まずは手を挙げる。

ここ数年、ブログの更新が滞っていた。せいぜい、1か月に1回か2回くらいしか書けなかった。書きたいテーマが無いわけではなかったが、多忙な時間を縫って書こうというほどの強いものではなかった。それが最近、久しぶりに、書き残しておきたいことが出てくるようになった。

最近のエントリーを書いていて再認識したことがある。それは、僕が書きたいことは一貫して、自分という「個性」を認めてもらえなかったことに対する「鬱屈した想い」と、そういう「日本の教育制度に対する苛立ち」だということだ。

経営学やイノベーション論で著名な「米倉誠一郎」教授に初めてお会いしたのは、まだサンブリッジグローバルベンチャーズを経営していた頃だった。ある日、都内の某高層ビルにある米倉教授のオフィスを訪ねた。

何の用だったかは憶えていないが、挨拶こそ交わしてくれたものの、ろくに僕と目を合わせてくれない教授に対して、失礼な人だな…と思ったことを憶えている。

その何年か後、偶然、日比谷線の中で教授に遭遇した僕は、恐る恐る「米倉先生ですよね?」と声を掛けてみた。すると「なんだ。同僚じゃないですか!」と、予想もしていなかった言葉が返って来た。なんだ、見た目通り、ファンキーな人なんだ!と思ったw。

米倉教授は、一橋大学を退職された後、僕が非常勤でお世話になっている法政大学のMBA(イノベーション・マネジメント研究科。略してイノマネ)に着任された。僕が2010年からイノマネにお世話になっていることを話したところ、そう仰った。

その米倉教授にまつわるエピソードで、とても共感させられる話がある。

詳しくは、下記のブログをご一読いただきたいが、要するに、間違ったらどうしよう? とか、気恥ずかしいとか、そんなことはバッサリと捨てて、とくにかく「手を挙げる」ことが極めて重要だということだ。

※写真は下記のブログより掲載。

『誰も、誰一人として手をあげませんでした。すると、むしろ先生が手をあげてマイクをとり言うのです。「例えばな、こういう時、手を挙げることを俺は0.1と捉えるんだ。そしてお前ら一人一人を 1とするだろ。そうすると、手を挙げたやつは1+0.1=1.1になるわけ。で、例えば手を挙げないとするだろ。そうすると手を挙げないやつってのは 1-0.1=0.9になるんだよ。つまり、チャンスを一個失ったからさ、1であることすら保てないわけだよ。さてここで問題だ」。

この先に米倉教授は、極めて重要なことを仰った。

「手を挙げる」ということに関して、思い出したことがある。中学生になって間もない頃のことだ。

僕が卒業した小学校は新設校だったこともあってか、とても自由闊達な校風だった。我先にとまではいかなくても、授業中は質問の答えが分かれば必ず、手を挙げた。

それが、中学に行ったら、誰も手を挙げない。皆、分からないのかなぁ…と思っていたら、当てられると、ちゃんと答える。それは、本当に不思議だったし、とてもガッカリした。

僕が卒業した小学校ではない小学校から来た生徒たちは、そういうカルチャーの学校で育ったんだろうな…。分かるからといって、ハイ!と手を挙げるのは、慎ましやかじゃないとか、謙遜が足りないとか、自慢はよくないとか・・・。

でも事の本質は、日本の「失われた20年(そろそろ30年になる!)」の原因でもある「減点主義」で育てられたからだろう。手を挙げて、もし、答えが間違っていたらどうしよう・・・、自分は「頭の悪い児童(小学生)」と思われるんじゃないか? という「源点主義」な校風、もっと言えば、尊敬なんて言葉からは程遠い教師(と言うに足らない!)たちに教育された被害者だったんだろう。

ところで、僕の盟友、インフォプラント創業者で、インフォプラントをYahoo! Japan に売却した後、八戸学院大学の学長を6年務めた大谷さんは「日本の教育を創り直す!」ことをこの先の人生のミッションとして、インフィニティ国際学院という、ミネルバ大学の高校版を創設した。

その大谷さんに声を掛けていただき、インフィニティ国際学院のナビゲーターなる役職を仰せつかり、時代遅れも甚しい日本の教育をDisrupt!し、ReDesignしていくことに携わる貴重な機会を頂いた。また、まだここには書けないが、もうひとつ、日本の教育の世界をRock! する、極めてエキサイティングなプロジェクトに参加することになった。

僕の能力では実現出来なかった「教育の世界を改革する」という想いを「問題意識を共有する人たち」と力を合わせることで具現化できるとしたら、Connecting the dots. ということだ。

2006年3月にドリームビジョンを創業した時から、さらに言えば、小学校の時の担任、中学校の最初の中間テスト(数学だけ出来なかった)で担任に言われた一言、高校の古文の教師、高校生のくせにチケットを売ってライブをするのはNGだといって、無理やりキャンセルさせられたり人が大勢集まると、ケンカ等が起きるかもしれない!=問題&リスク回避=保身)等に対する怒りと疑問を持ち続けてきた。

大学に至っても、同様である。とても残念なことに、まだ67歳にして亡くなられたクレイトン・クリステンセン氏やマイケル・ポーター氏、そして、MBAを痛烈に批判しているミンツバーグ教授等、経営に関する素晴らしい研究成果を残している方々もいらっしゃる一方、株式を発行したこともなければ、銀行から融資(住宅ローンではない!)を受けたことも、従業員を採用したり、ましてや解雇したこともなく、経営が何たるかを理解しているとは思えない方々が「経営学部」の「教授」なる役職に就かれている。尚且つ、教授になったら「降格はおろか、解雇されることはない」。

また、大学の「経営」という観点で見れば、どこからどう見ても「教育機関」であり、「教育産業受験料収入授業料、そして、文科省からの助成金(我々の税金)で大学の経営は行われている。一部の大学は寄付もある)」であるにも関わらず、教授になるためには、査読付きの論文を何本書いたか? 学会発表を何回行ったか? 等で、「研究成果」で評価される。つまり、教育に力を注げば注ぐほど、研究のために費やす時間は無くなる。教授への階段は遠くなるのが現実だ。

こうしてブログに書いているだけで、ふつふつとした怒りがこみ上げて来る。

50代半ばにして、それらの「象牙の塔」の課題を解決すべく「挑戦する」ことが出来るとしたら、相手に不足はない・・・よねw!

The’s the way an entrepreneur goes!

僕は自分のことを褒めたことがない。

勉強は出来たほうだった。中学までは・・・。おそらく、僕の人生で最初の「挫折」は、高校受験に失敗したことだと思う。合格発表の掲示板に自分の名前が無かったあの時のことは、今もよく憶えている。

詳細はここでは書かないことにするが、昨年末から、「1分で話せ」の著者、伊藤羊一さんとお会いしたり、Slackで話をしたりするようになった。先日の伊藤さんのFBポストを読んで、僕はとても考えさせられた。

「1分で話せ」は40万部を超えるベストセラーとなったこともあり、ご存じの方も多いと思うが、伊藤さんは、日本興業銀行(元みずほ銀行)でご自身のキャリアをスタートさせた。

彼は横浜支店で働いていた時、様々な苦労を乗り越えて、明和地所のマンション建設に必要な融資案件をまとめることができたそうだ。そして、自分が融資を担当したマンションが完成した時、行ってみよう!と思って、休日に現地まで見に行った。

「入居者の家族が、笑顔でそのマンションに入っていったのを見たんだよな。その様子は、今でも鮮明に覚えている。25年前くらいのことなのに。ひと家族とすれ違っただけなのに。そのくらい、感激があった。ああ、自分は取引先にお金を融資する、という仕事をしていたんだけど、融資をするのが仕事なんではなくて、、、そのお金が使われて、こうやってマンションが建って、そこに入居する人がいて、それで、笑顔で幸せに生きている。それが仕事の意味なんだな、と。その笑顔に触れた時、自分の中で電流が走った。あれが原点」。

「石切り職人」の話である。

こうしてブログに書くのも嫌になるが、56歳(今年3月で57歳になる!)にもなる僕にとって、伊藤さんのような「原点」はあっただろうか? 回想してみたが、残念ながら、僕には、伊藤さんの身体に流れたような電流が走ったことは一度もない。残念ながら本当に・・・。

トイレの中で、そのことを考えていた時、伊藤さんのような経験ではないけど、僕の中で、ひとつの区切りになった出来事を思い出した。それは、僕の人生で初めてのクルマを買った時のことだ。

その話をすると未だに妻に笑われるのだが、才能もないくせに、大学一年生になるまでは、あわよくば、ミュージシャンになりたいと思っていた僕は、いわゆる「会社」という場所で働くということが、まったくイメージできなかった。

長くなるので詳細は割愛するが、ある会社で働いていた24歳の時、ビジネスの世界で生きていくことにリアリティというか将来展望を持てなかった僕は、とある有名な劇団のオーディションを受けたのだが、なんと、300人中の5人に選ばれてしまった。しかし、俳優を目指して勝負する勇気もなく、皮肉なもので、その数年後、起業した。そして、それからの約9年間は、とにかく、お金で苦労をした。そんなこともあり、僕は人並みの生活を送りたかったし、経済的に成功したかった。

今までに計8社の創業に参画したが、その内の1社、ウェブクルーが上場したことで、そこそこのキャピタルゲインが入った。僕は2004年3月、学生時代から憧れだった「BMW (Z4 3.0i)」を購入した。渋谷のセルリアンタワーホテルでアポがあり、恵比寿のマンション(これもウェブクルーのキャピタルゲインで購入した)を出て、旧山手通りに入り、神泉の交差点から国道246号を降りて、渋谷駅南口の交差点でUターンし、セルリアンタワーホテルの駐車場にZ4を停めた時は、それまでの苦労が報われた気がして、とても嬉しかった。

こうして書きながら、もうひとつ、思い出したのは、インタースコープというインターネットリサーチの会社を創業し、Yahoo! Japan にエグジットした時のこと。インタースコープは、業界の「御三家の一角(マクロミル、インフォプラント、インタースコープ)」として数えられるようになり、インターネットリサーチという業界の創造と発展に、それなりの貢献をしてきたという実感を持てたことだ。

しかし、伊藤さんが感じたような「電流」を感じたことは、残念ながら、一度もない。

これもお恥ずかし話なのだが、つい先程、その理由が分かった気がする。それは、僕は「誰のために仕事をしているのか?」という意識が希薄だったからだと思う。

話は変わるが、同じくインターネットリサーチ御三家の一角、インフォプラントの創業者である大谷さん(元Gパン学長)が設立した「インフィニティ国際学院」という、とてもぶっ飛んだ高校がある。僕はそのインフィニティ国際学院のナビゲーターなる役職を仰せつかっているのだが、明日、記念すべき第一期生に対して、オンラインで授業をさせてもらうことになっている。

自分が中学1年生の時に感じた「矛盾」や「落ちこぼれ」だった高校時代の頃を自分を思い出すと、その多感な時期に「どんな大人」と接するか? どんな教育を受けるか? が、その後の人生に大きな影響を与えることはこうして書くまでもない。

典型的な日本の教育に何らかの問題意識や窮屈さを感じて、インフィニティ国際学院に入学してきたのだとしたら、彼らの人生のたった2時間かもしれないが、自分に課された責任は大きいし、彼らの将来に幾ばくかでも貢献できるとしたら、それはすごく光栄なことだ。

あの頃の日本には無かった仕組みを自らの手で創り上げた大谷さんには尊敬しかないし、こういう機会を頂けたことは感謝しかない。

中学1年生の時の担任との会話が、僕が日本の教育制度に対する問題意識を持つに至ったきっかけになったのだけど、その問題意識や制度の矛盾を解決する、少なくとも解決すべく「挑戦」することで、僕も、若い日の伊藤さんが感じた「電流」を、還暦までには感じられるかもしれない。

美容室は、髪を切りに来るお客さんをキレイにしたり、かっこよくしてあげたり、幸せな気持ちにさせるために存在している。

マラソンの有森裕子選手がオリンピックで「2個目のメダル」を獲った時に仰った言葉を発するようになれることが、僕の人生の目標である。

あと3年3ヶ月。頑張ろう。