ようやく読み終えた「下流社会」。

郡山への帰省の際、行きは珍しくベビーカーで子供がずっと寝ていたので、最後の20~30ページを残して読み終えられずにいた三浦展氏の「下流社会」を読むことができた。

因みに僕は、この本に限らず、最後の20~30ページまで来て、そこで止っている本がたくさんある。僕がしばしば口にする、「Business is a game of inches.(ビジネスは最後の詰めが肝要だ)」を実践できていない(苦笑)。

「下流社会」を読み出したのは随分と前のことなので最初の方はあまり覚えていないが、三浦氏が自身の著を通じて社会に訴えたいことは、出生地や親の学歴、経済力といった変数で、その子供の「将来=階層」が決まってしまう「固定化」された社会、つまり、階層間の「流動性」に欠ける社会は必ず、その将来において活力を削ぐ、ということのようだ。

それを、彼の専門である「統計学・社会学」という観点から「調査結果(数値)」をもとに力説している。

僕が20代の頃からインタースコープ時代を通じて行って来たことでもあるので、彼の書を読みながら、ある種の懐かしさを覚えた。

ところで、僕の妻は、芸術家の父親(ペコちゃん人形の作者)と身体障害者(脚が不自由だった)の母親の間に生まれた。自由奔放に生きて、家庭を顧みず、経済的には充てにならない父親のお陰で、家庭は経済的には決して裕福ではなかったという。

そのような家庭だったため、母親から「4年生大学に通わせるお金はないから、短大に行ってくれ」と言われて、仕方なく短大に入学し卒業したらしい。しかし、本人は「後になって考えれば、本気で4年生大学に行きたかったのであれば、奨学金を申請することも出来ただろうし、バイトで授業料を稼ぐとこも出来ただろうから、結局は自分の意志の問題だったと思う」と言っていた。

実は、彼女が短大に行った背景には、経済事情以外に、彼女が中学時代に経験した「内申書操作」としか考えられないような出来事により、本人の成績とはどう考えても釣り合わない高校に入学せざるを得ず、勉強(=社会)に対する意欲(努力する姿勢)が削がれてしまったということもある。僕自身も似たような経験をしているせいもあり、その話をすると、僕自身も憤りを押さえられなくなくので、この辺で止めておこう。

さて、話しを彼女の「学歴」に戻すと、そのことが社会的に大きなハンデキャップになることを、彼女自身が経験している。

短大を卒業して就職した会社で、4年生大学を卒業して入社してきた後輩に、彼女が「仕事を教えている」にも係らず、「短大」しか出ていないという理由で、彼女は後輩達よりも給料が安かったそうだ。また、どんなに努力をしても、年功序列(学歴序列)の社会では、その差は埋められなかったそうである。

その一方、彼女の仕事ぶりは評価され、4年生大学出身者でもなかなか着任できない部署に異動できたと言っている。「頑張れば報われることもあるんだ・・・」と、その時に思ったそうである。

ところで、彼女はインタースコープを退職した後、予備校に通い、大学3年に編入し、卒業後は大学院に進んで勉強しているわけだが、その背景には、彼女がそれまでの人生で経験してきたことに起因する「Desire(欲求)」があるのだと思う。

三浦展氏の「下流社会」を読んで、そんなことを考えていた。

ところで、僕はそもそも、水呑百姓から立身出世するような物語に共感と興奮を覚えるし、何らかの社会的「ハンディキャップ」を背負いながら、その時代の「権力者(エスタブリッシュメント)=体制側」に反逆する生き方が好きな人間である。

そういう意味では、彼の行動を決して「肯定」するつもりはないが、堀江さんの原動力が何であったかは「皮膚感覚」で理解できる。

追伸:三浦氏は最近、「富裕層」に関する本を出したらしい。どんな「視座」を提供してくれているのか?近いうちに読んでみようと思う。