その選択の意味は、20年後にならないと分からない。

今の自分なら、白金の「八芳園」で、僕は紋付袴、妻は白無垢で結婚式をするだろう。日本文化に誇りを持っているからね。でも、当時の僕は型に嵌められることを嫌い、今で言うフリースタイルの結婚式と披露宴を行った。まあ、表層的というか、考えが浅かった・・・。

挙式や披露宴に関する自分なりのイメージは持っていたが、新郎自ら自分たちのウェディングをプロデュースするわけには行かず、妻と一緒に、プロデュース会社を探して回った。

その中の一社がプラン・ドゥ・シーだった。今でこそ数百億円の売上を持つ会社になったが、当時は恵比寿の汚い雑居ビルに入っており、検討した7-8社の中で、最も規模が小さく、今にも潰れそうな感じさえしていた。

その頃のプラン・ドゥ・シーは、社長の野田 豊氏と長田一郎氏(その後、長田は独立し、株式会社ホロニックというホテルやレストランの運営会社を創業した。僕は少額だがホロニックに出資した)の2人しかおらず(パートタイムはいたかもしれない)、社長の野田自ら接客してくれた。

その野田に「平石さん、紹介します!ポン!ポン!」と呼ばれて、オフィスの奥から出てきたのが、スペインから帰国したばかりの岡村侑哉氏だった。野田と岡村(僕も彼をポンと呼ぶようになった)は大学時代の同級生だったそうである。

彼は大学を卒業後(中退?)、単身スペインに渡り、画家の登竜門と言われるコンテストで見事に「グランプリを獲得」した。しかし、スペイン人と結婚しているわけでもなく、独身の日本人は「いつ日本に帰国してもおかしくない」ということで、そのリスクを嫌ってか、どの画廊も彼のスポンサー(専属の画家としての契約)にはなってくれなかったという。

その現実を踏まえて、彼は日本への帰国を決意した。

彼はその後、デザインやウェブサイト(今はアプリ開発も行う)開発会社の株式会社ラソナ」を創業する。

僕は彼に、イラストやデザインの仕事を発注していたが、一度も就職したことのない彼は、見積もりの作り方さえ理解していなかった。また、彼の仕事と提示金額がどう考えても見合わず、僕は自ら「この見積もりは安すぎる」と言い、彼が提示してきた金額の「1.5倍」程度の費用を支払ったりしていた。

そんな付き合いが数年ほど続くうちに、ポンは経営者の才能があったのだろう、ラソナはスタッフ40名を数える会社になった。

僕はある時、とある経緯があり、やはり少額だが、ラソナに出資し、社外取締役になった。

とある経緯とは、ウェブサイト制作という「受託ビジネス」だったラソナを自社プロダクトを開発する会社へと脱皮させるべく、新規事業を立ち上げ、ベンチャーキャピタルから資金調達し、尚且つ、IPOを目指す、ことになったとのことで、それを手伝うためだった。

しかし、残念ながら、ポンの挑戦は失敗に終わり、ラソナは瀕死の重傷を負った。

そんな時、資金援助に応じ(株主になり)、ラソナを救ってくれたのが、株式会社千修の下谷友康氏(社長)だった。下谷さんが社内を説得するのは容易ではなかったことは想像に難くない。

千修は、中堅どころの印刷会社で、下谷さんは三代目の経営者だ。現在は印刷に留まらず、デジタルコンテンツの領域を含めた事業を行っている。千修の下谷氏は、株式会社アーキタイプの中嶋 淳氏(電通デジタル局出身)の紹介だった。

ラソナはその後、オプト出身の村元啓介氏という優秀な人材を経営陣に迎え、見事にV字回復し、来期は創業来の「営業最高益」更新も視野に入ってきた。

ようやく、そのような経営状態になったこともあり、村元さんが経営会議でしてくれた「深セン」の話がキッカケとなり、ラソナの全取締役(岡村・村元・下谷・平石)は、11/8(水)〜10(金)の強行軍で、香港・深セン出張に出掛けた。残念ながら、中嶋さん(ラソナの顧問)は、電通のOB会と重なってしまい、参加できなかった。

千修は、香港に現地法人、深センには印刷工場を持っており、現地事情に通じている。当然ながら中国語が話せるスタッフがいる。

香港から深センへは、千修の現地スタッフがアテンドしてくれた。深セン駅までは電車で行ったものの、その後は、運転手付きのクルマを手配してくれて、帰りはなんと、「クルマに乗ったままイミグレを通過できる」方法(ルート)で香港まで帰ってきた。こんな快適な海外出張は初めてだった!

深センでは、村元さんのコネで、オプトが出資しているTechTemple(Co-working Space兼シードファンド)」と、僕がアポを取った「HAX & SOSV(世界的に有名なハードウェアのアクセラレーター&シードファンド)」を訪問した。非常に有意義な出張となったが、千修の方々のご尽力無くしては、今回のような極めてスムーズで時間効率の良い出張にはならなかったのは言うまでも無い。

ところで、僕が「プラン・ドゥ・シー」を選んだ理由は、野田という人物に可能性を感じたことと、彼と付き合っていると、何かオモシロイことがありそうだ!と思ったこと、そして、僕は既に起業しており、イベント運営等を行う仲間もたくさん知っていたため、仮に、プラン・ドゥ・シーが倒産したとしても、何とかなるだろうと考えたからだった。

実際、披露宴が終わった後、野田と長田の2人が、僕のオフィスまで、結婚式と披露宴のプロデュース費用の「現金」を受け取りに来た。そのぐらい、資金繰りが大変だったということだ・・・。

結婚後も、野田や長田や彼らの友人知人とはゴルフをしたり、食事に行ったりという交流が続き、その中には、まだ、FAX DMを運営していたオプト創業者の鉢嶺氏もいた。また、元社員だった杉元 崇将氏は独立し、株式会社ポジティブドリームパーソンズという会社を創業。今や売上173億円の会社に成長している。要するに、僕の勘は当たったということだ!(笑)

さて、前置きが長くなったが、僕たちが結婚したのは、1994年5月29日。あれから23年の歳月が経った・・・。

あの頃の僕は、その年の暮れ、Netscape Nagivator 1.0が公開され、翌年には Windows 95が登場することも、その数年後には、自分自身がネットビジネスの起業家になることも、当然ながら、知る由もなかった。ましてや、ラソナの社外取締役になり、千修の下谷さん、村元さんと一緒に香港・深セン出張に出掛ける日が来るなど、想像さえしなかった。

54歳という年齢は正直、こうして書くのも嫌なほどだが、LIFE SHIFT」という本のとおり、21世紀は「人生100年時代」である。

香港のホテルで、あるBIGな構想を岡村氏に話したら、彼は僕にこう言った。

「平石さん、いいですね!(でも)20年掛けて取り組む構想ですよ!!」。

そうである。簡単な構想ではない。20年、つまり、この先の人生を懸けて取り組む覚悟が必要だということだ。

「ウエディングプロデュース」会社の「プラン・ドゥ・シー」がもたらした「縁」に感謝である。

人生は常に「トレードオフ」である。

久しぶりに良い天気に恵まれた文化の日の3連休最終日は、何年ぶりかで東京ドームシティに出掛けた・・・。

小6の長男は「中学受験」で忙しく、連休中は、模擬テスト、志望校の学校説明会等があり、妻は彼の付き添い。僕は、次男(5歳)の担当となり、最終日は朝から東京ドームシティ・アトラクションズ(要するに遊園地!何年か前から、こう呼ぶようになったらしい)に行った。

3連休で尚且つ晴天ということもあり、混んでいるかな・・・と思ったが、それ程でもなく、7-8個のアトラクションを楽しむことができた。トランプ大統領の来日中で、厳戒態勢にも関わらず、首都高も一般道も空いていた。

前回のエントリーにも書いたが、人生の時間は限られている。中学時代、地元(福島県郡山市)の本屋に貼ってあったポスターと本を買った時のカバーに、こう書いてあった。

「あの本を読めば、この本は読めない。読む価値がある本は買う価値がある」。

勿論、時間をずらせば、あの本もこの本も読めるし、同時並行で読むこともできなくはないが、普通に本を読む場合、今、あるいは次に、どの本を読むか? 選択を迫られる。

人生は常に「トレードオフ」である。

やらなければいけないこと、やりたいことはたくさんあるが、何を選び取り、何を諦めるか?

仕事もプライベートも「同じ時間軸」にしか存在していない。20代の時に働いていたODSというユニークなコンサルティング会社で教わったことだが、「公私を分けて判断することはできない」ということだ。

金曜日の夜、デートをすれば、その時間は仕事はできないのである。

仕事もプライベートも含めて、その日、その時間を何に使いたいか?(あるいは、使うべきか?)が判断基準である。

彼が大人になった時に憶えているかは甚だ疑問だが、3連休の最終日、次男と丸一日一緒に過ごせたことは、僕にとって、とても大切な思い出になった。仕事を含めて、やりたいことは多々あったが、僕の選択は次男と一緒に過ごすことだった。

ところで、今朝早い便で羽田を発ち、34年ぶりの香港に来た。行き慣れている欧米とは異なる「アジア特有の混沌」があった。

明日は人生初めての「深セン」に行く。楽しみである。

年齢や体力の衰えを言い訳にせず、自分にできる最大限の大きなことをやってみたい。

孫さんの記事を読んで、改めてそう思った。

「おカネにならない仕事」と「終わっていない宿題」。

あれは僕がまだ起業して間もない頃、ベンチャーとは言えない、どこにでもある零細企業を細々と経営していた頃だった。

まだギリギリ20代だったか30歳になったかの年末、新宿西口のセンチュリーハイアットで、人生で初めて作った会社の共同発起人であり、その後、数年間、一緒に経営をしていた堀水克年氏(現在は株式会社ダイアログマーチャンダイズを経営)と2人でMTGをしていた時だった。

いつかビジネスで成功し、それなりの社会的立場になり、金持ちになったとしても、白いTシャツとGパンで、こういうホテルで食事をしたい、つまり、体制側の人間にはなりたくないと思っていた。

あの頃の自分が夢見た成功も社会的な立場も実現していないが、当時の自分が抱いていただろう感情は、今の自分の精神構造とそれ程大きくは変わらないように思う。

自分で言うのも何だが、一見すると、僕は世の中で言う「人の良い人」だと思う・・・。頼まれると嫌と言えないし、他人を助けない自分は好きではない。しかし、頼まれたことを優先し、自分が思い描くスケジュールどおりに事が運ばず、時間が足りなくなると、イライラする・・・。尚且つ、54歳の自分は体力も衰え、20代30代の頃のようには仕事ができない。でも、むしろ、やりたいことはたくさんある。尚のこと、時間が足りなくなる・・・。

でも、すべては自業自得である。嫌なら断ればいいし、誰かに強制されているわけではない。自分で選んだ結果である。

つまり、他人を助ける人でありたい(他人を助けない人間は冷たい)という自分の価値観を守るか?自分の予定を優先するか?の間で、自分の価値観を優先しているだけのことだ。

それなら立派だが、自分の感情と素直に向き合うと、そこには、誰かに頼まれたことを断った場合、自分が何かを頼んだ時にも断られるだろう?とか(まあ、その可能性はあるだろう)、何かのチャンスを失うのでは? という自分がいることが分かる。

自分の価値観に基づく生き方を実践したいと言えば聞こえはいいが、人から嫌われたくないし、すべてのチャンスを逃したくない、という、「小心者」で「自己中心的な人間」なのだ・・・。

ところで、ドラッカーは「成果を上げる人間は仕事から入るのではない。『時間』から入る」と言っている。

大きな仕事を成し遂げるには、そこまで大きなことでなくても、集中力が要求され、それなりの難易度の仕事をするには、まとまった時間が必要なのは、僕がこうしてわざわざブログに書くまでもない。細切れの時間では、大したことはできない。

あれもこれもは虫が良すぎる」ということだ。

つまり、自分のキャパシティではすべてを追いかけるのは難しいのであれば、何かを得るためには、何かを捨てる勇気が必要だ

もし、何も捨てたくないのであれば、それほどまでして成し遂げたいことはない、ということである。

ところで、今回のエントリーの「おカネにならない仕事」であるが、このブログを書くことも(仕事ではないが)、少なくとも直接的にはおカネにはならない。

でも、こうしてブログを書く理由は、自分が考えていること、その時の自分の「感情」と向き合うことで、自分の精神状態を諌める(安定させる)ことができるからだ。

不思議だが、こうして言語化していくと、「焦っても何も進まない。ひとつひとつ目の前のことに取り組み、一歩一歩、進むしかない」と思えてくる。

ドラッカーはこうも言っている。「人は1年でできることを過大評価し、5年あればできることを過小評価する」。

過去の今日を振り返るfacebookの機能で、昨年の今日書いたブログを読み返した。仙台で開催されたJVCA(日本ベンチャーキャピタル協会)の会合で、慶應義塾大学先端生命科学研究所を立ち上げられた「冨田 勝」教授にお会いした時のことが書いてあった。

冨田教授が紹介されていたことだが、福沢諭吉は「世の中の目を気にするな。自分が信じたことをやれ。そうして世の中を変えていけ」という趣旨のことを言っていたらしい。

「終わっていない宿題」を成し遂げるには、焦らず、無理せず、一歩一歩、進んで行くしかない。

頭では分かっていても、焦ってしまい、心が落ち着かなくなったら、また、ブログを書くことにしよう。

※洗濯物を干し終わった後。我が家の屋上から。2017年11月3日。