「子育て」に「リハーサル」はない。

ほぼ終日、生憎の雨模様だった月曜日の東京。でも、さすがにもう真冬の寒さではない。

ところで今日は、古い友人が新規事業を始めるということで、彼にその道のプロの女性たちを紹介するために某所まで出掛けた。

彼女達の忌憚の無いとても貴重なコメントを聞きながら、何をやるにも「自分(たち)は何屋なのか?」を明確にすることが、成功の最重要事項だということを再認識させられた。

世の中はある意味、とてもシンプルにできている。

ところで、僕が時々読んでいるブログに、とても考えさせられる内容が書いてあった。

その内容は「心配性の心理学」なる本のことだが、心配性の人は自己申告で「小中学生で約50%、高校大学生で約65%」もいるらしい。

「自分のありのままの姿を拒絶され、ありのままの行動を否定され、ありのままの考え方をたたかれてきた人は『私は、受け入れられていない』という無意識の感覚を持つようになります。

こういう人は『私は、受け入れられていない』という強い恐怖感が心を支配し、他人に恐怖を抱きます。

その結果、どうするかと言いますと、他人の前で『演技』をするようになります。

演技しなければ、他人に受け容れられない、という強い不安があるからです。

こうした人は『他人は、自分のありのままを認めてくれない』と思っているのですから、演技をすることで自分を守ろうとします」。

心配性の僕には、思い当たる節がたくさんある。

ひとつは、父方の祖父。もうひとつは、小学校の時の担任の教師。

祖父は僕たち兄弟がケンカをすると、その理由の如何を問わず、「大きい者(年上)が悪い」と言って毎回、僕に「ゲンコツ」を見舞わした。

それがとにかく痛いゲンコツだった。

そして、弟(次男)は、その「法則」に気づいてからは、形勢が悪くなると「嘘泣き」をした。

それで「ゲンコツ」である。

僕は子供ながらに「どうしてこんな理不尽なことがあるのだろう・・・」と思っていた。

小学校4年生から6年生の時の教師は、何を勘違いしたのか?ある時から「平石はいつも、掃除をさぼる」と言い、僕がいくら一生懸命に「掃除」をしても、「平石はサボっていなかったですか?」と隣りのクラスの担任の先生やクラスメイトに訊いたりしていた。

はっきり言うが、「冤罪」である。

彼女が今、僕の目の前にいたら、彼女はいかに「教師」としては「失格」であるかを論理的に説明して差し上げるのだが、当然のことながら、小学生の僕にはそれは出来なかった。

「落ちこぼれ」シリーズのエントリーでも紹介した高校の時の「橋本祐一郎」という教師のことも含めて、彼・彼女達の存在が、僕に「教育」に対する憤りを感じさせ、日本の教育システムをガラガラポンしたいと思わせるようになったのだと思う。

ところで、たしか2月下旬だったと思うが、Twitterで知り合った15歳まで欧州で過ごしたという「帰国子女」のある女性とランチをご一緒した時、彼女が「たまたま担任の先生に恵まれた」と言っていたが、教育においては「誰が担任だったか」が、その子の人生を大きく左右するということを、自分の生い立ちを振り返りながら思い出した。

「子育て」に「リハーサル」はなく、最初から「本番」である。

我が子が「4歳半」になり、だんだんと「自我」が芽生えてくるに連れ、親の「影響力」と「責任」の大きさを、痛いほど実感するようになった。

もちろん、教師も。

「主体性」と「多様性」を何よりも尊重し、その子の「個性」を伸ばしてあげたい。

追伸:変な「優越感」についても同感である。僕の中にも「歪んだ優越感(間違ったプライド)」があり、それが自分の「選択肢」を狭めてきた(ことにある時、気づいた)。そのことについても、別のエントリーで書きたいと思う。