1990年。今から20年前。日本経済のバブルが崩壊した時、僕は「チャンスが来た!」と思った。
昨年の夏が過ぎた頃から、時間ができたせいもあり、ドラッガーやマクロ経済関連の書籍を好んで読むようになったが、僕が読んだ経済関連の書籍(著者)は異口同音に、「バブル経済の崩壊はとんでもない出来事であり、みんなが狼狽し、悲嘆に暮れていた」と言っている。
たしかに、マクロ的にはそうだっだのだろう。
でも、僕にとっては「千載一遇のチャンス!」であり、「イス取りゲーム」をひっくり返せる!!と思った。
それは、当時の僕が「持たざる者」だったからである。
僕はその当時、J.W.Thompson という、よく言えば老舗の世界的な広告代理店、悪く言えば「金属疲労」を起こして著しく生産性が衰退していた広告代理店に所属していた。
年齢は27才。年収は、約450万円前後だった(と記憶している)。
当時は(今も同じか?)「年収の5倍」程度が普通のサラリーマンが購入できる住宅の限度だったが、つまり、450万円の5倍は「2,250万円」、600万円になったとしても「3,000万円」で、当時の「物価水準」で言うと、都心まで1時間以内で通える家族で住めるマンションを買うには「最低5,000万円」は必要であり、両親共に他界していた僕は「頭金」を援助してもらえるわけもなく、「こりゃ、どう考えても、一生、家すらも買えない・・・」という状況だった。
以前のエントリーにも書いたが、事実として、僕の友人達は結婚と共に、ある夫婦は「5,000万円」、ある夫婦は「7,000万円」の新築マンションに転居していった。
バブルが崩壊したと聞いて、僕は「持たざる者」でも「住宅が買えるかもしれない!!」と、半ばシラケていた心に「スイッチ」が入ったのを今でもよく憶えている。
ところで、このところ、「正規社員 V.S. 非正規社員」や「終身雇用と年功序列型賃金制度の是非」に関する論争や、だいぶ熱は冷めたとは言うものの「会社は誰の者か?」という議論等があるが、僕は、今後の日本社会は確実に、「unbundling(アンバンドリング)」されていく、つまり、「組織で働くことの意味」が変わってくると思っている。
ドラッガーが提唱した「知識労働者」という存在が社会を動かすようになり、その総和としての社会が「知識社会」になると、自らの「知識とスキル」が「生産材(産業資本)」となり「ポータブル」となることから、自分という「資本効率」を最大化できる組織を求めるようになり、人材の流動性が増すことになるだろう。
もちろん、正規雇用(正社員)の「解雇規制」が異常に強く、企業年金はポータブルではないことや、幸いにして自分が所属している会社に「経済合理性以上の何か」を感じている人もたくさんいるのは事実であり、そう簡単に米国のような雇用の流動性の高い社会になるとは考え難いが、でも、その流れは不可逆的と思われる。
別の観点で見ると、マーケティングの世界では20年以上も前から叫ばれている「価値観の多様化」なるものが、ここへ来て、疑いようのない現実となっており、それだけ多様化した人々を、ひとつの組織に、それも一生涯に渡って留めておくことは、社会の変革スピードを考えると、現実的とは思えない。
僕は「豊かな社会とはどんな社会か?」と問われたなら、「選択肢の多い社会」と答える。
資本主義には様々な問題があることは事実だが、経済発展と社会の成熟は、確実に「選択肢の幅」を広げてくれる。
だからこそ、僕のような人間でも、なんとか生きていける世の中になるのである。
しかし、今日の日本には未だに古いイデオロギーが色濃く残っており、「労働者は資本家に搾取される弱者であり、政府が救済しなければならない」と考えられているのかもしれないが、「知識・スキル」がポータブルであることを考えれば分かる通り、資本家が知識労働者を搾取しようとすれば、より良い条件の組織に逃げられるだけである。
さらに言えば、今日の社会において「資本家」とは誰を指すのか?
未公開尚かつオーナー経営者の企業(オーナーの出資比率が過半数の企業)であれば、経営者=資本家だが、筆頭株主でも10%もないような上場企業においては、資本家は元を質せば「個人の集合」ということになる。
つまり、資本家=経営者だった時代とは前提条件が異なるのである。
1999年(だったと思う)、BCGの内田和成氏が「デ・コンストラクション経営革命」という本の中で、バリューチェーンが「unbundling(アンバンドリング)」され、新しい秩序に基づき「re-bundling(リ・バンドリング)」されるということを書いたが、これからは「働き方のデ・コンストラクション」が起こると思う。
これは「既に起こった未来」であり、これからは「組織を離れて組織と働く人」が増えるだろう。
いや、僕がフォローしている「つぶやきの達人」たちの中には、既にそういう「生き方」をしている人がたくさんいる。
「農本主義」時代は「地域」という地理的な集合が「コミュニティ」を形成していたが、工業化に伴い、日本では「大企業」がその機能を代替するようになった。
しかし、産業の高度化およびI.T.化と規制緩和によるグローバリズムの進展により「職場」というコミュニティが崩壊し、精神的な「絆」の「unbundling(アンバンドリング)」が起こったと同時に、「価値観」や「生き方」により自分が属するコミュニティを決めその発展を願うという「re-bundling(リ・バンドリング)」が起きている。
先日のエントリーで書いた「マズローの6段階欲求説」のとおりである。
それが、TwitterやSNSが支持される要因であり、Web2.0時代の本質である。
そして、既存のルールが制度疲労を起こし、時代に合わなくなった今日という時代は、既得権益に果敢に挑戦し、新たな構造を創れる可能性のある、とても大きなチャンスでもある。
ところで、僕はここ数日の出来事を通じて、「人間は自分のために生き、自分の責任を全うすることで、結果として全体に貢献し、より良い社会を創ることになる」ということを再認識させられた。
僕が「人間は自分のために生きる」というのは、他人に優しくすることも、私利私欲を抑えて社会のために良いと思うことするのも、はたまたおカネがすべてと思い、より多くのおカネを稼ぐことに没頭することも、いずれも「自分の価値基準」に忠実に生きるということであり、他人に優しくすることで、私利私欲を抑えて社会に奉仕することで、他でもない「自分の満足」を追求している、という意味である。
シェークスピアが言うように「人間一度しか死ぬことはできない」のであれば、他人の批判を恐れて無難に生きて無難に死ぬよりも、自分の価値観を信じて、それを貫く「生き方」をし、その「生き方」に相応しい「死」を迎えたい。
まだまだ、そこまで達観はできておりませんが・・・・。