「相田みつを」と「エンジェル投資」。

GW谷間の今日のアポはひとつだけ。

かなりディープなI.T.系のビジネスアイディアを具現化すべく、ある方と一緒に、都内の某法律事務所でMTGをした。

今のままではビジネス(投資対象)にはならないが、そのプランの発案者であり技術者である彼の思想はとてもしっかりしており、きちんとしたプランにしていけば、大化けするかもしれない。

ところで、昨日のエントリーに書いたとおり、最近の僕は心身ともに少々疲れ気味で、そのMTGの後は、久しぶりに「相田みつを」美術館に行き「心の休息と充電」をするつもりだったが、法律事務所の反対側にあるカフェで、約1時間ほど、彼のビジネスアイディアに関する議論に付き合った。

尚、ここで言う「付き合った」というのは、嫌々という意味ではないので誤解無く(笑)。

時間の関係で「相田みつを」美術館は諦めたが、そのMTGのお陰で、行っていたら得られたであろう「心の休息と充電」とは違う種類の「充電」をすることができた。

やはり僕は「リスク」を取り、「新しい社会的価値」を創っていく試みが好きなんだろうな。

彼との議論のお陰で、疲れ気味の「心」が「元気になっていく」のを感じた。

ところで、今日の夜は一昨日に引き続き、妻が学会関係の会合があり、僕が子供を保育園に迎えに行った。

以前、SECOMに勤務する吉田さんという方と、「家族サービス」という言葉と発想は「子供に対して失礼だよね」という話をしたことを思い出した。

彼は、自分の子供達に対して「お父さんと遊んでくれてありがとうね」と言うと言っていたが、自分も実際に子供を持ってみて、彼の言わんとしていたことの意味が、理屈だけではなく、実感として理解できるようになった。

僕がいわゆる「DINKS」だったら、今感じているような「励み」や「心の支え」はあり得なかったと思う。

それだけでも、彼に感謝である。

さて、明日から本格的にGW。

本格的に「心の休息と充電」をしよう。

僕のブログを読んで下さっている皆さんも是非!!

休養を取ることも大切である。

いつもは夕方からなのだが、祝日の今日は先生が配慮してくれたのか、10:30からバイオリンのレッスンで、久しぶりに僕が子供を連れてきた。

それで、このエントリーは、バイオリンの先生のところで書いている。

以前は丸々1時間、レッスンが出来ていたが、最近は集中力が続かないのか、15分かそこらで終わっていたらしい。

そのことに配慮してかどうかは分からないが、今日はバイオリンは弾かずに、和音や音階に関する勉強や練習をしているようだ。

大人も子供も、線形に伸びていくわけではないし、彼の状況に合わせて、内容を考えてくれているのだろう。

ところで、明日で47歳になってちょうど一ヵ月。

年が明けてから3月まではハイペースで飛ばしてきたが、今月に入ってからは少々疲れ気味。

心身ともに休養を取ることも大切である。

iPhoneからの投稿

「飽きる」のは「自分の成長が止っている」から。

昨日購入したMacBook Pro 13インチと15インチを較べるべく、また、Apple Store に行った。

結局は、13インチのままにすることにした。

現在のMacBook Proには付いているトラックパッドの拡大縮小機能を使えば表示エリアを変えられることと、やはり、持ち運びには13インチでないと辛いということがその理由である。

二度手間にはなったが、これで納得して13インチを使うことができそうである。

ところで、僕を担当してくれたApple Store の店員さんは、Apple 製品に関する知識が豊富なだけでなく、相手の知識レベルや使い方、また、僕の質問の意図を理解した上で、的確なアドバイスをくれる方だった。

社交的な性格も相俟って、お客さん受けが良いだろう。

どんな仕事をしても、その領域に関する専門知識も然ることながら、相手の求めていることを「理解する能力」の有無が、結果と顧客満足に大きな違いをもたらすことを実感した。

今回の購入で何人かの店員さんと話をしたが、彼は抜群に優秀だった。

ところで今日は、とあることで約4時間に渡り、英語でのMTGをした。

内容はとても楽しいものだったが、英語(外国語)での議論は集中力を要するので、かなり疲れた。

今晩は妻が学会関連の用事のため僕が子供の面倒を看ていたが、一緒に食事をしながら、眠くて仕方がなかった。

お風呂に入る前、ソファーに横になり、15分ほど仮眠した。

ところで、その「英語」のことだが、12歳で初めて接して以来、今も尚、興味関心が続いている。

以前は興味関心があったが、今はそれが無くなったものがたくさんあるが、「英語」は、唯一と言ってもいいほど、興味関心が続いている対象である。

因みに、「ニーチェの言葉」という本に「楽しみというのは、半可通な人の手にある」と書いてある。

また「飽きるのは自分の成長が止っているから」ということも書かれている。

つまり、成長を実感しているものは「飽きない」ということなのだろうし、「飽きない」から成長するのだろう。

こうしてブログを書きながら、僕が英語に対する興味関心を失わない理由は何か?と考えてみたが、それは僕は「人とのコミュニケーション」が好きなことと、自分を「表現」することが好きだからだろう。

「何を(一生の)仕事にすればいいか?」は、自分の「性格」に根ざしているかを判断基準にするのがいいように思う。

しかし、ドラッガーは「自らの強みと仕事の仕方が合わないことはあまりない。両者は相乗的である。ところが、強みと価値観が合わないことは珍しくない」と言っている。

この「後者」の折り合いをつけられるかどうかが、大きな問題である。

最近になって、そのことを痛感する。

幸いなことに、ようやく、少しずつではあるが、その折り合いがつきつつある。

多少は人間として成長したせいか?

ここ1~2年で、高い授業料を払ったからね・・・。

4年ぶりに新調した「MacBook Pro」と「一抹の不安」。

今朝で薬が切れたので、急性副鼻腔炎の経過を看てもらうために耳鼻科に行った。

あわよくばドクターストップが解けるか?と淡い期待をしていたのだが、もう2週間ぐらいは「禁酒」を続けた方がいいとのこと。

「肝臓」の「長期休暇」と思って諦めることにした。

ところで、今日は4年ぶりに「MacBook Pro」を購入した。

右肩を痛めたことにより、一年ほど前からノートブックを持ち歩くのを止めているが、ここ最近、出先で時間が空くことが多く、そのアイドルタイムを解消するために「MacBook Air」を購入しようと思っていたのだが、Apple Store の店員さんに「MacBook Air」をメインのマシンにするのは厳しいと言われ、結局は「MacBook Pro」になった。

因みに、今、このエントリーを書いているのは4年前に買ったMacBook Pro 15インチだが、2.5kgのMacBook Proを持ち運ぶのはかなりシンドイ。

そんなことで、今回は13インチにしたのだが、自宅に帰って「解像度」を確認したところ、今使っている15インチは「1440×900」なのを知り、失敗したかな・・・と、少々不安になった。

というのは、新しく購入した13インチは「1280×800」で表示能力が少し劣るのだ。

でも、15インチを買うか?と自問すると、持ち運びを考えた場合、やはり、13インチを選ぶだろうなとは思う。

「迷ったら止める(引き返す)」ということをアスキー創業者の西さんの講義で学んだはずだったが、もう一度、Apple Storeに足を運ぶのは時間が勿体ないと思い、一抹の不安があったが、思い切って購入した。

しかし、帰宅後、自分の一抹の不安の「正体」を理解したわけだ。

まあ、自分で納得して使うのが一番大切なので、明日、もう一度、Apple Store に行って、15インチと13インチの表示能力の差を確認しようと思う。

今回は善しとしても、次回からは、西さんから学んだことを守れるようにしないとね。

僕には、まだまだ「捨てるもの」がありそうだ。

我が家のベランダからは、樹齢30~40年と思しき欅が見える。

つい先日まで枯れ木のようだったのが嘘のように、鮮やかな黄緑色の葉をつけている。

ベランダに出ると、欅以外にも鮮やかな黄緑色の樹木が目に飛び込んできて、季節が変わったことを実感する。

ニーチェ曰く、「日常の生活や仕事のなかで、ふと振り返ったり、遠くを眺めたときに、山々や森林の連なりや遥かなる水平線や地平線といった確かな安定した線を持っていることは、とても大切だ」という。

「それらは、単なる見慣れた風景に過ぎないかもしれないが、その風景の中にあるしっかりと安定した線が、人間の内面に落ち着きや充足、安堵や深い信頼というものを与えてくれる」。

「そして、誰でもそのことを『本能的』に知っているから、窓からの風景を重視したり、セカンドハウスの場所を自然に近いところに選んでいる」と言っている。

確かに、心が疲れた時、都会とは思えない我が家のベランダ越しの「借景」は、僕の心のビタミン剤のような働きをしてくれているように思う。

ところで、アメブロを書き始めて以来、平均すると毎月20~22のエントリーを書いてきたが、こ���3月から、思うところがあり、今までのように頑張って書くことを止めた。

それは、少しずつではあるが、色々なものが吹っ切れてきたことと関係しているのだけど、一方、時々、不安に駆られたりもする。

これまたニーチェの言葉から学んだことだが、「不必要なものは自然と自分から離れていく」らしい。

「人生はそれほど長いものではない。その限られた時間の中で何かをなす以上、何かから離れたり、何かをきっぱりと捨てなくてはならない。

しかし、何を捨てようかと悩む必要はない。懸命に行動しているうちに、不必要なものは自然と自分から離れていくからだ。あたかも、黄色くなった葉が樹木から離れ去るかのように。

そうして私たちは、さらに身軽になり、目指す高みへとますます近づいていくことになるのだ」。

ところで、昨日のスポーツニュースで見たホークスの小久保選手に関するドキュメンタリーで、印象深い話があった。

それは今シーズン、7年ぶりの「日本シリーズ優勝」を目指すなかで、自分が担うべきこととして「ホームランの量産(30本以上)」を再認識しながら、なかなか最初の一発が打てずに悩んでいた時、楽天のエース岩隈投手から1号ホームランを打った後に言った言葉だった。

「軽く振ってもあんなに飛ぶ。やっぱり芯(しん)で打てということだな」。

余計な気負いや迷いを捨てて、身軽になり、自然体で臨んだ時の方が良い結果が出る、ということだろう。

僕には、まだまだ「捨てるもの」がありそうだ。

でも、ニーチェの言うように、焦る必要はない。

自然に剥がれ落ちていくまで待っていよう。

自然体で・・・。

「ニーチェの言葉」。

今日はこの4月からお世話になりはじめた「法政ビジネススクール(イノマネ)」での3回目の授業。

授業とは言っても、学生の方が今年一年間を通して取り組むテーマに関するプレゼンテーションを聴き、それについて質問やコメントをするというもので、僕が何かをレクチャーするわけではない。

以前にも同様なことを書いたかもしれないが、僕がイノマネでの仕事を始めて実感するのは、ドラッガーの言葉である。

ひとつは、人類史上初めて、「働く人(知識労働者)の寿命」が「組織の寿命」よりも長くなったことで、誰もが「自分を再生」させる必要があるということ。

もうひとつは、高度化・複雑化・肥大化した現代社会においては「投票」と「納税」以外には「社会参加」の機会が得難く、「市民性」が失われ、その結果、新たな形での「社会参加」欲求が生まれること(その受け皿としてNPOが台頭してきている)。

また、上記と同根のこととして、企業で働く上での「モチベーション」が失われ、自分の「存在意義」を確認しようという欲求がNPOやNGOという活動への参加欲求(モチベーション)となることである。

守秘義務の問題があるので具体的なことは書けないが、イノマネの学生の方々の多くは30代~40代だが、中には50代、60代の方もいる。

それぞれの方に共通するのは、自分の人生に正面から向き合い、これからの人生の「視座」を構築しようとされていることである。

今日の授業では、50代の方と60代の方のテーマ発表があったが、元銀行員の60代の方の発表には、大きく心を動かされた。

人間は「教える時に最も学ぶ」というが、育児は「育自」とい言葉同様、学生の方々の自己実現のお手伝いをすることで、僕自身も学んでいきたいと思っている。

ところで、話は変わるが、最近読み始めた「ニーチェの言葉」という本の中に、「好奇心に振り回されない」というタイトルで、とても意味深いことが書いてあった。

「身の周りや世間で起きているいろいろな事柄に、そのつどごとに首を突っ込んでいると、結局は自分が空っぽになってしまう。(中略)好奇心は、自分の能力を発火させるためには大切だが、世界のすべてを見聞きできるほど人生は長くは続かない。若いときに自分が関わる方向を着実に見定め、それに専念していくほうが、ずっと賢く、自分を充実させていくことができる」。

考えさせられる話である。

一昨日のエントリーで書いた「石川遼」君と「イチロー」が小学校6年生の時に、それぞれ「ゴルフ」と「野球」の道で生きていくと決めた話と通ずると思う。

では、何故、彼らは、人生の早い時期に、それも小学校6年生という時期において、自分の「人生」を決めることができたのか?

その原因を知りたい(興味を持った)とも書いたが、ニーチェの言葉を読んで、その理由は、彼らが幼い頃から「自分のアイデンティティ」を確立できたからではないかと思った。

次の質問は、では何故、彼らは幼少期に「自分のアイデンティティ」を確立することができたのか?ということだが、素地があったことに加えて、彼らの両親が、彼らに「自分で物事を考える」ことを促し、彼らの言動を「肯定」してきたからではないかと思う。

自分自身を「否定」され続けてきた人間は、自分を信じること(自信を持つこと)ができなくなり、何かを「捨てて」、何かを「選ぶ」ことができなくなるはずである。

「教育」は、個々人の人生はもちろん、社会全体をも「レバレッジ」する。

さて、話を戻すと、僕自身、人生のパラダイムシフトの最中にいる。

そういう意味では、これ以上ないタイミングで、イノマネでの仕事をさせていただくことになった。

そのことに感謝したい。

小学6年生の頃の「石川遼」と「イチロー」。

昨日のエントリーで書いた「<就活>廃止論」の書評とは言えない書評で、ひとつ、書き忘れたことがあった。

佐藤さんが著書の中で紹介していた、ゴルフの「石川遼」選手と野球の「イチロー」選手の小学6年生の時の「夢」が「鮮烈」だった。

僕が「鮮烈」と書いたのは、その夢の内容(まるで今の姿を予言しているようである)も然ることながら、小額6年生の時に、そのような「具体的」な「夢」を描けたことと、その「夢の実現」を信じて疑わず、努力を続けてきたことである。

僕はそもそも、小学6年生の時、どんな夢を持っていたかも憶えていないし、仮に何らかの夢があったとしても、その実現を本気で信じてはいなかったのではないかと思う。

要するに、彼らほど「自分の将来像」をはっきり描けていなかったということだ。

自分の将来像がはっきり描けないのだから、その実現を信じる以前の問題である。

では、どうすれば、彼らのように子供の頃から具体的な将来像を描けるようになり、どうすれば、その実現を信じられるようになるのだろう?

夢の実現を信じられなければ、努力を続けることはできない。

持って生まれたものが違うのかもしれないが、「環境要因」や「後天的」なものもあるはずである。

そのことに興味を持った。