創業は易く、守成は難し。

毎年この季節は、Innovation Weekend Grand Finale なる当社主催イベントの準備で忙しい。

2011年5月20日にローンチし、今年で6年目になる。正直に言って、もう止めようかと思ったことが幾度となくある。でも、その度に、もう一年、やってみようと思い、6年になった・・・。

何事も「創業は易く、守成は難し」である。

僕が起業したのは、1991年。勿論、インターネットは、まだ出現していない。市場調査やマーケティングのコンサルティング、その後はDTP(Desktop Publishing)を手掛けたが、1996年いっぱいで、DTPから撤退した。売上のほぼすべてが無くなり、超貧乏な生活を約1年半、経験した。「何かを得るには、何かを捨てないとね」というとおり、それがネットビジネスに繋がり、ネットバブルの最終列車に飛び乗り、インタースコープ(Yahoo! Japanに売却)、ウェブクルー(東証マザーズに上場)の創業に繋がった。その後、運と実力を勘違いし、ドリームビジョンでは敢え無く撃沈・・・。その後1年強、晴耕雨読ならぬ「晴『読』雨読」生活を送った。でも、そのお陰で、大学院を出ていない僕が、MBAの客員教授になり、今は、ベンチャー投資の仕事をしている。

人生何事も「塞翁が馬」かもしれない。

Innovation Weekend は2011年3月、サンブリッジ創業者のAllen Miner との再会がきっかけとなり、サンブリッジの日本でのベンチャー投資、インキュベーション事業の再開に際して、そのディールフローを作ることを目的としてスタートしたのだが、日本発のグローバルベンチャーを生み出すこと、東京のスタートアップシーンをグローバル化することが、僕にとってのモチベーションだった。

2011年というのは、ライブドアショック、リーマンショックにより、ベンチャー氷河期に陥っていた日本が、ソーシャルメディアやスマートフォンの本格的な普及により、少しずつ、その勢いを取り戻しつつある時期だった。シードアクセラレーターやピッチイベントは、まだそれほど普及していなかった。そんな状況の中、僕たちが始めたInnovation Weekend は、スタートアップ界隈で認知を獲得し、ユニークなスタートアップを発掘していった。

そうこうしているうちに、2012-2013年頃は、犬も歩けばピッチイベントに当たるという感じで、猫も杓子もアクセラレーター的な様相を呈したかと思うと一転、殆どのピッチイベント、アクセラレーターが退場していった。正直、儲からないし、マス化したし、やり続ける理由が見当たらなくなったのだろう。

一方、2014年9月、シンガポールのオンラインメディア Tech in Asia が「Startup Asia Tokyo(現Tech in Asia Tokyo)」をローンチした。実は、とあることで、Tech in Asia 創業者の Willis Wee と知り合い、日本語が話せない彼のために、会場との料金交渉等を手伝った(彼らは、僕たちとっての初めての海外開催の Innovation Weekend Singapore を手伝ってくれた)。

2015年になると、孫 泰蔵さんが、北欧から「SLUSH」を東京に持ってきて、「SLUSH ASIA」としてローンチした。実は、泰蔵さんから直々に連絡があり、僕もSLUSH ASIA ローンチを手伝った。

そんなことで、TechCrunch Tokyo、Tech in Asia Tokyo、SLUSH ASIA と、いずれも「海外発」のBIG Tech Event が参入し、東京のスタートアップシーンはグローバル化が進展した(僕たちの力ではないが、ある意味、僕の想いは実現しつつあるのかもしれない)。

規模や資金力、組織力では、僕たちInnovation Weekend は、どうやっても適わない。でも、僕は日本人として、「日本発」のグローバルイベントを創りたい。

僕は、Innovation Weekend World Tour(というと烏滸がましいが)で訪れる都市で必ず、日本のスタートアップシーンの話を統計データと定性的情報の両方を交えてプレゼンテーションをしている。まだまだ、日本のスタートアップシーンに関する「英語の情報」は少なく、みんな真剣な表情で聴いてくれる。

「日本に行ったら、Innovation Weekend だよね!」そう言われる存在に育てたい。

それが、僕がやり続ける理由である。

一人でも多くの方が、Innovation Weekend Grand Finale 2016 にいらしていただけたら嬉しい。

LIFE SHIFT 読了。

次男の七五三のお祝いで実家から上京していた母親を東京駅まで送った後、丸の内OAZOの丸善書店の入り口に平積みになっていた「LIFE SHIFT:100年時代の人生戦略」。リンダ・グラットン(著者)の前作、ベストセラー「WORK SHIFT」は、僕にとっては、おもしろくも何ともなく、前半で断念し、自宅の引っ越しの際に処分してしまっていたこともあり躊躇したのだが、100年時代の人生戦略という副題が気になり、購入した。

この本によると、1840年以降、10年に2-3年ずつ寿命が延びている。2007年生まれの日本の子供の50%は、107歳まで生きる見込みがあるという。衝撃的だった。

100年ライフで何が変わるのか?(著作より抜粋)

・70代、80代まで働く。

・新しい職種とスキルが登場する。

・おカネの問題がすべてではない。

・人生はマルチステージ化する。

・変化が当たり前になる。

・人生の新しいステージが現れる。

・レクリエーションから、リ・クリエーションへ。

・一斉行進が終わる。

・選択肢を持っておくことの価値が増す。

彼女たちが主張するのは、簡単に言えば、100年時代の人生は、今までのような「教育を受ける時期(大学・大学院卒業まで)、社会人として働く時期、引退後」という3つのステージではなく、4ー6つのステージになる、ということだ。

僕が客員教授を務めている法政大学MBAで学んでいる人たちは、それまでの仕事を辞めて学生生活を送っており、リンダ・グラットン達が主張するような人生を送っている人は既に存在するし、ドラッカーが言っていたように、ある産業の寿命よりも、自分の職業人生の方が長くなる時代に既になっており、生涯教育が益々重要になっていくことは間違いない。

そして、これからは、自分自身のコアスキルなり専門分野を「何度も変える」ことが当たり前になる、ということだ。

そういう意味では、僕は、何度も自分の専門分野を変えてきた。というか、変えざるを得なかった。

20代はコンサルティング会社等で、マーケティングのコンサルティングの仕事。28歳で起業し、30代前半は、DTP(Desktop Publishing)。30代半ばからインターネット関連の仕事し、ネットベンチャーを創業。40代半ばからMBAで教えるようになり、また、ベンチャー企業への投資の仕事を始めた。その間、大失敗もし、拙著「挫折のすすめ」にも書いたが、一年以上、晴耕雨読ならぬ、晴「読」雨読の生活をしていた時期もある。

問題は、専門分野を変えるためには、その移行期間、それまでと同じレベルの収入を得ることは難しいということだ。

また、現役時代最後の年収の半分レベルの生活を維持しようとした場合、引退後の人生が何年になるかにもよるが、殆どの人が「必要資金」を確保できないらしい。となると、70代、80代まで、仕事をして、収入を得る必要がある、ということだ。

また、いかにして自分の資産を運用するか?が今までに以上に重要になる。

僕は、70代、80代、どんな仕事をして行くのか?

その時になって考えても間に合わない。大きな命題である。

 

 

 

Spiber と東北。

Spiber株式会社。知っている方も多いと思うが、人工的に蜘蛛の巣を創りだそうというバイオテクノロジーのベンチャー企業だ。石油の時代から「タンパク質の時代」へのパラダイムシフトを起こそうとしている。

調達した資金は「146億円強」。どれだけ期待値が大きいかが分かる。

そのベンチャー企業は「山形県鶴岡市」にある。東京の渋谷でも六本木でも本郷でもない。

慶應義塾大学として初めて首都圏以外に創った「慶應義塾大学先端生命科学研究所」を立ち上げられた「冨田 勝」教授の研究室出身の関山和秀氏が、そのベンチャー企業の創業者だ。

関山さんが研究テーマに関する面談で、人工的に蜘蛛の糸を開発することに取り組みたいと言ったところ、殆どの教授が「そんなことは出来っこない!(NASAも米軍も失敗しているそうだ)」と反対した。唯1人、「おもしろいじゃないですか。やらせてあげましょうよ」と言ったのが、冨田教授だった。余談だが、冨田教授は、シンセサイザーによる音楽で一世を風靡した冨田勲氏のご子息でもある。

光栄にも冨田教授とお会いすることができたのは、JVCA(Japan Venture Capital Association)主催の「地方創生VCトップ懇談会」なるイベントが仙台で開催され、パネリストの一人としてお招きいただいたからだった。

仙台は2011年の震災直後のGW以来。東京駅から「はやぶさ」で90分。「やまびこ」で郡山(福島県郡山市:僕の実家)まで(80分)と殆ど同じだ。本を読んだり、うとうとしている間に着いてしまった。

「地方創生VCトップ懇談会」という名前のとおり、どうすれば、地方都市でもベンチャーのコミュニティが生まれ、経済の新陳代謝が促進されると共に、新しい雇用が生まれて、地方経済が活性化するか?がテーマだった。僕が呼ばれた理由は、2012年10月から2016年3月まで、大阪市の「グローバルイノベーション創出支援事業」に携わってきたためだ。

僕が招かれたパネルの前に「地方発 世界最先端ベンチャーを生み出す構想と志について」というセッションで、冨田教授とGREE共同創業者で現在は慶応イノベーション・イニシアティブというベンチャーキャピタルの社長をされている山岸さんの対談があった。そこでの冨田教授の話は核心を突いていた。

冨田教授(慶應義塾大学先端生命科学研究所 所長 冨田勝氏)は、東京生まれの東京育ちだそうだが、40歳の時、慶應義塾大学として初めて首都圏以外の場所に設立した「先端生命科学研究所」の所長に就任し、山形県の鶴岡市に赴任された。それから10数年、今ではとても鶴岡市を愛されていることが言葉の端々から伝わってきた。

「日本人の中に、東京が一流、地方は二流という意識があるうちは、地方再生は成功しない」。

東北出身、それも高度成長期の東北に育った僕には、冨田教授が言いたいことの意味がよく分かる。

当時の福島県郡山市でのホワイトカラーの仕事と言えば、市役所(公務員)、銀行員、教師、医者、弁護士ぐらいしかなかった時代で、大学進学と共に上京し、そのまま東京の大企業に就職する、というのが上昇志向のある人間の人生だった。東京に対する憧れや「東北(田舎)」ということに対する「劣等感」がなかったと言ったら嘘になる。

でも、あの大震災を機に、若い人たちの価値観が大きく変わってきているようにも思う。

「普通は0点!!」

「チャレンジできる人は、チャレンジする義務がある」。

「日本にはベストエフォートでの失敗であれば、拍手喝采する文化が必要である」。

また、詳細は忘れたが(スライドを写真に撮ればよかった)、福沢諭吉は「世の中の目を気にするな。自分が信じたことをやれ。そうして世の中を変えていけという趣旨のことを言っていたらしい。

冨田教授は、それは「イノベーションを起こせ」ということだと理解していると仰っていた。

Spiber では、東京に小さな事務所があるらしいが、東京への転勤を「東京に飛ばす」というらしい。関山さんは絶対に本社を鶴岡市から移すつもりはないという。

最後に、冨田教授の「所長挨拶」を紹介したい。是非、読んでみて欲しい。日本社会に欠けていること(必要なこと)が、書いてある。