、初めて、iTunes Music Store で買い物をした。

購入した曲は、「BoA: Winter Love」「平原綾香: Jupiter」「村治佳織:アルハンブラ宮殿の想い出」の3曲である。

僕のPCは「MacBook Pro」で、このエントリーも、iTunes でそれらの曲をかけながら書いている。

便利な世の中になったことを実感すると共に、iTunes のインターフェイス(GUI)がメチャクチャカッコ良く、やはり、マックは違うな!!!と思った。

僕は、やはり、効率(ウィンドウズ)よりも、創造性(マッキントッシュ)的な方が好きだ。

そして、そういう生き方をしていきたい。

追伸:先週の金曜日、裕と久しぶりに食事をしたのだが、その時に彼から「(友人達の)中には平石のことを『ドンキホーテ』のように思っている人もいると思うよ。なんでわざわざ3度も起業するわけ?ってさ。でも、起業家なんでしょ!!!(笑)」と言われた。好きで苦労をしているわけではないが、それ(不器用な生き方)しかできないし、それが僕の本質なんだろう。ここまできたら、それを極めるしか・・・ない。久しぶりに裕と会って、勇気をもらった。

人生の時間

僕が「人生は短い」と思うようになったのは、35才になった時だった。初めて創った会社が丸7年経った頃だ。

それまでは、持って生まれた才能は別として、人生の時間は「無限大」のような気がしていたが、折り返し地点を迎えた気がして、僕の人生に残された時間は確実に短くなっていくことを理解した瞬間でもあった。

あれから8年の歳月が過ぎた。

もう一度、7年という時間が過ぎると、僕は「50才」になる。なぜか今日、そんなことを考えた。

35才になった時も50才の自分をイメージして、20才から35才までの時間がもう一度訪れると僕は50才になると思い、人生は短いと思うようになった。35才で、その50才を意識してから、約半分の時間を過ごしたことになる。

時間の感覚でいうと、インタースコープを創業してから退任するまでが「丸6年」。あっと言う間だった。と同時に、それまでの人生では経験することのなかった様々なことを経験することができた。

あと7年経つと、悠生は8才、小学校2年生になる。父親の仕事のことも理解できるようになる頃だろうか?

振り返ってみると、僕の人生は、6~8年周期で大きな変化があるようだ。

話しは変わるが、僕のブログに「皆勤賞」でコメントをしてくれている「坊主頭のりょうへいさん」が、こんなコメントをしてくれていた。

「人生というものは、会うべき人には、会うべき時に、必ず会うことになっている。早すぎることもなく、遅すぎることもなく」。

これからの7年は、今までとは異なるタイプの人達と出会い、異なる価値観に触れ、異なる自分を発見し、歳を重ねるのを楽しめる「50代」を迎えられるように頑張ることにしよう。

今日、そう決めた。

自分自身の本質

2年ぶりの宮崎(NILS)は、あいにくの天気だった。風邪をひいていたこともあり、体力的にはキツイ2泊3日だったが、2年前とは違った発見があった。

主催者から外部のウェブ等への投稿は禁止されているので内容は紹介できないが、SONYの出井さんの話とオプトの海老根さんの話は勉強になった。

ところで、今日の出社前に立ち寄った渋谷で、「THE BIG ISSUE JAPAN(ビッグイシュー日本版)」を買った。僕がこの雑誌を買ったのは、2回目である。

ご存知の方も多いと思うが、ビッグイシューはホームレスの人々の仕事をつくり、自立を支援する目的で発行されている雑誌である。60歳代と思われる優しい笑顔をした男性が、渋谷の街角でビッグイシューを売っていた。

さっそく雑誌を開くと、3ページ目に「私の分岐点」という連載コーナーがあり、俳優の三田村邦彦さんのインタビューが載っていた。

彼は1953年生まれで、僕よりもちょうど10歳年上になる。僕も三田村さんのようなステキな50代を目指したいと思う。

その三田村さんは劇団の養成所で芝居の勉強をしていた時に、映画の主役の話を「2度」も断ったことがあるそうである。

そのひとつが、結果的には出演をした「限りなく透明に近いブルー」だという。村上龍さんとは同年代らしい。

村上さんが「どこがおもしろくないんだ?」と言って、三田村さんの意向に沿うように台本を練り直してくれたにも係らず、三田村さんが出演を拒んでいたところ、劇団の先輩だった蜷川幸雄さんに、「お前、本当の馬鹿じゃないの?一生に一度あるかないかのチャンスを2度も断るなんて、コレ逃したら、お前は永遠に世に出られないぞ」とどやされたらしい。

その時、蜷川さんに、「お前みたいな頑固者は、価値観が変わるほどのショックを受けないとダメだ」という意味のことを言われたそうである。

そして、その言葉が、その後の人生でもずっと頭に残ってしまったという。

また、三田村さんは(自分では)カツラが似合わない(と思っていた)ので時代劇は断っていたらしいが、お父さんがガンで入院していた時に「お前、時代劇はやんないのか?オレ、時代劇、好きなんだけどなぁー」と言われたことがあったそうだ。

実は、その前日、時代劇の話を断ってきたばかりだったというが、お父さんの話しを聞いて翻意をし、時代劇に出たという。

そして、それから10年間ほど時代劇をやったらしいが、その時に知り合った役者さんたちは、一生つき合える友人になったそうだ。

「オヤジが、友達という財産を残していってくれたんですね」と語っている。

ところで僕は、正直に言うと、駅でベビーカーを持っている母親が階段を降りるのを手伝ったり、ホームレスの方からビッグイシューを買ったりするのを躊躇するところがある。ストレートに言えば、「仕事ができる人とはイメージが異なる」という思いがある。

でも、僕の本質は、そういうところにあるのであれば、むしろ、そのことに目を向けた方が良いのかもしれない。

足を止めて、ビッグイシューを買わなかったら、三田村さんの話を読むこともなかったし、こうして、ブログに書くこともなかったわけだから。

NILSに関しても、外的刺激や発見よりも、内的な意味での発見や価値が大きかったように思う。

ガリバーインターナショナルの羽鳥さんがプレジデントビジョンで「他人がどう思うかではない、どう生きたかだ」と言っているが、そう言い切れて、そう生きている人は強いと思う。

羽鳥さんには、そういう強さを感じる。

今日から宮崎

2年ぶりの宮崎である。初回のNILS(New Industry Leaders Summit)で行って以来だ。

そもそもNILS自体が初回以来である。あの時と較べると規模も大きくなり、雰囲気もだいぶ変わったのだろうと思う。

今回は、ゲストでSONY最高顧問の出井さんもいらっしゃるらしい。とても楽しみである。

新たな出会いと発見に満ちた素晴らしい3日間にしたい。

東京の銀杏並木

ここのところ、悠生がまた夜中に起きるようになってしまい、それにつき合わされて睡眠不足が続いたせいか、週末から具合が悪くなり、遂に、風邪をひいてしまった。鼻水が出るのと熱が少しある。子育ては「体力」だということを痛感させられる。

ところで、今日は朝から悠生を連れて、お茶の水にある小児科に連れて行った。以前にもブログに書いたが、発達障害の可能性があるということで、1ヶ月程前に連れて行った病院である。

その時は、妻はひとりで連れて行ったが、地下鉄は「エレベーター」がついていない駅が多く、女性がベビーカーを押して、ましてや、離乳食やミルクなどの荷物を持って出掛けるのは、かなり大変である。それで、今日は僕が車で連れていった。今朝は雨が降っていたし・・・。

つい先日も、原宿の駅で外国人の女性が小さな子供をひとり連れて、尚且つ、ベビーカーで赤ちゃんを連れており、どうやって階段を降りようかと困っていたので、ホームまでベビーカーを運んであげた。

僕が通り掛るまでに、何十人という人が通り過ぎたはずだが、誰一人として、彼女に手を差し伸べようとする人はいなかったのだろう。日本人のひとりとして、少々残念に思う。

ところで、恵比寿の自宅からお茶の水までと、お茶の水から恵比寿の保育園までの道すがら、フロントガラスからは、すっかり黄色くなった「銀杏の木」が目にとまった。

たしか、都の樹木になっていたと思うが、都内の道には「銀杏の木」が植えられており、銀杏並木が多いことに改めて気がついた。

いつだったか、とてもお世話になっているデザインクエストの山内さんという方が「子供ができると季節の移り変わりがとてもよく分かる」と言っていたが、そういうことかもしれない。

ところで、話しは変わるが、週末(日曜日)は、元インタースコープ社員のジローと現在も頑張って働いてくれている長島さんの結婚披露宴に参列させていただいた。これも子供ができたせいなのか、彼らの表情に「人生の時間」を感じた。

そして、披露宴の最後に、長島さんがご両親とお兄さん宛の手紙を読んでいたが、最後まで涙を見せず、活き活きとした表情で読んでいた姿がとてもステキだった。

また、詳細は省くが、ちょっとしたハプニングがあったお陰で、悠生を式場まで連れて行くことになり、インタースコープの皆に悠生を会わせることもできたし、とても良い記念になった。

ジロー&長島さん 末永くお幸せに。

ここ最近、自分の中で色々な感情が沸いては消えるというのが繰り返されているが、何となく、何かが変わっていくような気がしている。

今までのような我武者羅さと優しさが取柄の人間から、「静」の中にも「芯(強さ)」がある人間になりたいと思う。