アインシュタインと自由

前回のブログで約束したとおり、今回はアインシュタインと自由をテーマに書くことにする。但し、その前に少しだけ「お金(収入)」の話に触れたいと思う。

先々月の最終日(3/31)、学生時代にインタースコープでインターンをし、弱冠26才にして、ニッセンとインタースコープの合弁会社(ALBERT)の社長に就任した上村という人間をゲストに招いて、キャリアセッションなるイベントを開催した。僕が上村にキャリアに関する質問をしながら話を進める対談形式のセッションだ。

ドリームビジョンという聞いたこともない会社の、しかも、有料のセッションにも関わらず、20人近い人が参加してくれた。因みに、その集客ができたのは、留学先のアメリカの大学を休学して一時帰国し、ドリームビジョンでインターンをしてくれている山田くんのお陰だ(山田くん、本当にありがとう!!!)。

上村は新卒でアクセンチュアの戦略コンサルティング部門に就職し、1年3ヶ月働いた後、インタースコープに出戻ってきた。というよりも、出戻らされたと言った方がいい。

当時のインタースコープは、結果的にニッセン(インタースコープの株主の1社)との合弁会社となる新規事業開発に着手する少し前で、共同創業者の山川が熱心に上村を口説いていた。

上村は「山川チルドレン」と言っていい程、当時から山川さんを慕っていたが、その山川さんからの誘いとは言っても、さすがに超難関のアクセンチュア戦略部門を辞してまでインタースコープに戻ってくるというのは、そう簡単な話ではなかった。親父さんにも相談をしていたという。

僕は正直、せっかくアクセンチュアに就職して活躍していた上村をインタースコープに呼び戻すことに躊躇いがあった。なので、その模様を静観していた。しかし、最後は結局、何と「君の人生にコミットする!!!」と言って、僕も上村口説きに加担した。

その言葉が響いたのかどうかは分からないが、上村はインタースコープに出戻りニッセンとの新規事業の立ち上げに参画し、結果としてニッセンとの合弁会社(ALBERT)の社長になった。

上村とのエピソードと言えば、もうひとつ、彼がアメリカの大学に留学していた頃の話がある。

彼はネットで検索してインタースコープを発見し、当社でインターンをしたいという趣旨のメールを送ってきたのだが、当時の人事担当者から「ETICを通すように」と通り一遍の返事をされたのをCCで読んだ僕が、それは可哀想だと思い、横から助け舟を出したことに始まっている。

彼はアメリカに留学する前、僕の弟が学生の頃に住んでいた学生寮に住んでおり、僕は彼に親近感をもった。それで、個人的に返事を書き、彼を面接に呼んだ。そんなこともあってか、彼は、山川さんとは別の意味で僕を慕ってくれているようだ。

そのような個人的な人間関係もあり、また、マーケティング効果を考えても、ドリームビジョンとしての最初のキャリアセッションのゲストは上村しかいないと決めていた。

さて、その上村をゲストとして呼んでドリームビジョンとして初めて実施したキャリアセッションは、幸いなことにかなり盛り上がった。

セッションが終わった後、会場から質問を受け付けたのだが、その時の質問の中で「収入」に関するものが印象に残っている。

その質問をくれた方は学生のようだったが、彼は「答えて頂けるかどうか分かりませんが、ALBERTの社長になったて年収は上がったのですか?」と質問をし、その質問に対して、上村は素直に回答した。

一言一句は覚えていないが、「アクセンチュアからインタースコープに出戻った時、そして、ALBERTの社長に就任した時、それぞれ少しではあるが年収は上がった。経営者は失業保険もなく、リスクがあるので、現在の年収は妥当だと思う」と上村は回答した。また、現在もアクセンチュアに残っている同期のスタッフで自分よりも年収が低い人間は誰もいないとも言っていた。

その学生の質問に対する上村の回答を聞いた時、僕は「ミスリードしないかな・・・」と不安になったが、そこで口を挟むことを躊躇し、結局、何も言わなかったことを少々悔やんでいる。

僕自身のことで言えば、最初の起業のクリードエクセキュート時代とインタースコープ時代の役員報酬(収入)を比べれば、インタースコープの時の方がだんぜん高かった。しかし、上村の話のように、経営者は失業保険も無ければ労災も適用されないし、尚かつ、会社の債務(クリードの時とは額が違う)に対する個人保証をしているわけで、負っているリスクを考えれば妥当な金額だったと思う。実際、上村のパターンと同じで、僕の親しい友人で商社や金融業界に働いている人達は、僕の役員報酬よりも高い給料を得ていた。

では、ドリームビジョンになってからはどうか?というと、一言で言えば半減した。

その理由は単純で、ドリームビジョンはインタースコープやALBERTと違ってVC(ベンチャーキャピタル)等の投資家から資金を調達していないので、先行投資に回せるキャッシュが限られているということである。

では、どうやって生活をしているかというと、以前のブログで書いたが、創業メンバーとして参加したあるベンチャー企業が株式を公開したので、多少のキャピタルゲインを得ることができ、それで補填しているということだ。

とは言っても、この先、2年も3年も持ち出し生活が可能なほどお金がある訳でなく、2年目(出来れば初年度の後半)からは、しっかりとキャッシュフロー(現金収支)を生み出す必要がある。そういう意味では、VC等の投資家から多額の資金を調達して事業を始められるというのは、本当に恵まれている。それなりのお金が無ければ、優秀なスタッフを採用することも出来ない。

先程の質問に話を戻すと、インタースコープの時の僕も、ALBERTの上村も、「投資家」がいるからこそ、そこそこリスクに見合った収入を得ることが出来た/出来ているということだ。そして、今の時代は10年前と比べればだいぶ違うと思うが、それでも投資家からお金を集めることはそう簡単ではない。もうひとつ、大事なことは、当然のことだが、投資家からお金を集めるということは、同時に、大きな責任を背負い込むということだ。そのことを忘れて安易にお金を集めると不幸になる。

実は本日昼過ぎに、あるVCの方がドリームビジョンのオフィスに僕を訪ねてきたのだが、その方が「平石さんがやろうとしていることには、とても共感するよ。みんな総論は絶対に賛成だと思う。だけど、お金を出すか(投資するか)?というと、なかなか難しいだろうね」と言っていた。僕もそう思う。

では、何故、そこまでして「3度目の起業」をしたのか? 
それは、カッコ良く言えば、そこまでしてやる価値があると思っているからだ。

今日(5/2)の午後、僕の親友が経営するWeb製作会社で、ドリームビジョンのWebサイト構築に関するMTGを行った。そこで、ドリームビジョンとして何を伝えるのか?そもそもドリームビジョンのミッションは何なのか?ということを、当社メンバーと友人の会社のスタッフと熱い議論をした。

既にだいぶ長くなっているので途中の議論は省略するが、僕はそのMTGで、僕が大ファンだったアイルトン・セナの話をした。

正確な時期は覚えていないが、ホンダがF1から撤退し、当時のセナが所属していたマクラーレンはパワフルなホンダのエンジンの代わりに、非力なフォードのエンジンを搭載してのシーズンだった。

当時は、ウイリアムズルノーというチームがダントツに速かったのだが、フォードエンジンでは、さすがのセナのドライビングテクニックをもってしても優勝することはおろか、表彰台に立つ(3位以内に入る)ことも出来ないという状況だった。

あれはドニントンサーキットだったが、雨が降りしきるレースとなり、路面のグリップが甘くなったお陰でマシンの性能差が相対的に小さくなり、代わりにドライバーの技量の違いが大きく効いてくる状況となった。お陰でセナは8番グリッドからスタートしたにも関わらず、オープニングラップ(最初の1週目)で「前の7台をごぼう抜き」にして「TOP」で帰ってきた。そして、完走し、優勝した。

その時の解説者は、もう解説ではなく、絶叫していた。僕はテレビの前で感動のあまりに泣いていた。

当時の僕は、それこそ「起業したはいいものの」・・・、苦戦の連続で、もう諦めようか(サラリーマンに戻ろうか)?と悩んでいた時だったのだが、セナの勇姿をみて「勇気」をもらい、「諦めずに頑張っていけば必ず、チャンスは訪れる」と想い、ちっぽけな会社の経営に踏みとどまることができた。そして、その7年後、僕はインタースコープを創業した。

僕はドリームビジョンという会社を経営していくことを通じて、そのサービスはもちろんのこと、僕たち自身の生き方を通じて、一生懸命に頑張っている人たちに、僕がセナからもらったような「勇気」をあげられたら・・・(そういうと偉そうだが、適切な言葉が見つからない)と思っているし、それが無理でも「勇気」を持つ「きっかけ」ぐらいは提供したいと思っている。

さて、では、何故、この話がアインシュタインに繋がるのか?であるが、ドリームビジョンのインターンの山田くんが教えてくれたことがある。

アインシュタインは間違いなく「天才」だと思うが、そのアインシュタインは「わたしは、一日100回は自分に言い聞かせます。わたしの精神的ならびに物質的生活は、他者の労働の上に成り立っているということを」という言葉を残しているそうです。

自分がどんなに天才でも優秀でも、常に社会や周囲に対する感謝の心を忘れない。(もちろん僕は天才ではないが)僕は常にそうありたい(感謝の心を忘れない)と思っているし、そういう人が好きだ(尊敬する)。そして、そういう人は、そのベースとなる才能や素質は親から与えられたものであり、自分の努力で勝ち得たものではない。アインシュタインはきっと、そういう姿勢を生涯に渡り持ち続けたのだろう。だから、素晴らしい功績を残すことができたのではないだろうか?

僕は科学者でもエンジニアでもないのでアインシュタインのことは通り一遍の知識と関心しかなかったが、山田くんからその話を聞いて(正確には、彼がドリームビジョンのSNSの日記に書いていたことを読んで)、アインシュタインを身近に感じるようになった。

実は、ALBERTという社名は、アインシュタインが大好きな山川さんのことを考えて、上村が提案した名前である。「アルベルト・アインシュタイン」というらしい。素晴らしい師弟愛である。

もうひとつのテーマの「自由」であるが、お金があると「自由でいられる(選択肢が増える)」ということと、お金があると「お金では買えないものを守ることができる」ということを書きたかったのだが、さすがに長くなり過ぎたので、今日はこの辺でオヤスミナサイ(笑)。

経営者への果てしない道

「あいつバカじゃないの?」
「あいつイイ気になってんじゃないの? あんなにデカデカと自分の写真を出しちゃって・・・」
などという批判があっても不思議ではない(おそらくあるだろう)ことは「覚悟」した上で、僕はこのBlog を始めた。明確な「目的」と「理由」があって。

「覚悟」という言葉に関して僕の脳裏に深く刻まれているのは、僕の12~13年来の友人でもあり、起業家仲間でもあるラソナの岡村氏(仲間内では彼のことをポンと呼ぶ)から言われた、ある何気ないメッセージである。

通常、メッセージと言うと意識的なものを指すが、彼の何気ない一言は十二分に、僕にとっては記憶に残る価値を持っていた。

それは何かというと、僕がインタースコープのことで悩んでいた時、ドリームビジョン構想の件で悩んでいた時に言われた一言である。

「平石さん、それ(インタースコープを退任すること。ドリームビジョンを始めること)には、相当な『覚悟』が要りますよ」。

彼のその予言(?)どおり、僕がインタースコープを退任し、ドリームビジョンを始めようと意思決定をしてからは、様々な問題や懸案事項が生まれている。様々な批判を含めて。

僕にとって、インタースコープの共同創業者である山川さんは、非常に優秀なエンジニアであり、経営者である。彼は、その性格と適性とにより、すべての物事を「合理的(論理的というよりは合理的と言った方が適しているように思う)」に判断する人であり、その緻密さには脱帽せざるを得ないほど、事前に想定される様々なリスクを挙げることができる。でも、いざ自分自身の行動となると、これがかなり直情的であり、その矛盾が彼の人間味でもある(笑)。彼を慕う人がいる理由は、そこにあるんだと思う。特に、母性本能をくすぐるらしく、女性社員から慕われる傾向にある。それほど、ハンサムではないにも関わらず(失礼!!)。

その彼から、様々なことで指摘を受けたり、アドバイスを受けて来たし、今も貴重なアドバイスをしてくれる。そういう意味では、彼にはとても感謝をしている。

インタースコープを一緒に経営していた時は、お互いにそうだったと思うが、相手の存在を感じるとことがあり、経営的な問題が発生しても、クリティカルな状況に立たされても、ある意味、安心感のようなものを抱いていたが、ドリームビジョンに関しては、そういうものが一切ない。これは、僕にとって、非常に大きなインパクトだ。

僕はある意味、誤解を恐れずに言えば、起業家としてはそれなりの自信があるし、そこそこの才能も持っていると思っている。しかし、「経営者」という観点に立った場合、偽らざる心境として、自己申告としては及第点に満たないだろうと思っている。

それは、僕自身にとってのみならず、ドリームビジョンという会社全体にとって、他の役員や株主、そして、何よりもスタートアップメンバーとして参加してくれた安田くんや山田くんにとって、大きなリスクとなる。ドリームビジョンのユーザーの方々にとっても。つまり、非常に大きな責任があるということである。

最近の僕は、そういうことを常に考えるようになった。

経営者への道は、まだまだ果てしなく遠い。

追伸:近いうちに、ドリームビジョンの役員との出会いを、このBlog で書こうと思う。

発熱でダウン!!!

ここ数日は起業のことではなく、子育てやプライベートの話を書いてきたので、久しぶりに自分自身の起業の経緯を書こうと思っていたのだが、週末から発熱してしまい、ちょっと書けそうにない。

今日は社外取締役を務める会社の経営会議があって、それには何とか出席してきたが、帰ってきてそのままベッドに入って寝てしまった。夜になって何とか起きて来て、どうしてもやらなければならないことをやっていた。

そのひとつで、中東に赴任している某総合商社の方にメールを書いた。彼は、僕がインタースコープを創業した直後に実施した、第三者割り当て増資を引き受けてくれた個人株主のひとりである。

僕は彼に対して、僕がインタースコープの取締役を退任したことと、その理由について書いた。

すると、わずかその20分後に返事が来た。彼の住む国と日本では、たしか、6時間ぐらいの時差があり、日本の方が時間が先なので、先方は夕方の5時前ぐらいだったと思う。ちょうど、オフィスにいてPCに向かっていたのだろうか。いずれにしても、インターネット社会であることを実感させられた。

彼からの返事には、自分(彼)がEXITできていないにも係らず僕が退任したことを責め立てるわけでもなく、むしろ、その理由を支持すると書いてあった。と同時に、ドリームビジョンに関しても、支援をしたいとまで言ってくれている。ありがたい話である。

話は変わるが、先日、あるVC(ベンチャーキャピタル)の役員の方に挨拶に伺った際に、「平石さんのような『シリアルアントレプレナー(この時、初めてシリアルアントレプレナーという言葉を聞いた)』がたくさん出てくることによって、日本社会は活性化するんです。頑張って下さい」という温かいお言葉を頂戴した。また、僕の退任の挨拶メールに対しては、「激励」というタイトルで、文字通り、励ましのお言葉を頂いた。

僕は、本当に「人」と「運」に恵まれていると思う。

月並みの言葉ではあるが、僕を支援して下さっている人たちと「幸運」のためにも、ドリームビジョンを成功させようと思う。

次は、自分で自分の歩いてきた「道の意味」を整理するためにも、僕自身の起業人生を振り返り、起業物語の続きを書こうと思う。

「額」ではなく「率」。

僕がインタースコープを立ち上げて間もない頃、インターンの学生として面接にやってきたジローが一昨日(4/18)、ドリームビジョンのオフィスを訪ねてきた。正確に言うと、彼のことを僕らのサイトで紹介しようと思って、彼の話を聞くために(要するに取材)、僕が彼を呼んだ。

彼はインターン終了後も学生を続けながら契約社員として働き、新卒でインタースコープに就職した。2003年2月に辞めるまでのほぼ4年間、事実上、インタースコープの創業メンバーとして会社の成長に貢献してくれた。

一昨日、そのジローの話を聞いて、僕の方が学ばせてもらったことがある。

『「MAXの額」ではなく、「率」なんだと思った』ということ。

彼はインタースコープを退職した後、某外資系消費材メーカーに転職をした。
その会社はマーケティング的にとても進んだ会社として認識されており、
そこでも彼は徐々に認められていったらしい。

その会社での経験を通じて彼が感じたことは、
仮に、5,000億円の売上規模の会社だった場合、
売上に対して「1%」の貢献をすれば金額換算して「50億円」になるが、
自分で何かを生み出している、あるいは、貢献しているという実感を得る
という意味では、売上1億円の会社で50%の貢献の方が、
その実感を覚えられるし、やりがいを感じるということだったらしい。

僕のような人間にとって彼の考え方は違和感はない。
というよりも共感すると言った方がよい。

しかし、世の中は様々な見方があるのも事実だし、
人によっては異なる考え方をするだろう。

ある時、グロービスの会合でグッドウィルの折口さんの話を聞く機会があったが、彼は「(持ち株の)シェアは10%でもいいが、その額には拘る」と言っていた。

別の機会に、GDH(アニメーションの会社でマザーズに上場している)の石川さん(僕の好きなベンチャー企業の創業経営者のひとりである)も、正確な数字は忘れたが「時価総額100億円の会社の50%のシャアを持っているよりも、5,000億円の会社の10%(500億円)を持っている方がよい」という趣旨のことを言っていた。

たしかに、そういう考えも一理あると思う。

要するに、自分が何をしたいのか?ということや、どういう立場にいるのか? どういうステージにいるのか? ということによって、答えは異なるということだろう。

僕は、インタースコープの10%弱の株主であるが、ドリームビジョンは80%以上のシェアを持っている。
時価総額の話をすれば論を待たないが、今の僕にとってはシェアの方が大事である。

もちろん、これからドリームビジョンの事業を拡大させて行く際に、先行投資のための資金調達を行う局面が必ず出てくると思うが、その時も、僕は自分のシェアを守るために資本政策を練るつもりである。

ジローは今、彼を含めてたった5人の会社で働いている。
社長もよく知っているが、まだ、30才になったかならないかの若い人である。

そこでの彼は、会社のブランドではなく、自分のブランドで勝負しており、とてもいい顔をしていた。
アントレプレナーシップ溢れる人間である。

起業したはいいものの・・・。

借金で用意した資本金100万円を元手に、僕の起業家人生はスタートした。

クリードエクセキュート(以下、クリードと略す)という会社は、
次の起業にあたるインタースコープを創るまで、9年間経営していた。

経営と言っても、株主は殆ど僕だし、
最も大勢の人がいた時でさえ、僕を入れて5~6人だった。
なので、個人事務所に毛が生えた程度だった。

クリードをやっていた9年間は、前期・中期・後期という具合に、
それぞれ3年ずつに分けることができる。

最初の3年間は、コンサルティング会社や広告代理店でやっていた
市場の調査分析とその結果を踏まえた戦略立案的な仕事をしていた。

そういうと聞こえがいいが、実際には、
以前に勤めていたコンサルティング会社や
知り合いに紹介してもらった広告代理店の下請けをしていた。

それでは、起業した意味がないと思い、
2年目からは自分で営業もしたが、
なかなか思い通りに仕事は取れなかった。

そうこうしているうちに3年目に入ったのだが、
ここで最初の危機が訪れた。

厳密に言えば、2年目の終わりの頃、
あと1ヶ月後に400万円の支払いがあるにも係らず、
手元の現金は殆どないという状態になったことがある。

何とか仕事を取ろうと必死になっていると、
知り合いから紹介されたワインの輸入販売を手がける会社から
パンフレットの制作を頼まれることになり、
「シメタ!!!」と思い、半金を契約時に、残金を納品後2週間以内に
という契約を結び、何とか窮地を乗り切ったことがあった。

さらに言うと、当時、そのような仕事のノウハウは無かったので、
オフィスを間借りさせてもらっていた会社にすべて丸投げした。

なので、売上380万円のうち、360万円は外注費だった。
そして、その外注費の支払いを少々待ってもらった。

でも、手元にお金が残るわけではないから、
また、次の仕事を取る必要があったのだが、
そういうところに、ある知り合いから「町興し」の一環として
企画したイベントの受け皿として、
僕の会社を貸して欲しいという相談があった。

イベントの内容は、トリニダード&トバゴという南米の国から、
スティールドラム・オーケストラのバンドを招聘する仕事だったのだが、
僕の知り合いは「個人」で仕事をしており、行政としては、
法人でないと仕事を発注できないという話になり、
その受け皿の会社を探していたのだった。

予算は400万円で外に出て行くお金も400万円だったが、
消費税分の20万円が一時的に手元に残ったので、
これで何とか凌いだ。

今にしてみれば、とんでもない綱渡りだった。
尚、この仕事はメチャクチャ大変だったが、非常におもしろかった。

またしても脱線してしまったが、3年目の危機というのは、
クリードの設立時に役員に名前を連ねていた僕の友人が、
その年の7月、勤めていた会社を辞めてジョインしてきたのだが、
一緒に連れてきたスタッフがいて、
僕一人と外注だけでさえ綱渡りの連続だった会社が、
いきなりフルタイム4人になって固定費が増えてしまい、
その割に売上が増えず、どうにもならなくなってしまったということだ。

で、僕はどうしたか・・・。

亡くなった父親の遺産のゴルフ場の会員権を売却し、
増資してみんなの給料を支払った。

でも、そのお金も4ヶ月で底をつきそうになり、
「これでもうお終いか?」と思った。

そんなふうに開き直った直後、
某銀行系クレジットカード会社の知り合いから仕事の話がきた。
(実は、その時の担当者と、その後、結婚した。)

そしたら今度は、留学・ホームステイ等の斡旋会社に転職していた
コンサルティング会社時代の知り合いから、
仕事の話がきた。

それで息を吹き返した。

ある先輩に、
「丸3年やっていれば、一人前として認められるようになるよ」
と言われていたが、そういうことかと思ったりもした。

その年の売上は3,850万円で大赤字だったが、
その翌年から3年間は、倍々ゲームで売上が伸びていった。

その頃、つまり、中期(4~6年目)の売上は、
マッキントッシュを使ったDTPと通信販売の商品提供が主たるものだった。

また、マッキントッシュとの出会いは、
極めてアナログだった僕を一気にPCフリークに変えた。

そして、その当時は「マルチメディア」なる言葉が全盛期で、
僕の周囲にはその手の輩がたくさんいた。

中には「2次プロバイダー(ISP)」を始めた人もいたりして、
急速にデジタル&インターネットの世界に魅せられていった。

ある友人は、その後、シリコンバレーに渡り、
現地のVCから20億円ほどを調達し、
シスコに対抗するシェアウエアのルーター開発ベンチャーを創業した。

今にして思うと、DTPの仕事が、
僕をインターネットの仕事に向かわせたと思う。

そうこうしているうちに、本格的にインターネットが浸透し出し、
僕もインターネット関連の事業企画に携わるようになった。

あれは1996年の12月だったから、そろそろ10年になるわけだが、
僕は、当時の売上の70%を占めていたDTPの仕事をバッサリと止めた。

何故かというと、DTPの仕事をやりたくて起業したわけではなかったから。

しかし、その翌年と翌々年は、散々な目にあった。
要するに、めちゃくちゃ貧乏になった。

初心に返って、市場の調査分析と事業開発の仕事で
会社をやっていこうと決心したのだが、
そう甘くはなく、仕事が取れなかった。

97年の夏前から98年の秋までの1年半、
妻は、週に3日は派遣で働いて家計の足しにしていた。

妻もお客さんを持っていたから、派遣で働いている日は、
昼休みに「公衆電話」から会社の留守電を聞き、
お客さんに電話でフォローをし、
夕方からクリードに来て仕事するという生活をしていた。

そんな生活をしているうちに、転機が訪れた。

設立時に役員として名前を連ねていた友人が、
ある総合商社の関連会社で働いていたことがあったお陰で、
その商社からI.T.関連の新規事業開発のコンサルティングを依頼された。

その仕事はある意味で、
僕の人生を大きく変えたと言っても過言ではないと思う。

僕は、たまたま好きが講じて英語が話せることもあり、
その商社の担当者は帰国子女でTOEIC985点という恐ろしいほど
英語が上手にも係らず、僕らが取り組んでいた新規事業に関しては、
当然のことながら僕の方が精通しているので、
ある米国企業の本社に乗り込んで
その会社のCOOにプレゼンする大役を僕に任せてくれた。

その仕事で僕は、I.T.やデータベースのことを学ぶことができた。
後のインタースコープに繋がるアイディアも、そこから得た。

そして、その仕事の担当者は、
その2年後に僕がインタースコープを立ち上げる時に、
ふたつ返事で出資してくれた。

また、同じ頃、知り合いの紹介で、
「疑似キャッシュを開発してインターネットのモール」を運営していた
渡辺さんという人と知り合った。

後に、彼からの依頼により、保険スクエアbang ! という
自動車保険の見積もり比較サイトのインキュベーションに
参加することになった。

その会社は、2004年9月21日、東証マザーズに上場した。

僕は多少の株を持たせてもらっていたお陰で、
それなりのキャピタルゲインを得た。

それでまた、僕の人生は変わった。
ネットバブル様々である。

この続きは明日にしよう。

子育てで睡眠不足の上、風邪を引いてしまっており、
夜更かしは止めろと医者に言われているので。

追伸:そういえばサイバーエージェントの藤田さんとも、オン・ザ・エッヂ(当時)の堀江さんとも、この頃に知り合った。

1991年3月

僕は人生で初めての会社を創った。

株式会社クリードエクセキュートという名前の会社で、
設立年月日は1991年3月27日だった。

社名には少々思い出がある。
本当は、株式会社クリードという名前にするつもりだった。

それが、類似商号でひっかりそうだという話になり、
なんとかクリードにするか?クリードなんとかにした方が
安全だというのが当時の弁護士の意見だった。

というのは、1991年4月1日以降は
株式会社は1,000万円、有限会社は300万円に
最低資本金が変更になる(商法改正)時だったので、
3月27日に法務局に提出して類似商号ではねられてしまうと
再提出は4月1日を過ぎるだろうから、
安全を期した方がよいということだった。

僕は当時27才で、有名な外資系広告代理店に勤務していたが、
貯金は殆どなく、銀行のカードローンでお金を借りて、
それでも足りない部分は友達と当時の彼女に借りて、
資本金の「100万円」を用意した。

今にしても思うと、僕は世の中の変化の時に、
新しく事を始めることになっているようだ。

僕が会社を創ろうと思ったきっかけは、
僕が外資系広告代理店の前に働いていた
コンサルティング会社時代の上司が商法改正になる前、
つまり、1991年3月31日前に会社を創るということで、
その手続きを手伝わされたことだ。

会社というのはそうやって創るのか・・・と思ったと同時に、
「だったら、俺にも創れるということじゃん!!!」と思い、
すぐさま行動に移した。

話を社名のことに戻そう。

クリードという社名を諦めた僕は、
なんとかクリードかクリードなんとかという名前を必死になって
考えていたのだが、僕はその時、39度の熱にうなされていた。

にも係らず、英語の辞書を片手に考えたのが
クリードエクセキュートという名前で、
自分の信条・哲学・教義(クリード)を
遂行する(エクセキュート)という想いを込めた。

その会社の「企業理念」は、

~私共は、企業・個人といった枠を超え、
より良い社会環境実現のため、
社会資源の有効活用による「社会的価値の創造」と
そのビジネスとしての構築・確立を、すべての活動の
「CREED(指針・主義)」としています。~

というものだった。

振り返ってみると、
3度目の起業となる「ドリームビジョン」の企業理念や
事業コンセプトに通じるものであり、
自分の源流はそこにあることを再認識させられる。

もうひとつ、最初の起業には思い出がある。

会社を創りはしたものの、
暫くは当時勤めていた広告代理店にいるつもりだったのだが、
会社を創って嬉しくて仕方なかった僕は、
既に独立(当時は起業という言葉はなく、独立と言った)していた
先輩達に挨拶に行ったのだが、彼らにそそのかされ、
勤めていた会社を辞めて、
自分の会社をスタートさせようと考えるようになった。

その時、以前に勤めていたコンサルティング会社で覚えた
ロジカルシンキングにより、将来の自分がどうしたいのか?
そのためには、このまま暫く広告代理店にいた方が得か?
それとも、苦労はするだろうが、
今、飛び出して、自分の会社を始めた方が得か?
ということを分析してみた。

当時の会社は、ワールドワイドの広告業界ランキングでは常時、
ベスト10の上位に入っているような会社で
クライアントも国際的な企業ばかりだったが、
そこで得られるスキルや経験と人脈は、
自分の会社を始めた後に活きるものではないことに気づき、
今、始めた方が、小さいながらも会社の経営や
事業の立ち上げの経験を積むことができ、
仮に失敗しても、そういう経験を買ってくれる人や会社はたくさんあるだろうと思い、
であれば、返せない借金さえ作らなければ、リスクはゼロに等しいという結論に至り、
「じゃあ、やってみよう!!!」ということになった。

かと言って、何か事前に準備をしていたわけでなく、
今にして思えば「徒手空拳」での起業だったが、
殆ど躊躇することなく、起業家人生をスタートさせた。

あと1ヶ月待っていれば、100万円ぐらいのボーナスをもらえたのだが、
「そんな金をもらってもしょうがない!!」とか思ってスパッと会社を辞めた。

そして、最初に取った仕事は、「20万円」だった。
1991年の5月か6月だったと思う。
28才になって間もない時だった。

その15年後、26才の若者と一緒に、3度目の起業をした。