「さよなら僕たちの保育園」・・・。

「さよなら僕たちの保育園」。その文字を卒園式の式次第の中に見つけた時、サビの部分がフラッシュバックしてきて、思わず目頭が熱くなった・・・。

「さよならぼくたちのほいくえん。ぼくたちのあそんだにわ。さくらのはなびらふるころは、ランドセルのいちねんせい」。

3月9日は、僕の人生を変えたインタースコープというネットベンチャーの創立記念日でもあり、今年は次男の保育園の卒園式だった。

次男が通う保育園の担任の先生が、卒園式で歌う歌としてこの歌を選び、子供たちに歌詞を教えた時、子供たちは、ただそれだけで、涙を流したという・・・。

6歳児であっても、この歌の意味を理解した、ということだ。「僕たちの保育園」で過ごした時間がいかに素晴らしいものだったか、先生たちや友達とのふれあいがどれだけ貴重な時間だったか・・・を。

6年前、長男の小学校の「入学式」ではこういう気持ちにはならなかったが、保育園の「卒園式」では、長男の時も、そして次男の時も、切ない気持ちが湧き上がってきた。

毎日の送迎がどんなに大変だったとしても、子供の具合いが悪くなり、仕事との両立が大変な時があったとしても、その保育園を卒業することは、親にとっても、言葉にできないものがある。

我が子が小学生になるのは素晴らしいことだし、子供の将来に希望を持ってはいるものの、二度と戻らない何かを手放さなければならないこととの間で、喜びと感謝と切ない気持ちが交錯するのだろう。

その一方、財務省の公文書書き換え(改竄と言って差し支えないだろう)には、憤りという言葉では済まされない何とも言えない気持ちにさせられた・・・。

元財務省理財局長(元国税庁長官)の佐川氏は、福島県出身だ。同じ福島県出身の人間として、財務省の「エリート官僚」が同郷の人間だと思うと、何とも誇らしくも思っていたが(今もそう思っている)、今回の一件はとても残念だ。

同郷だからといって、彼をかばうつもりもないし、そういう感情はないが、誰がどう考えても、そんなリスクがあることを、ましてや、順調に出世階段を上っていた人間が、公文書書き換えという、刑事犯にもなり兼ねない危ない橋を渡る理由が分からない・・・。

彼にとって、いったい、どんなメリットがあるのだろうか?

動機は何で? いったい何のために書き換えの指示を出したのか? その「理由が分からない」・・・。

こんな記事もあった・・・。

小泉進次郎氏は、日本経済新聞の取材に「自民党は『トカゲのしっぽ切り』と言われるような、官僚だけに責任を押しつけるようなことをする政党ではない姿を見せないといけない」と語ったそうだ。

また、共同通信によると、石破茂元幹事長は3月11日、滋賀県の講演で「現場の官僚にそんな権限があるとは思えない。一体誰が行ったのかを明らかにしなければ、自民党の信頼が揺らぐ」と言ったそうである。

自殺者まで出ているのだ・・・。その方は何故、自らの命を絶つまで追いつめられたのか?

ご遺族のことを思うと、何ともやり切れない思いになる。

経済同友会の小林喜光代表幹事は、麻生大臣について「当然、監督責任はある」「辞めるかどうかは政治家の考え方、美学による」との見解を示したそうだ。

「さよならぼくたちのほいくえん」を歌った子供たちが、大人になり、今回の事件を「歴史として」学んだ時、彼らは何と判断するだろう・・・。

20代の時に働いていた会社の社長に、こんなことを言われたことがある。

「あなたは『理想主義者』だね。あなたが40歳になっても、今のままでいられたら、僕は初めて、あなたを尊敬する」。

そう言われたことをある人に言ったら、こういう言葉が返ってきた。

「いくおちゃん、それって、嫌味を言われているということを理解できないといけないよ」。

なるほど・・・。世の中とは、そういうところなのか? と思ったことを憶えている。

さて、今月30日で55歳になる僕は、あの頃とあまり変わっていない気がする・・・。

ということは、その「嫌味」に勝った?ということか・・・。

大きな組織では生きていけないし、忖度(はできるが)することは嫌いだし、経済合理性よりも感情が勝ってしまう人間かもしれないけど、「私以外、私じゃないの」なわけで・・・。

僕が何を言おうと、どんな生き方をしようと、世の中には、鼻クソ以下のことしか残せないかもしれないが、少なくとも「潔く生きたいね」。

嫌味を嫌味と分からなくても・・・。

追伸:先月のヨーロッパ出張に向かう機内で、1974年のウォーターゲート事件を題材にした映画「ザ・シークレットマン」を観た。ミッション・インポッシブルの中だけでなく、現実世界にも、こういう人がいるということを知り、嬉しくなった。