「ロンドンでの出会い」と「杉原千畝(すぎはら ちうね)」。

行きのフライトで隣の席に座った中年男性(という僕もそうだが)に、僕にとっては大切な「BEAMS」のライトブルーのジャケットに「赤ワイン」をかけられてしまい、こりゃ幸先良くないな・・・と思ったりもしたが、初めてのロンドン&パリは、とても充実した出張となった。

ロンドン3日目の朝09:30。Tech City なる場所に「Innovation Warehouse」というシードアクセラレーターのCEO、Mr. Ami Shpiro を訪ねた。

僕がサンブリッジ Global Venture Habitat Tokyo オフィサーの頃から一緒に仕事をしている慶応大学SFCの中川さんというインターン生が、僕のリクエストに応じて探しだしてくれた会社のひとつだった。

これは面白そうな会社だと思った僕は、同じくSFCのインターン生で、Yuさんという中国からの留学生(彼は英語がそこそこできる)に、SunBridge Global Ventures Inc. と Innovation Weekend に関する説明資料を作成してもらい、彼らのウェブサイトにあった連絡先に、その資料と一緒に一通のメールを送った。

すると、是非、お会いしたいという返事が返ってきた。

ひょっとしたらメールが届かなかったのかもしれないが、同じ内容のメールを別のシードアクセラレーターにも送ったが、返事は来なかった。

Innovation Warehouse は、決してオシャレとは言えないが、「Hive(蜜蜂の巣)」と呼ばれている各スタートアップの専用デスクスペース、パブリックスペース、会議室、セミナールームと、創業間もないスタートアップが必要な設備がすべて揃っており、居心地が良さそうである。

前回のエントリーで、親日のフランス人との信じられない出会いを書いたが、Ami との出会いも、日本人である僕にとっては、とても意味深い出会いだった。

Innovation Warehouse CEOの彼は、「私が今日、こうして生きているのは『日本』のお陰です」と言い、彼の父親の話をしてくれた。

彼はイスラエル出身のユダヤ人で、彼の父親は、ヒットラーの迫害を逃れて、ポーランド(と言っていたと思う)から「神戸」に移住したらしい。

第二次世界大戦の頃、リトアニアで外交官をしていた「杉原千畝(すぎはら ちうね)」は、外務省からの命令に反して、大量のビザを発給し、約6,000人に上る避難民を救ったことで知られているが、彼の父は、まさに、その1人だったという。

そのようなこともあってか、彼は日本人の「 Discipline(自己規律)」をとても尊敬していると言っていた。

当時の日本で上司に歯向かうことがいかに覚悟のいることだったか?(実際、彼は更迭されたそうだ)、自分の良心に従って行動することがいかに尊いことかを熱く語ってくれた。

そして、みんながみんな、スーパーマンのようにはなれないが、誰にでもできること(自分にできること)があるはずだとも続けていた。

彼は、Innovation Warehouse の入居者に対して「自分にとってのヒーローは誰か?その理由は?」という問いを発することがあるそうだが、彼にとってのヒーローは「 杉原千畝」だという。

「シンドラーのリスト」という映画をご覧になった方は少なくないと思うが、スピルバーグが、救ったユダヤ人の数(約1,200人)では 杉原千畝に遠く及ばないシンドラーを映画化したのは、杉原千畝は、ただただ毎日ひたすらビザを書いており、映画化するには地味だったことによるそうだ。

もし、スピルバーグが杉原千畝を題材に選んでくれていたら、欧米での日本人の評価は大きく異なったかもしれない。

ところで、お互いのバックグラウンドや日本やイギリス、そして、ビジネスに関する話をした後、彼の次の来客があり、帰ろうとすると、「もう一度、会って話をしないか?」と打診された。

その翌日、パリからの帰りに、もう一度、彼を訪ねて、具体的な接点に関する議論をした。
結果として、ロンドン滞在の最終日も Innovation Warehouse に立ち寄り、仕事をさせてもらい、彼と話をした。

決して派手さはないが、それこそ「 Discipline(自己規律)」を持っている素晴らしい人であり、是非一緒に、仕事をしたいと思った。

素晴らしい出会いを、出会いに終わらせないようにしたい。

僕の人生は、幸運の連続でできている。

LeWeb London 2012 への参加は、貴重な出会いをもたらしてくれた。

計7社11人の起業家と会い、お互いのビジネス、そして、国の事情について話をした。

その中でも、最後に会ったフランス人とメキシコ人のハーフの彼との出会いは、幸運としか言いようがない。

彼は、日本に数年ほど住んで働いたことがあるらしく、簡単な日本語を話していた。

本人が言うには、ビジネスマンとしての彼のスキルの殆どは日本の会社で身につけたものであり、日本にとても感謝をしていると言っていた。

一方、フランスの会社では、スキル開発に繋がるような機会は提供されておらず、あまり好きではないらしい。

さて、その彼だが、僕が初めて、それも一人で、パリに行くと言ったら、なんと Gare du Nord(北駅)からアポの場所まで送ってくれるという。

Are you sure ? と訊くと、Sure ! と返ってきた。

翌日、EuroStar で北駅に降り立つと、出口のところに彼が立っていた。

LeWeb の会場で、どうやってアポの場所まで行けば良いか?を尋ねると、「初めてのパリで、フランス語が話せないとなると、地下鉄は難しいので、タクシーがいいと思うが、1時間ほど列に並ぶことになるだろう」とのこと。

彼に連れられて北駅を出ると、タクシー乗り場は、物凄い長蛇の列。

たしかに、これではタクシーに乗るまでに、少なく見積もっても、30~40分は掛かりそうだった。

さて、奇跡的とも言える彼の好意に甘えて彼の車に乗り、北駅の地下のガレージを出ると、パリの街は物凄い渋滞。

目的地は、パリの街を北から南に縦断したところにあり、所要時間は約1時間。

彼と出会っていなかったら、どう考えても、今日のアポには行けなかっただろう。

考えみると僕は、大学生の頃、初めて New York に行った時も、新婚旅行でトリニダード・トバゴに行った時も、また、仕事でロシアに行っていた時も、いつも単身、初めての国に行き、色々なことに挑戦してきたが、その度に「彼らがいなかったらどうなっていたんだろう?」という出会いに助けられている。

そう、僕の人生は、幸運の連続でできている。

ところで、話をLeWebに戻すと、そこで知り合った起業家たちの中に、レシートをスマートフォンで撮影してもらい、それをデジタルデータに変換し、消費財メーカーをクライアントとして、CRM的なサービスを提供しようとしていた女性がいた。

インタースコープ(インターネットリサーチ)での経験をもとにアドバイスをすると、もう一度、会って欲しいとなり、翌日、彼女のパートナーを連れてやってきた。

様々な観点からアドバイスをしたが、最後はドラッカーやクリステンセンの話をし、「顧客を定義すること」「どんな用事を片付ける手伝いをするのか?を定義すること」「自分たちのサービスの目的を定義すること」等、 僕が日本で普段しているのと同じようなアドバイスをした。

そして、とにかく、彼らの本を読むように!と念を押した。

LeWeb London 唯一の日本人スピーカーとして登壇した三木谷さんも言っていたが、英語が話せるか話せないかでオポチュニティが全然異なるし、半年前の僕だったら、今回のような収穫は無かったように思う。

サンブリッジでの仕事を通じて、英語力が向上したことを実感した。

49歳の僕でも英語力が上達するのだから、20代や30代の人たちは、本気で英語を勉強するべきである。

ところで、僕をクルマで送ってくれたフランス人が、LeWeb London に登壇した起業家の中で、三木谷さんは「最もビッグネーム(最も成功している起業家)」だと言っていた。

三木谷さんに続く世界で活躍する日本人起業家が、もっともっと出てきて欲しい。

最後に、今回の出張を許してくれたボードメンバーと留守を預かってくれているスタッフに感謝したい。

@無事に帰ってきたロンドンのホテルにて。

日本人がもっと海外で活躍するには、何が足りないのだろう?

何とか無事、ロンドンに到着。

昨日はホテルにチェックインした後、Twitter で知っていた Oxford University で博士課程に通っている方と合流し、ロンドンの街を案内していただいた。

実は、その方とアレンがスタンフォード大学で開催された会合で知り合い、ロンドンに来る2週間ほど前に、起業やスタートアップに関するエコシステムに関して、東京でインタビューを受けた。

世の中、色々なところで繋がっていくということを実感。

昨日は、タクシーでバッキンガム宮殿まで行った後、ビッグベンまで歩き、テムズ川を渡り、ロンドン・アイの横を通り過ぎて、Oxford & Cambridge Club なる、両大学のOBOGしか入れない由緒正しき会員制のクラブで夕食をご一緒した。

ロンドン2日目で、まだまだ何も分からないが、米国と比べて街はキレイで、メルセデス・ベンツを数多く見かける。BMWも多い。

僕はヨーロッパの他の都市を知らないが、今まで行った中では、モスクワやサンクトペテルブルクの街並みを小奇麗にしたような感じがする。

米国で言えば、New York のような感じだ。

そうやって考えると、シリコンバレーが特殊ということだ。何もないところに、いきなり Google の広大なキャンパスが出現したりするのは、London や New York, San Francisco ではあり得ないことである。

また、London の街を歩いていると、英語以外の言葉をよく耳にする。観光客が多い。

以前のエントリーにも書いたが、日本も、もっともっと観光客を誘致できるようにしたいものである。

ところで、ロンドンは物価が高く、特に「不動産」は、異常に高いらしい。

街は比較的コンパクトであり、ヒストリカルな建物が多く、日本のようなタワー型マンションは立たないのだろうから、どうしても需要に共有が追いつかないのだろう。

そのような事情からロンドンの不動産は下がらないと思われており(実際、下がらないのだろう)、外国人による「投資」が多いらしい。

Oxford に住む知り合いの家のオーナーは、オーストラリア人だという。

ところで、ロンドン2日目の今日は「LeWeb」in London に参加中。

僕は主に、スタートアップのコンペティション(ピッチコンテスト)を聴いているが、アレンが言っている、「日本人の創造力やイノベーションを行う能力は、シリコンバレーの人たちに決して劣らない」ということを実感する。

ここロンドン(ヨーロッパ)の起業家と比較して、むしろ、日本人のスタートアップの方が優秀だと言っても過言ではないと思う。

残念なのは、日本語でビジネスをしている点だけである。

英語でビジネスができていたら、もっともっと世界の注目を集めているに違いない。

A Global Seed-Accelerator として、その現実を踏まえてどうするか?真剣に考えよう。

ところで、会場を歩いていると「平石さん!」と声をかけられた。

誰かと思ったら、現在は楽天(米国法人)に勤務する本間さんだった。

久しぶりに彼とも話をしたいと思い、メッセージを送ったところ、次のMTGがあるらしく、もう会場を出てしまったとのこと。

日本人がもっともっと海外で活躍できるようにするには、英語力は勿論のこと、他に何が足りないのだろう?

これを機に、真剣に考えてみたい。

初めての「ロンドン」。

僕に似たのか、4月から小学生になった長男は甘えん坊で、最初は毎朝、僕が小学校まで送って行っていた。

彼との約束は、徐々に送っていく距離を短くし、最後は一人で行く、というものだったが、僕がシリコンバレー出張の時、偶然、同じマンションに住んでいる人と登校時に一緒になり、途中まで一緒に行ったらしい。

その後、毎朝、その方と一緒に行くようになったのだが、友だちから「だんだん短くして、最後は一人で行くって言ってたじゃん!?(話が違う)」と言われたらしく(そりゃ当然!)、そのオジサンに、友だちと遭遇しない途中まででいい、と言うようになった。

今もマンションの玄関を出たところまでは僕が一緒に行っているのだが、下の子の面倒を見るので大変な妻からは「いい加減、一人で行くように言ってよ・・・」とクレームを頂戴している。

ところで、来週は一週間、ロンドンに出張である。

「LeWeb」という、ネット関連のヨーロッパで最大級のカンファレンスに参加するためだ。

因みに、このカンファレンスに参加する人たちのリストが公開されているのだが、日本人は、三木谷さんと僕の2人だけ。

三木谷さんはスピーカーとして参加されるので、純粋な参加者は僕だけということになる。

そんなわけで「唯一の日本人」ということもあってか、LeWeb開催期間中、僕と会いたいというメッセージが、専用システムを通じて送られてくる。

シリコンバレーでは日本人は当たり前だが、さすがに「ロンドン」まで出掛けていく日本人は少なく、僕は「希少価値」というわけだ。

ところで、僕にコンタクトしてくるヨーロッパの人たちとのやり取りを通じて、僕は、とても大きなことに気がついた。

それだけでも、高いお金を払って参加することを決めた価値があったと思う。

LeWebに公開されている僕のプロフィールは、シリアル・アントレプレナーとして今までに計8社の創業を経験し、そのうち1社は東証マザーズ上場、もう1社は Yahoo! JAPANに売却。現在は「Global Seed-Accelerator, President & CEO」なわけで、実際の人物はともかく、プロフィールだけを見たら、会いたいと思うのは不思議ではないw。

尚、現在の僕の立場を反映してか、僕にコンタクトしてくる人たちは、ほぼ全員、例外なく、国際展開を考えているスタートアップの経営者である。

彼らのビジネスモデルや送られてくる資料を見て気づいたことは、それらの殆どすべてが、僕が既に「知っているモデル」であり、「驚かされるモデルはない」ということだ。

イギリス人もフランス人もロシア人も、そして、日本人も、今のインターネットに見出す「オポチュニティ」は「同じ(変わらない)」だということである。

彼らが手がけるビジネスは「ネットビジネス」であり、ドラッカーのいう「イノベーションの7つの機会」の中の「知識に基づく産業(イノベーション)」に該当し、そこには共通する要素がある。

以下は、ドラッカーの「イノベーションと起業家精神」から引用(一部、加工)。

まず最初に、イノベーションが起こりそうでありながら何も起こらないという期間が長く続く。

そして突然、爆発が起こる。数年に渡る「開放期」が始まり、興奮と「乱立」が見られ、脚光が当てられる。5年後には「整理期」が始まり、僅かだけが生き残る。

自動車も家電も、コンピュータも然りである。

そして、いずれの場合も、生き残った企業は例外なく、初期のブームの時に生まれたものである。ブームの後では事実上、新規参入は不可能になる。

また、今日、この「開放期」が混み合ってきたことは間違いない。

1830年代の「鉄道ブーム」は、イギリス国内に限られていたが、現在は「先進国」と言われるものの数が増えており、100年前には極わずかの国しかもたなかったもの、つまり「知識を持つ人たち」、特に科学や技術によるイノベーションのために直ちに働き始める用意のある訓練された人材を持っている。

しかも、通信技術の発達により情報は瞬時に伝播、共有され、旅行も簡単に行われる。

そして、最も重要なことは、知識に基づく産業(イノベーション)の場合、「市場はひとつ(グローバル市場)」になる、ということだ。

<ここまで>

特に、ネットビジネスが「ソーシャル」になり、顧客のニーズに応える方法が「ソーシャル・アプリ」になると、「英語」市場と「日本語」市場にローンチするのとでは、同じ能力と努力でも獲得できる「市場規模(=成長性)」が異なり、資金を調達する上でも「英語版」の方が「有利」なのは間違いない。

獲得した資金で事業を拡大し、余力が出たところで、非英語圏にも参入する。

しかし、日本語でのサービスでは、そうはいかないだろう。

製造業と異なり、「取扱説明書」を現地の言葉に「翻訳」すればいいというわけにはいかない。

たった4人で始めたスタートアップも、グローバル市場での競争に直面している。

日本のスタートアップは勿論、彼らに「投資」をしている我々も、その事実を改めて直視する必要がある。

ロンドン滞在中は、LeWeb で知り合ったスタートアップや訪問予定の現地企業の経営者との会話を通じて感じたことを、時間の許す限り、書こうと思っている。

「創造」を忘れて消費に走る社会は必ず「衰退する」。

昨日は長男が小学校に入学して「初めての運動会」。

保育園の時は「今日は運動会!」という感じで僕も盛り上がっていたが、今年に入ってから、今までにまして忙しくしているせいか、昨日は、事前の盛り上がり無しに「はい!今日は運動会ですよ!」という感じだった。

ただ、低学年と高学年に分かれての「リレー」は迫力満点で、ついつい涙腺が危なくなった。

物事は何事もシンプルで「本気でやっている人」には心を動かされる。

あの子たちのリレーには、変な政治も駆け引きも何もない。

そのことを再認識させられた。

ところで、先週の木曜日は、元日本アジア投資(JAIC)の新家さん(現在は、保険の窓口グループ人事総務部長)と彼のJAIC時代の先輩にあたる川野さんと僕の3人で会食をした。

新家さんとは、僕と山川さんと数人の仲間で立ち上げたインタースコープを創業する直前、僕がまだ、原宿のマンションの一室で細々とベンチャーを営んでいた頃に知り合った。

僕は勿論だが、新家さんは、あの僕たちが、インターネットリサーチ業界を代表するベンチャーになったことを、感慨深く思っているはずだ。

文字通り、僕の人生は(きっと山川さんの人生も)、インタースコープの成功で変わった。

ところで、新家さんと川野さんとの会食は、僕にとって「意味深い」時間になった。

初めて知ったことだが、新家さんは、なんと「開成中学」を蹴って「慶応」に行ったそうだ。そして、川野さんも「慶応ボーイ」とのこと。

親家さんは「浅草」出身で、お母さんのことを「かあちゃん」と呼んでおり、いわゆる慶応ボーイちっくな人ではない。

川野さんと食事を共にするのは初めてだったが、彼とは「価値観」や「思想」が近く、以前から知っているような感覚を覚えた。

僕は、地元の進学校(高校)の受験に失敗し、二次募集で入った高校を3ヶ月で中退して中学浪人生活をしていた頃に知り合った友人のファミリー(彼の父親は地元では著名な実業家だった)、特に「慶応大学」に通っていたお姉さんの優雅さに惹かれて以来、都会のスマートな人たちに憧れを抱いてきたが、僕が大切にしているのは、友人の父親のような「創業者や開拓者」としての「生き方」であり、「優雅な生活」は「その結果」だということを、新家さん、川野さんとの会話で改めて認識した。

三宅一生が「日本がバブルに踊った80年代」に、こう言っている。

「創造を忘れて消費に走る社会は必ず、衰退する」。

僕は「ブランド物の消費を煽る」女性誌や「バブリー」な男性向けの雑誌が嫌いだ(ただ、それらが売れることで、経済が活性化するのも事実・・・)。

それともうひとつ、今日のエントリーで書いておきたいことがある。

それは、新家さんの「平石さんには『発信して欲しい』」という一言。

彼は、イベリコ豚のしゃぶしゃぶを食べながら「ベンチャーを興して成功したことも、手痛い失敗をしたことも、そして、どんな時も努力を忘れず頑張っていれば『再スタートできる』ということを『発信』していって欲しい」と僕に言った。

また、起業に関することに限らず、僕の出身地である「フクシマ県」は今も「原発」で苦しんでおり、僕の弟家族や親戚は、その現実と戦いながら生きていること。

そういう僕は、フクシマ県を離れて「東京」で暮らしており、フクシマ原発で作られた電力で四半世紀に渡り生活してきたこと。

エネルギー資源がない日本は原発を是とすべきだというが、本当にそうなのか?と自問自答していること等、僕が体験したこと、それらを通じて考えたことを、次に続く若人たちのために「発信」していって欲しい、とも。

そして、それが、平石さんの使命(人生の目的)ですよ!と・・・。

これからの僕の仕事は「後進の育成」ということだ。

新家さんと、ベンチャーキャピタリストと起業家という関係を超えた関係を築けたことを嬉しく思う。