すべてを受け入れるしかない。

iPadを買ったお陰で、久しぶりに、子供がまだ1歳から2歳の頃の写真を見る機会があった。

まだまだ小さいと思っていた僕たちの子供も、来月で5歳。

長かったような短かったような言葉に表せない5年間だった。

ところで、子供も5歳にもなると、それぞれの人格が出てくる。

両親から受け継いだ遺伝子と日々の生活環境から後天的に影響を受けたことが合わさって、その子の性格が形成される。

一人っ子の僕たちの子供は、兄弟との競争や理不尽な力関係等を経験することがなく、兄弟のいる子と較べると、どうしても、我侭になりがちである。

子育ては、数学や自然科学と違い、その子が持って生まれたものや育つ環境がそれぞれ違うわけで、これが唯一絶対の正解というものがない。

自分たちがよかれと思ってしていることの結果を見るのは少なくとも何年か先であり、その結果を見ながら試行錯誤するということにも限界がある。

とても難しく、とてもクリエイティブな行為である。

話は変わるが、今週の日曜日、TBSのニュースキャスターなる番組で、23歳の母親が子供を虐待、というか、放置して死なせてしまったというニュースを見た。

学歴はないかもしれないが、お世辞抜きにキレイな顔をした、性格も決して悪いとは思えない女性だった。

離婚して女親一人で子供を育てるストレスから、3歳と1歳の子供を真夏の部屋に放置し、当然のことながら、その子達は亡くなった。

何ともやりきれない思いがした。

そのニュースの中で、同じように女親ひとりで子供を育てている母親のインタビューが紹介されていた。

「自分もそうなってもおかしくはない。紙一重だと思う」という発言に、もちろん、その紙一重を越えてしまった母親を許すことはできないが、かと言って、間違いを犯してしまった彼女達を責めればそれでいいかと言われると、問題はそんなに単純ではないように思う。

子供の虐待に関する研究結果によると、人は、自分が育てられたようにしか子供を育てられないらしい。

そして、子供を虐待してしまう母親の大半(正確な数字は憶えていない)は、自分も幼少期に、親からの虐待を経験しているという。

典型的な「負の連鎖」である。

そういう僕は、両親からの虐待を受けたことはないが、父方の祖父からは、理不尽な扱いを受けた。

すぐ下の弟は頭のいい奴で、僕とケンカをしていて形勢が悪くなると、僕が何もしていないのに、わざと泣き出した(泣いたふりをした)。

それを見た祖父は「大きいもの(者)が悪い」と言って、僕はいつも「ゲンコツ」を食らった。

あれから40年も経った今でも覚えているほど、子供ながらに「なんて理不尽なんだ」と思っていた。

僕の我が子への接し方は、はたして、間違っていないだろうか?

いつも、そのことを考えている。

因みに、それは子育てに限らず、経営者の社員に対する接し方でも同じことが言えると思う。

僕にとって、20代の頃に働いていた会社での経験が滅茶苦茶インパクトがあり、その会社と同じように、社員に事細かにルールを押し付けたり、規則を設けることを極端に嫌う傾向がある。

よく言えば自主性を重んじるということだが、悪く言えば、放任主義とも言える。

僕は、自分が人から管理されることはもちろん、人を管理することも嫌いである。

それがいい人もいれば、そうでない人もいる。

その処方箋は、誰をバスに乗せるか?ということになる。

しかし、子供はそうはいかない。

生まれて来るまで、その子の性格は分からないし、自分の主義に合わないからといって、バスに乗せないわけにも、バスから降ろすわけにもいかない。

すべてを受け入れるしかない。

それが愛情というものなのかもしれない。

追伸:インタースコープの個人株主のひとりだったある人から、僕のブログの縛りとして、「ところで」と「話は変わるが」を使わないというのはどう?というメールが来た。その表現を多用することは知っていたが、それを止めるとなると、ブログが書けなくなる。今日のエントリーでも多用させていただいている。僕の文章の「個性」として。