木下さんに初めてお会いしたのは、もう10年以上前、彼がまだWhite & Caseという米系大手法律事務所に勤務されていた時だった。当時、モルガン・スタンレー証券にいた共通の知り合いを通じて知り合った。
もうひとり、有名な経済評論家の方と僕と合わせて4人で、故中曽根康弘元首相、故安倍晋三元首相等、錚々たる政界の方々が座禅を組みに訪れるという、東京は谷中にある「全生庵」で座禅を組んだ時だった。
あの時も暑い夏の日だったと記憶している。座禅の後、皆で焼肉を食べた。
当時の僕は、ウェブクルー(2004年9月に東証マザーズにIPO)、インタースコープ(2007年2月にYahoo! JAPANにM&Aで売却)と2件のエグジットの後、運と実力を勘違いし、ドリームビジョンという会社を立ち上げたものの、上手く行かず、会社は残したが、事業は整理して、晴耕雨読ならぬ、「晴『読』雨読」の日々を送っていた。
そんな時だったからかもしれないが、初めて組んだ「座禅」のせいか、その週末は、それまでとは明らかに違う精神状態だった。
木下さんにも、他の方々にも訊いてみたが、やはり、その週末は、いつもとは違い、精神が安定していたと言っていた。
何事も効果が無ければ、何千年と続くはずがない。
その後のことは憶えていないが、暫くした頃、木下さんから「Southgate」というクロスボーダーのブティック法律事務所を設立し、独立するという案内が届いた。九段下(南)にあるオフィスにお邪魔したことも、ぼんやりとではあるが、記憶に残っている。
ドリームビジョンとして海外のスタートアップに投資する際の投資契約書等でお世話になったり、クロスボーダーの法律事務所を探している友人にSouthgateを紹介したりという縁が続いたが、Infarmを日本市場に参入させることになり、僕が日本法人の社長に就任することになってからは、色々なことでお世話になってきた。
Infarm の解散および清算手続きに関しては、ここには書けないことも含めて、様々なことがあり、その都度、親身になり、我々を助けてくれた。今も助けていただいている。
Zoom 越しではあったが、最後にお会いしたのは今年3月だった。その時は、文字通り、ここには書けない、Infarmとして切羽詰まった状況だったが、木下さんは、いつもと変わらず、極めて冷静に、そして、的確なアドバイスをくれた。まさか、ステージ4の膵臓がんを患っていたなど、まったく気づかなかった・・・。
彼の訃報が届いたのは、7/9 (日)、木下さんと一緒に、Infarm の解散および清算手続きを担当してくれている方からだった。
木下さんとは、それほど親しい間柄ではなかったが、血縁以外の方で、これほど残念に思ったことは無い。
弁護士として、これから益々活躍される年齢だったことを思うと、ご本人はどれほど無念だったか、その心中を察すると言葉がない。
三連休の最終日(海の日)は、とにかく暑い日だった。にも関わらず、お通夜には700人以上の方が参列し、告別式には400-500人は参列されていたと思う。
木下さんがどれだけ多くの人たちにとって掛け替えのない存在だったのか、改めて認識した。
告別式で、同じくパートナー弁護士の飯谷さんやInfarmを担当してくださっている鈴木さん、小島さんと話をした時や、以前に担当して下さったことのある茂木さんをお見かけした時は、目頭が熱くなったものの平静を装っていられたが、弔事を読んだエリックと数年ぶりに会い、言葉を交わしたところ、自分でも驚いたが、彼が心配するほど、急に涙が溢れてきた。泣きながら英語で話したのは初めてだった。
エリックは新規顧客へのアポイントの際、しばしば名刺を忘れたらしく、木下さんはいつもエリックの名刺を持ち歩いていたというエピソードは、参列者の方々の笑いを誘っていた。木下さんの人となり、そして、Southgateは発展すべくして発展してきた理由が伝わってきた。
木下さんは享年46歳だったが、お子さんが3人いらっしゃる。一番下の方(次男の方)は、小学4-5年生のようにお見受けした。
実は僕も3人兄弟なのだが、僕たち兄弟の産みの母は、45歳で亡くなった。その時、末弟は3年生か4年生だったこともあり、次男の方のことが気になった。そして、我々の父は末弟が高校生の時、55歳で亡くなっており、残されたご家族の気持ちが痛いほど分かる。
でも、木下さんのお子さんたちなので、きっと逞しく、立派に成長されていくと思う。心の中で次男の方に「大丈夫だよ!頑張れ!!」と声を掛けた。
こうして、何を書いても、木下さんは戻って来ないが、せめて一言、お礼の言葉を伝えたかった。
合掌。木下さん、本当にありがとうございました!!