「目的」と「手段」。

10日ぐらい前のことだが、インタースコープの設立にも携わってくれたある人から、何年かぶりのメールが届いた。

「ようやく楽になりましたか(笑)」と題したそのメールを読んで、気持ちがとても楽になった。

「平石さんが好きなことをして、平石さんが好きなことを書けばいいんです。読者はそれを最も望んでいるはずです」。彼のメールには、そう書いてあった。

因みに、ブログを書き始めて、かれこれ4~5年になるが、ある時から、僕にとってそれは、公開で行う自分との対話だということに気がついた。

もちろん、公開なので、書けることと書けないことがあるが、書くことで自分の気持ちの整理がつき、挫けそうになる自分を励ますことができたり、自分が大切にしているものを再確認することができる。

ところで、ゲーテは「歴史を書くのは、過去を脱却する一つの方法である」と言っている。

僕が、ちょっと前から「落ちこぼれ」というテーマで、自分の「過去」のことを書き始めたのは、この先の人生を考えるに際し、今までの自分を振り返り、消化するものは消化し、捨てるものは捨て、滋養として心と身体に取り込むものは取り込み、自分というアイデンティティを再構築するために始めたことのように思う。

実際、昔のことを振り返り、色々なことを書き始めたお陰で、忘れていたことに気がついたり、新しいことを発見したりと、その効用を感じている。

最も大きな収穫は、僕にとって「起業は手段」であり、目的ではなかった、ということを、10数年ぶりに思い出したこと。

人間は、いつの間にか、手段が目的と化すことがある。

そのことに気づくことができた。

では、僕にとっての「目的」は何だったのか?

その話は、いずれまた。