今日のエントリーは、久しぶりにかなり長くなりそうなので、忙しい方は週末にでも読んでいただければと思う。
さて、今週の水曜日、クルマ好きな人なら誰も知っているであろう「篠塚健次郎」さんとお会いする機会があった。
日本人で初めて「パリ・ダカール」ラリーで総合優勝(世界一)をされた、ラリードライバーとしては世界的に有名な篠塚さんのお話しを、たった15~16人で2時間も伺うことができた。
篠塚さんは、とても「澄んだ瞳」をされており、58才という年齢を感じさせない瑞々しさを持った方だった。
篠塚さんの話は約90分ぐらいだったが、非常におもしろく、そして、示唆に富んでいた。
「爽やかな感動」と形容したらいいだろうか?久しぶりにワクワクしたというか、少年に戻ったような気持ちになった。
その時のことを僕のブログを読んでいただている方にもシェアしたいと思い、篠塚さんの話しから僕が学んだこと、印象的だったことを紹介したいと思う。
まず、僕が彼の話しから学んだこと、印象に残ったことを整理してみたい。
★チームの全員が「目標」と「役割」を理解していなければ、絶対に上手くいかない。
★人生で大切なことは「出会い」と「変化の時期」の過ごし方。特に、「変化」の時の「出会い」は、その後の人生を大きく変えることになる。
★自分が調子がいい時は行き過ぎる。一番危ない。自分を客観視してくれる配偶者が必要だ。
★人生は何が幸いするかは分からない。
まず、最初の「目標」と「役割」について。
ラリーはフランスが本場だが、フランス人は常に「何をするのか?」ということを尋ねるという。「パリ・ダカ」に出場するというと、そこで「何をするんだ?」と訊かれるらしい。
「優勝」を狙うのか? 「表彰台(3位以内)」を狙うのか? 「10位以内」を狙うのか? 「完走(それすら難しい)」を狙うのか?
優勝できるチームは必ず、全員が「目標(自分たちは優勝を狙っている)」ことを理解・共有しており、そのための「自分の役割」を自覚しているという。
こんな話しをしてくれた。
砂漠や山の中といった悪路をフルスロットルで走るので、途中でパーツを換えたり、故障したところを修理したりする必要がある。
例えば、ギアボックスを換える時、オイルの温度は「160度」ぐらいになっているらしく、間違ってオイルが手に触れてしまえば火傷するのは必至である。でも、ちょっと(数分)待てば、100度ぐらいに下がる。15~20分待てば、もっと下がるだろう。
「優勝」を争っているチームであれば、1分はもちろん、1秒も無駄にしたくない。でも、「10位」以内が目標ならば、2~3分は待てるかもしれないし、「完走」が目標なら、もっと待てることになる。
そのこと(自分たちの目標)をチーム全員が共有していれば、言葉が通じなくても、判断はぶれない。事実、優勝を目指すラリーチームには100人?ぐらいのメンバーがいるらしいが、様々な国籍の人間がいて、満足に言葉は通じないらしい。でも、チームは「機能する」という。
次の「出会い」と「変化」について。
篠塚さんがラリーを始めたきっかけは、大学時代の友人がラリーに出場するということで、そのナビゲーターをやって欲しいと誘われたことだったという。でも、その時は、ラリーという言葉さえ知らなかったらしい。
しかし、その方と一緒にラリーに出て、ナビゲーターとして「4輪ドリフト」でコーナーを回っていく迫力を経験して、一発でラリーの魅力に取りつかれたと言っていた。
篠塚さんに言わせると、「ラリーが向こうからやってきた」そうだ。最初に走ったのがサーキットだったら、F1ドライバーを目指していたかもしれないと言っていた。
彼は学生時代からラリードライバーとして頭角を現し、ファクトリーチーム(自動車メーカーのチーム)の間でも知られる存在になっていったが、プロのラリードライバーにはならず、三菱自動車の「サラリーマン・ドライバー」になった。
その当時、プロのラリードライバーのギャラは安く、諸先輩たちに「サラリーマン・ドライバー」になった方がよいと勧められそうだ。
三菱自動車に就職し、平日はフツーのサラリーマンの仕事をしながら、週末はラリーの試合に参戦するという生活を続けていき、海外の試合にも出るようになっていたが、1973年のオイルショックをきっかけとして、三菱自動車のみならず、すべての自動車メーカーがラリーから撤退することになる。
篠塚さんが「27~35才」までの「8年間」、つまり、ラリードライバーとして最も脂の乗り切っている時期を、彼は文字通り、フツーのサラリーマンとして過ごしたという。相当なショックだったと思う。
僕は篠塚さんの講演が終った後、すぐに質問をした。
「その時はどんな心境だったのか?どうやって腐らずに、モチベーションを保っていたのか?」
篠塚さんの答えは、「自動車メーカーにとってモータースポーツは絶対に必要なことであり、必ず、また、ラリーに参戦する時が来ると信じていた」というものだった。
でも、会社帰りに一杯飲んで帰るという生活をしていたせいで、63kgだった体重は73kgに増えたと言っていた(笑)。
その時の選択肢として、三菱自動車を辞めて、プライベートチームでラリーに出場することもあったかもしれないが、それでは「勝てない」ということは分かっており、「勝機」が来るのをじっと待っていたという。辛抱強い人だ。
その次の「自分が調子がいい時は行き過ぎる。一番危ない」ということについて。
篠塚さんは、1986年にパリ・ダカールラリー(パリダカ)に初出場し、その翌年、日本人で初めて「表彰台(3位)」に立った。成田に帰ってくると、大勢の報道陣が待ち構えていて、物凄いフラッシュを浴びたという。
それまでは、日本では「パリダカ」という存在はそれほど知られていなかったが、たまたま、NHKが日本ではまだ知られていない海外の文化やスポーツ等を取り上げていた時期だったらしく、篠塚さんが「パリダカ」で「3位」になったことを他のメディアも含めて大きく取り上げたらしい。
そして、1997年の「パリダカ」で、彼は日本人として初めて「優勝」する。物凄い快挙である。その時、篠塚さんは、48才。ドライバーとしては、とっくの昔にピークを過ぎている。
僕は彼に質問をした。「いろいろな要因があると思いますが、何か大きかったんだと思いますか?」
彼は、暫く考えた後、「しつこくやってきたからでしょうね。潔い方がかっこいいかもしれないけど・・・しつこさが大切だと思います」と話してくれた。
さて、「調子がいい時は危ない」という話だが、それは彼が三菱自動車を退職し、カルロス・ゴーン体制の日産自動車のドライバーとして「パリダカ」を走っていた時のことを引き合いに出して話してくれた。
彼は当時、51才(or 52才)だったが、三菱自動車としては、そろそろ「潮時」だろうということで、ラリーからの「引退」を要求してきたそうで、彼は何の充ても無かったが、仕方なく、三菱自動車を退職した。その彼に、声をかけたのが日産自動車で、彼は日産自動車の契約ドライバーとして「パリダカ」を走っていた。
その時の1位と2位は「三菱自動車」のクルマ(ドライバー)で、彼は「3位」につけていたらしい。日産自動車として初参戦の「パリダカ」で、いきなり「3位」は上出来である。
実は、最初の3年間で「3位」入賞、4年目で「優勝」というのがゴーンさんの「計画」だったらしいが、ゴーンさんはとても厳しい人で、絶対に計画を達成する必要がある。逆に言えば、計画を達成できなければ、ラリーから撤退するのは目に見えている、ということだったらしい。
篠塚さんは、そのことが分かっていたので、何とか「3位」をキープしたかったそうだ。初年度で「3位」入賞すれば、その後、3年間は無条件で大好きなラリー、それも「パリダカ」に出場することが約束されるのである。
それで、ついつい「無理」をしたという。あるところで「大クラッシュ」をして、ヘリコプターで運ばれるという大事故を起こした。
そのことをマスコミが大きく報道したことに配慮し、日産自動車は、その翌年、「パリダカ」から撤退してしまう。
その話しをしながら、篠塚さんは「配偶者」の大切さを話していた。特に、プロのドライバーは常にハイになっているので、それをいつも横で見ている配偶者の存在はとても大きい(必要な存在)と言っていた。
もうひとつの、「人生は何が幸いするかは分からない」について。
「パリダカ」参戦2年目の時に、あるラリーで、篠塚さんが「パリダカ」で乗るはずだった車がクラッシュしてしまい、仕方なく、フランスにあった車で出場したところ、その車がとても良く出来ていて、結果的には「3位」入賞に繋がったという話しだった。
さて、話しはだいぶ長くなってしまったが、篠塚さんとの「出会い」は、僕の人生に何らかの「変化」や「影響」をもたらすかもしれない。
早速、彼の本を読んでいるが、リクルートの江副さんの本と同じような「興奮」を覚えている。
何が共通しているのか?を考えてみたが、「夢を持っている」とか、常に何かに「挑戦する」とか、ふたりの「生き方」そのものが「イノベイティブ」であり「チャレンジング」であることが、共通しているような気がする。
僕自身、そういう「生き方」をしたいと思っているし、ドリームビジョンはそういう生き方を志向する人たちが集まる会社にしていきたい。
因みに、ドリームビジョンでインターンをしている学生のひとりは、フォーミュラカー(レース)のあるカテゴリーで、ドライバーとして「全日本チャンピオン」になったことのある奴で、本気で「F1レーサー」を目指している。
彼に、「篠塚さんに会って、サインも貰ったよ!!」と言って、彼の本を見せたら、目を輝かせていた。
彼にも是非、「夢」を実現して欲しい。
追伸:今日はこの後、インターネットリサーチを一緒に盛り上げてきてくれた吉澤さんが創業したマーケティングジャンクションの10周年記念パーティに参加させていただくことになっている。「夢」を持ち続けている人は、いくつになっても若々しい。僕もそうありたい。