「WEB2.0(ウェブ進化論)」と僕の人生

つい先程、ようやく、梅田望夫さんの「ウェブ進化論」を読み終えた。

僕はそれほど読書量が多い人間ではないが、久しぶりに自分の人生や考え方に大きな影響をもたらしそうな本だった。

僕が今までに読んだ本の中で印象に残っているのは、「国富から個福へ(波頭亮)」「日本の時代は終わったか?(ピータータスカ)」「不機嫌な時代(ピータータスカ)」等と、彼の著作はたくさん読んでいるので、どれと言うのが難しいが「田坂広志さん」の本。あとは、大前研一氏の本もよく読んでいるし、堺屋太一氏の「組織の盛衰」、堀 紘一氏の「リーダーシップの本質」も印象に残っている。

さて、では、どういうふうに「ウェブ進化論」が僕の人生に影響をもたらしそうなのか? そのことをひとつずつ整理していこうと思う。今日のポストは長くなると思うので、読んで頂いている方々には予めご了承頂きたい。

彼の本はベストセラーになっているので色々な人が読んでおり、人によってそこから得たものや感銘を受けたところは異なると思うが、僕はまず、彼が「9.11」以降、自分の人生を大きく変えたということに、ある種、共感というか武者震いのような感覚というか、上手く表現できないが、僕の心に響くものを感じた。同時に、彼は非常に「日本という国を愛している」ということと、若い世代に対する「愛情」があり、「教育者」的思想の持ち主であることが伝わってきて、とても勇気づけられた。

彼は「理工系」の頭脳の持ち主であり、僕は極めて「文系」な人間であるという違いはあるが、彼の「思想」と「人間性」と僕のそれらには共通するものがあるように思った。いつか、ドリームビジョンの「トークセッション」にゲストとしてお招きしたい人だ。

彼はウェブ進化論で「若いうちはあまりモノがみえていないほうがいい(小見出し)」と言っているが、僕もそう思う。

僕は、28才で起業家人生をスタートさせたが、それは文字どおり「徒手空拳」であり、事業計画もなければ何の計画性もなかった。

その当時は今と違って、一部の学生ベンチャーを除けば、20代で起業するというのはとても珍しいことであり、周囲の大人達や同年代の人達からは「凄いよね」と言われたりしたが、その度に僕が言っていたのは、「目の前に埋まっている地雷の数を正確に把握できていなかっただけ」ということだ。

もう少し具体的に説明しよう。当時の僕は「A地点」に立っており、「B地点」に行きたいと思っていたが、その間には「地雷」が「10個」埋まっているように見えて、それなら何とかかいくぐって行けるだろうと考えた。幸運にも「B地点」に辿り着き、そこで「ふっ」と後ろを振り返ってみると、そこには地雷が「30個」埋まっていたという意味である。つまり、最初にその「30個」が見えていたら、怖くて渡れなかっただろうということだ。

先々月、僕が創業に携わった保険スクエアbang ! という自動車保険の見積もり比較サイトの運営会社を立ち上げて、その会社を東証マザーズへ上場するまでに育て上げた渡辺さんと、渡辺さんを支えながらずっと一緒に事業をやってきた彼の妹さんが、久しぶりに僕の自宅に遊びにきた。そこで彼も同じようなことを言っていた。彼は、「霧の中を目の前だけを見ながら一歩一歩前に進んできた結果、ある頂きに到着したようなもので、ある時、霧が晴れて後ろを振り返ってみると、自分たちが歩いてきたのは『稜線の上』だったことに気づいて、今更ながら怖くなった。自分たちが稜線の上を歩いているということを知っていたら、ここまで来れなかったと思う」と言っていた。その意味はよく分かる。

僕が尊敬する田坂広志さんが彼のメルマガで、僕らの話とは違う視点で同じことを言っていた。人間は誰でも、幅30センチの上を歩けと言われれば問題なく歩くことが出来るが、それが高さ1メートルの平均台の上になったとたん、歩けなくなってしまう。そんなことを書いていた。

今の僕は、株主や社員の人達に迷惑をかけることを承知の上で、自ら創業した会社を「途中下車」し、次の山を目指して歩き出したわけだが、28才でクリードエクセキュートを始めた時、36才でインタースコープを立ち上げた時と比べると、今は見えているものが随分と増えた。それ故、ドリームビジョンを始める時は、今までに経験したことのないほどに「躊躇」したし、悩んだり迷ったりもした。「失敗する確率」が分かっているからだ。

そんなことを、梅田さんも自分自身の経験を踏まえて言っているのだと思う。

次に、僕が改めて整理(梅田さん流に言えば『再発見』)できたのは、僕がインタースコープでやってきたインターネットリサーチというビジネスのことだ。

今までは「住民基本台帳」という身元が確認できる「特定多数」の信頼がおける母集団をベースに、専門的知識を有するリサーチャーが「質問」を設計し、それを「調査員」の方々が個人の自宅を訪問するか?郵送等して回答してもらっていた超アナログ手法を、基本的な考え方や構造はそのままに、そのプラットフォームをネット上に構築したということである。

これを、WEB2.0的に整理すると、インターネットユーザーという「不特定多数」の人々の「意見(回答)は正しい」という前提のもとに、市場調査という「マーケット情報(顧客情報)の生産工場」を構築したと見ることができる。つまり、既に「従来の手法」として構築されていたものを、「ブラウザ(質問票の代替)」と「サーバ(調査員なり郵送の代替)」と「データベース(住民基本台帳の代替)」に置き換えたということである。

これを、インタースコープという会社単位で見ると、マクロミルに売上的には5倍もの差をつけられてしまっているが、独自のポジションを構築し、インターネットリサーチの主要プレーヤーとして今までやってこれているのは、僕らが「質問設計・統計・解析・分析」という従来型リサーチビジネスの必須要素を身につけていたからであるが、別の角度から見れば、リサーチビジネスにおける「こちら側」に意識が強くなり過ぎてしまったがために、「あちら側」や「低バジェットの市場」に対する意識が低くなり(実はここにも紆余曲折があったのだが)、マクロミルほどのブレイクには至っていないと言うことも出来る。

その点、梅田さんが取締役を務める「はてな」やMIXIの笠原さん、GREEの田中さん、ドリコムの内藤さんという僕よりも10才以上も若い人達は、I.T.関連のビジネスに対する見方やスタンスが異なるのであろう。

昨年12月の定時株主総会で自ら創業したウェブクルーを退任した渡辺さんが、「20代の人達には敵わない」とよく言っていたが、そのことの意味が「ウェブ進化論」を読んで、とてもよく理解できた。

話は変わるが、来週月曜日に、ドリームビジョンの設立を記念して簡単なレセプションを開催することにした。実はそこに、インタースコープ関係者は殆どお招きしていない。

僕は自分の中でインタースコープ時代の「何かにケジメをつけたい」と思ってそうしたのだが(誰を招くと誰も・・・的な問題も考えたという理由もある)、その「何か」がウェブ進化論を読んで確認できたような気がしている。

それは、僕の「本質はネットベンチャー」ではないということである。

もちろん、インターネットリサーチにしても、保険スクエアbang ! にしても、ネットをキードライバーとして活用したビジネスであることは間違いないが、その発想のベースはマーケティング的なところにあり、テクノロジーではない。そこに戦略的な矛盾があったと思っている。そして、その「垢」を落としたい。

今からもう10年近く前になるが、名古屋に本社を置くユニーというGMSの子会社の社長をされていた、古河さんという方との会話が頭に残っている。

当時の僕は、最初に創った会社を経営している時だったが、ウェブクルーの渡辺さん達と一緒にネットビジネスを始めていた時期だった。古河さんは、おそらく20才は年下だろう僕に色々なことを素直に質問してきて、少しでも頼りにされていることを嬉しく感じていた。

ある時、古河さんから「これからの時代は平石さん達のような人達が創って行くんでしょうね」と言われたのだが、僕は「僕なんかは野球で言えば、中継ぎのような役割であり、僕よりも若い世代には物凄い人達がたくさんいます。僕は、せいぜい勝ち試合の中継ぎを務められるような存在になれれば幸せだと思っています」と返事をしたことがあった。僕はその時、あることがきっかけで知り合った孫 泰蔵さん(現在はアジアングルーブ代表取締役社長兼ガンホーオンライン代表取締役会長)のことを頭に思い浮かべていた。

梅田さんはウェブ進化論の中で、「大きな環境変化が起きたときに、真っ先に自分が変化しなければ淘汰される。(中略)これまでの生き方に固執するよりも「リスクが小さい」と、私は強く確信していた。本質的変化に関する一つ一つの直感を大切に、『時間の使い方の優先順位』を無理してでも変えてしまうことで、「新しい自分」を模索していきたいと思った」と書いている。また、「これまでに引き受けた仕事はすべてきちんと続けていくが、もうそういう委員みたいな仕事は新しく引き受けないと決心した」とも書いている。

僕が一度目の起業の後半において、当時の「ドル箱」だったDTPの仕事をバサッと切った時があったが、あの時の判断も「今、変わらなければ淘汰される」という「直感」でしかなかった。

今回は、それなりの裏付けなり、僅かではあるが資金的手当はあってのことだが、それでも「直感」の域を出ないだろう。敢えて言えば、「理念や思想」のようなものに後押しされているとも言えるし、インターネットリサーチ業界のみならず世の中の環境変化を考えた結果、43才という年齢的なことも含めて、今やらなければ一生できないで終わってしまうと思ったということである。

西川さんがネットエイジを立ち上げたのが40才の時、山川さんが僕と一緒にインタースコープを立ち上げたのが43才で今の僕の年齢の時である。

既に、スタートは切ったので、あとはやるだけだ。

このテーマで、もう少し書きたいことがある。「経営者の孤独」に関しては、しばらく先にしようと思う。

「希望」という学問。

インタースコープでは火曜日の朝、全体MTGというアルバイトの人も参加するMTGを行っている。

そこでは、2001年から続けてきた「3分間スピーチ」という全員持ち回りのスピーチがある。人前で話すことの練習と、その人の人となりを皆に理解してもらうために始めたものだ。

ある火曜日の朝、人事担当の女性のスピーチが印象的だった。

この話は以前のポストでも簡単に紹介したと思うが、総務省が20代~40代の男女を対象に実施した調査で、小学校6年生の時に「将来の職業」に関する「希望や夢」があったか?と、その「希望や夢」が実現したか?を質問したらしい。

すると、将来の「希望や夢」があったとする人のうち、9割は「叶っていない」という結果だったそうだ。

ここまでは当たり前のように思うかもしれないが、興味深いのは、小学校6年生の時に将来の「希望や夢」を持っていなかった人よりも、結果としてそれが叶っていなくても、小学校6年生の時に将来の「希望や夢」を持っていた人の方が、その後の人生において「充実感や達成感」を覚えた人や「今が幸せ」であると答えた人が格段に多かったということである。

その調査結果を踏まえて、東京大学では「希望」というものを学問として研究することを決めたらしい。

社外取締役の仕事

12年来の友人である岡村氏が創業した「ラソナ」という会社の取締役に就任して、約3ヶ月になる。

商法的な意味であれば今までにも何社かで社外取締役に就任したことがあるが、実際にその責任を果たす(行動を伴う)という意味では今回が初めてだ。これは、僕自身にとっても非常に為になっている。

自分自身を含めて、創業する人というのは当然のことながら自分のやりたいことがある。なので、こちらが社外取締役として色々と意見を言っても聞き入れないことが多く、機能しないことも多いのではないかと思う。いつだったか、グロービス創業メンバーのひとりで当時COOをしていた(現サイバード)加藤さんが、ワークスアプリケーションズのことについて話していたことが印象に残っている。

加藤さんが話をしていたのは、ワークスアプリケーションズの牧野さん達がある会社を買収する際に、その理由として、買収先企業には「優秀な人材がたくさんいる」ということを挙げていたらしいのだが、加藤さんが外部の客観的な目で判断すると、それではペイしないということを牧野さん達に進言したらしいのだが、なかなか聞き入れてもらえなかったということだ。また、加藤さんは、結果的にはフルタイムとしてジョインすることになったサイバードについても、社外取締役の立場で取締役会で色々な進言をするが、なかなか聞き入れてもらえないことがある、ということを言っていたことがある。

僕にとって2度目の起業にあたるインタースコープの場合、僕と山川さんという2人の創業者がいたり、ある時点からは我々創業者よりも外部株主の方がシェアが大きくなっていたこともあり、ワークスやサイバードの事例とは少々異なるかもしれないが、やはり、大なり小なり、そういうことがあったように思う。

さて、話をラソナに戻すと、創業者であり社長である岡村氏は、ラソナを創業する前はスペインで画家として活動していたという非常に変わった経歴の持ち主である。それ故に、ロジカルシンキングだの戦略思考だのという世界には疎いし縁遠い人だが、右脳的な勘で物事の本質を理解する能力に長けており、ある意味で僕と似ているかもしれない。

おもしろいと思うのは、人間は常に「相対的」な関係によって、お互いの役割が決まるということである。

僕はインタースコープ時代、クライアントに対してコンサルティングをする場合には、当然のことながら、論理的に物事を整理して話をする(それが仕事であるので)が、いざ、自分自身のことになると、感覚的な部分が勝り、時として論理性を欠くことが多々あったように思う。

ところが、ラソナにおいては、岡村氏が常に自分の思考パターンに任せて話を展開するので、最初と最後では話のテーマがまったく異なることが日常茶飯事であり、僕は「論理性」によって彼の話を整理し、現実的な解を探ることになる。

言ってみれば僕の仕事は、彼のやりたいことを踏まえつつ、それが論理的に成立するのかしないのか?を整理していくことであり、客観的に判断して、彼のやりたいことには勝算があるかないか?を分析することである。また、事業戦略を考える場合、その内容もさることながら、それを具現化する社内のスタッフのことを考える、つまり、組織デザインと運営面のことや、財務的観点から実現リアリティを検証する必要があり、僕がやっていることは、まさしく「経営企画部」的な仕事である。

今日もドリームビジョンでは、今後の事業戦略についての議論をしていたが、将来的に「投資・育成」機能を持つ必要があるという話をしており、僕が今、ラソナの社外取締役としての仕事をしていることは、その時にとても役に立つように思う。

起業家の意志を尊重しつつ、客観的に状況を分析しながら、どうすれば実現リアリティが増すかを考える。自分自身が起業家であることを活かして、本来の意味でのハンズオン投資をしたいと思う。

あなたの価値観に最も影響を与えたものは何か?

その質問を最初に受けたのは、J.W.Thompson(現在はJWT)という外資系広告代理店の社長面接だったと思う。僕が27才の時だ。

当時の社長は、アラン・ミドルトンといったと思うが、牛乳瓶の底のような厚い眼鏡をかけた大柄な人物で、広告業界の人間というよりは、中学か高校の校長先生という感じの物腰の柔らかい人だった。

僕は「Parents.(両親だと思う)」と答えた。

何日か前のポストでマネックスの松本さんのことを書いたが、6/1(木)にドリームビジョン主催で行う、松本さんと僕との対談形式のセミナーでどんな質問をするか?を考えるために、今日は、彼のあるインンタビュー記事を読んでいた。

話は逸れるが、今日は悠生(子供)の具合が悪く保育園に預けることができず、また、妻はどうしても休めない授業があって大学院に行ったため(僕の妻は大学院に通っている。因みに、年齢は20代ではない。念のため/笑)、14時過ぎまで、僕が家に残り、悠生の面倒を看ていた。

こういう生活は、普通のサラリーマンだったら出来ないだろうし、インタースコープの常勤取締役を続けていたら出来なかっただろう。そういう意味でも「人生はすべて必然」なのだろうと思う。

松本さんにはお兄さんがいたらしいが、彼が小学生の頃、不幸にも亡くなってしまったという。そのことで松本さんは大きなショックを受けたそうである。

お兄さんも松本さんも開成高校を目指していたらしいが、そのお兄さんの死により、松本さんは「僕はふたり分、頑張らなければならない」と思い、猛勉強をして、開成高校に合格したと語っている。

彼と比較しては大変申し訳ないが、僕にも似たような経験がある。

僕の出身地である福島県には、地元では有名な進学校が3つあり、そのひとつが「結果的」に僕が卒業した「安積高校」である。僕は安積高校の受験に失敗し、仕方なく、二次募集で他の県立高校に入学した。こう言っては大変失礼だと思うが学力レベルの違いにより、その高校に通うのが嫌になってしまい、3ヶ月で中退した。

僕が「退学して、翌年もう一度、安積高校を受験したい」と言ったところ、父親からも当時の担任の先生からも中学時代の担任の先生からも、みんなから反対された。でも、僕はどうしてもモチベーションが続かず、退学したいと言っていた時に、母親が僕にこう言ってくれた。

「ひとつだけ、お母さんに約束してくれる。結果は問わないから、最後まで投げ出さずに予備校に通うこと。そのことを約束してくれるなら、私があなたのお父さんを説得してあげる」。

父親はメチャクチャ頑固な人で、僕には母が父を説得できるとは思えなかったが、僕は母親と約束をした。すると、何と言ったのかは分からないが、母は本当に父を説得してくれたのである。

それから僕の予備校生活が始まった。当時の言葉で言う「中学浪人」である。

でも、その8ヶ月は、僕の人生の中でも最も楽しく充実していた時間だったと言っても過言ではないかもしれない。本当に楽しかった。

この話は以前に受けた取材でも話したことがあるように思うが、予備校で知り合った連中は皆、「挫折」した少年達であり、何もカッコつけるものもなく、また、その必要もなかったことが、その背景にはあったように思う。その頃に知り合った連中とは、今も「心の中」で繋がっている。なかなか会えないけど。中には、プロ野球の選手になった奴もいた。

さて、頑固な父親を説得してくれた母だが、実は、僕が翌年、安積高校を再受験する2週間前に亡くなってしまった。肺ガンだった。

その時の僕は、母が生きていたら、たまたま不得意な問題ばかりが出たとか、体調が悪かったとか、言い訳も出来るだろうが、「亡くなってしまった人には言い訳はできない・・・」と思い、その母のためにも、絶対に合格する必要があると思った。結果的には無事、合格した。一度も僕を褒めたことのなかった父が、その時ばかりは僕を褒めてくれたことが印象に残っている。その父は、僕が24才になってすぐに亡くなってしまった。

悪い癖でまたしても話が長くなってしまったが、僕は両親から大きな影響を受けたと思う。そのことに、後になってから気づいた。

松本さんもお父さんから大きな影響を受けたと言っているが、そのお陰で「反体制」的になったそうである。詳細は省略するが、あることで納得がいかずに先生に直談判したことが原因で、小学校(私立)を2ヶ月だったか、3ヶ月だったかで退学なったそうである。偉業を成し遂げる人は、やはり、やることが違う(笑)。

彼は、成功したベンチャー企業の創業経営者としては非常に珍しく、人に対する威圧感を感じさせない人だ。物凄い才能と努力の持ち主でありながら、とてもソフトでカジュアルであり、尚かつ「崇高な理念」を持った人である。

6月1日が楽しみだ。

起業家は尊敬されない?

インタースコープで言うところの「伝説のインターン」で、大手の広告代理店に就職した人間がいる。

久しぶりに彼と会った時に、彼が言っていたことが印象に残っている。

「平石さん。うちの会社の同期でベンチャーに転職したいと思っている奴は、ひとりもいないと思いますよ」。

僕は大手の広告代理店からベンチャーに転職した人を何人も知っているので、ひとりもいないというのは大げさであり、学生時代に統計を選考していた彼にしては誇張した表現だと思ったが、彼の発言の本質は、これだけベンチャーが注目されるようになった現在でも、まだまだ、ベンチャー企業に対しては「君子危うきに近寄らず」という認識が根強いのだろうということだ。

もう少し具体的に論じてみると・・・

彼(はそうでもなさそうであるが)のように一流大学を出て、一流企業に就職できた人間は、余程、自分でやりたいことがない限り、その「ブランド」と「経済的恩恵」を捨ててまで、自分では想像も出来ない荒野?へ行こうとは思わないということだろう。

俗に言う一流企業に就職できた人にとっては、その会社では実現できない、どうしても自分でやりたいことが無い限り、実際に享受している恩恵を捨ててまでベンチャーに飛び込む経済合理性がないし、そもそもベンチャー企業のカルチャーが社会に認識されていない、つまり、常識的に考えて「リスク」は想像できても「リターンとベネフィット」は想像しにくい状況では、「飛び込む」に値するか否かの判断自体が難しいのだろう。

上記のことに関連するエピソードがある。

ドリームインキュベータの堀さんの講演会で聴いたことだ。

ベンチャー企業(を起こす人)にとって現在の日本の良いところは、「上場しやすい」「資金調達しやすい」という点。

一方、悪い(ハンディになる)ところは、「アントレプレナーシップを尊敬する文化がないところ」と言っていた。

数字を挙げると、「起業家を尊敬するか?」という質問に対して、いつの調査結果かは分からないが、「尊敬する」と答える人が日本では「10%」しかいないそうである。今は多少は変わっているかもしれない。

諸外国はどうか?というと、アメリカ:90%、ドイツ:70%であり、ジェントルマン(別の見方をすれば階級社会)の国と言われるイギリスでも40%が「起業家を尊敬する」と言っているという。

お隣りの韓国はどうか?というと、具体的な数字は忘れたが、過半数を超える人が「尊敬する」と言っているそうである。

僕の知り合いで早稲田大学に通う女性のエピソードを紹介しよう。

彼女は大手企業からの内定を取れる実力はありそうだが、そもそも、大手企業に就職する気がなく、インターンをしていたベンチャー企業に就職しようと思っているが、両親は世間体?を気にしてか、頑に「大手企業の内定をもらいなさい」と言っているそうである。

僕の両親は、父親は総合病院の事務長、母親は教師をしていたが、僕に「一流企業へ就職しろ」とは一度たりとも言ったことがなかった。諦めていたのかもしれない(笑)。

父はその代わりに、「俺が幼稚園を創ってやるから、お前はそこの園長先生になれ」と言っていた。おそらく、僕という人間の個性や価値観を見抜いていたのだろう。

母親はいつも僕に対して、「結婚する時は、自分と似ている人だけは止めなさい。電流もプラスとマイナスだから流れるのであり、プラスとプラス、マイナスとマイナスではぶつかり合うだけで、上手く行かないから。あなた達(僕は父とよくぶつかっていた)はそっくりよ」と言っていた。

自分の両親ながら、素晴らしい指摘であると思う。

話を元に戻すと、日本を進取の気質に富んだ社会にするためには、価値観を変えて行く必要がある。

僕が教育的な観点の事業を立ち上げたいと思う理由は、そこにある。

強く、そして、濃く。

昨日、子育ての合間を縫って、ドリームビジョンの企業理念と代表者挨拶を書いた。

今月22日に行うドリームビジョンのお披露目レセプションと6月1日にマネックスの松本さんをお招きして開催する「Talk Session」にあわせて、Webサイトをカットオーバーすることになっている。

そのWebサイトに載せるために、今までの僕の人生で経験してきたこと、温めてきたことを、改めて文章にした。

そこには新たな発見は無かったが、これからの自分の人生において、何を成すべきか?を言語化できたことは、とても意義があった。おそらく、何らかの選択を迫られた時、岐路に立たされた時、迷うことなく、自分の進むべき道を決める上で、力になってくれそうな気がする。

ところで、5/3(水)の昼前から昼過ぎにかけて、ドリームビジョン創業メンバー3人で議論をした。

ドリームビジョンが目指すべきものは何なのか? そして、それを具現化するサービスは何なのか? という、根源的且つ本質的な熱い議論をした。

そのことにより、3人の共通理解が更に深まったと共に、この先の事業展開のフェアウエイを明確に出来そうな気がした。

僕に関して言えば、確かに子育てで体調がボロボロになっており、体力的にも気力的にもシンドイという理由はあったにせよ、今まで溜めに溜めていた仕事に「具体的」に着手する気持ちが芽生えた。

そして、途中何度も「おむつ交換」や「ミルク」や「あやす」ことで仕事を遮られても、集中力を維持することができ、とても効率よく仕事が捗った。

やはり、正面から仲間とぶつかり議論をすることが、カオスの渕から何かを生み出す唯一の方法なのだと思う。そして、その前提として、価値観を共有できていること必要だということを再認識した。

これがなければ、何も始まらない。

アインシュタインと自由

前回のブログで約束したとおり、今回はアインシュタインと自由をテーマに書くことにする。但し、その前に少しだけ「お金(収入)」の話に触れたいと思う。

先々月の最終日(3/31)、学生時代にインタースコープでインターンをし、弱冠26才にして、ニッセンとインタースコープの合弁会社(ALBERT)の社長に就任した上村という人間をゲストに招いて、キャリアセッションなるイベントを開催した。僕が上村にキャリアに関する質問をしながら話を進める対談形式のセッションだ。

ドリームビジョンという聞いたこともない会社の、しかも、有料のセッションにも関わらず、20人近い人が参加してくれた。因みに、その集客ができたのは、留学先のアメリカの大学を休学して一時帰国し、ドリームビジョンでインターンをしてくれている山田くんのお陰だ(山田くん、本当にありがとう!!!)。

上村は新卒でアクセンチュアの戦略コンサルティング部門に就職し、1年3ヶ月働いた後、インタースコープに出戻ってきた。というよりも、出戻らされたと言った方がいい。

当時のインタースコープは、結果的にニッセン(インタースコープの株主の1社)との合弁会社となる新規事業開発に着手する少し前で、共同創業者の山川が熱心に上村を口説いていた。

上村は「山川チルドレン」と言っていい程、当時から山川さんを慕っていたが、その山川さんからの誘いとは言っても、さすがに超難関のアクセンチュア戦略部門を辞してまでインタースコープに戻ってくるというのは、そう簡単な話ではなかった。親父さんにも相談をしていたという。

僕は正直、せっかくアクセンチュアに就職して活躍していた上村をインタースコープに呼び戻すことに躊躇いがあった。なので、その模様を静観していた。しかし、最後は結局、何と「君の人生にコミットする!!!」と言って、僕も上村口説きに加担した。

その言葉が響いたのかどうかは分からないが、上村はインタースコープに出戻りニッセンとの新規事業の立ち上げに参画し、結果としてニッセンとの合弁会社(ALBERT)の社長になった。

上村とのエピソードと言えば、もうひとつ、彼がアメリカの大学に留学していた頃の話がある。

彼はネットで検索してインタースコープを発見し、当社でインターンをしたいという趣旨のメールを送ってきたのだが、当時の人事担当者から「ETICを通すように」と通り一遍の返事をされたのをCCで読んだ僕が、それは可哀想だと思い、横から助け舟を出したことに始まっている。

彼はアメリカに留学する前、僕の弟が学生の頃に住んでいた学生寮に住んでおり、僕は彼に親近感をもった。それで、個人的に返事を書き、彼を面接に呼んだ。そんなこともあってか、彼は、山川さんとは別の意味で僕を慕ってくれているようだ。

そのような個人的な人間関係もあり、また、マーケティング効果を考えても、ドリームビジョンとしての最初のキャリアセッションのゲストは上村しかいないと決めていた。

さて、その上村をゲストとして呼んでドリームビジョンとして初めて実施したキャリアセッションは、幸いなことにかなり盛り上がった。

セッションが終わった後、会場から質問を受け付けたのだが、その時の質問の中で「収入」に関するものが印象に残っている。

その質問をくれた方は学生のようだったが、彼は「答えて頂けるかどうか分かりませんが、ALBERTの社長になったて年収は上がったのですか?」と質問をし、その質問に対して、上村は素直に回答した。

一言一句は覚えていないが、「アクセンチュアからインタースコープに出戻った時、そして、ALBERTの社長に就任した時、それぞれ少しではあるが年収は上がった。経営者は失業保険もなく、リスクがあるので、現在の年収は妥当だと思う」と上村は回答した。また、現在もアクセンチュアに残っている同期のスタッフで自分よりも年収が低い人間は誰もいないとも言っていた。

その学生の質問に対する上村の回答を聞いた時、僕は「ミスリードしないかな・・・」と不安になったが、そこで口を挟むことを躊躇し、結局、何も言わなかったことを少々悔やんでいる。

僕自身のことで言えば、最初の起業のクリードエクセキュート時代とインタースコープ時代の役員報酬(収入)を比べれば、インタースコープの時の方がだんぜん高かった。しかし、上村の話のように、経営者は失業保険も無ければ労災も適用されないし、尚かつ、会社の債務(クリードの時とは額が違う)に対する個人保証をしているわけで、負っているリスクを考えれば妥当な金額だったと思う。実際、上村のパターンと同じで、僕の親しい友人で商社や金融業界に働いている人達は、僕の役員報酬よりも高い給料を得ていた。

では、ドリームビジョンになってからはどうか?というと、一言で言えば半減した。

その理由は単純で、ドリームビジョンはインタースコープやALBERTと違ってVC(ベンチャーキャピタル)等の投資家から資金を調達していないので、先行投資に回せるキャッシュが限られているということである。

では、どうやって生活をしているかというと、以前のブログで書いたが、創業メンバーとして参加したあるベンチャー企業が株式を公開したので、多少のキャピタルゲインを得ることができ、それで補填しているということだ。

とは言っても、この先、2年も3年も持ち出し生活が可能なほどお金がある訳でなく、2年目(出来れば初年度の後半)からは、しっかりとキャッシュフロー(現金収支)を生み出す必要がある。そういう意味では、VC等の投資家から多額の資金を調達して事業を始められるというのは、本当に恵まれている。それなりのお金が無ければ、優秀なスタッフを採用することも出来ない。

先程の質問に話を戻すと、インタースコープの時の僕も、ALBERTの上村も、「投資家」がいるからこそ、そこそこリスクに見合った収入を得ることが出来た/出来ているということだ。そして、今の時代は10年前と比べればだいぶ違うと思うが、それでも投資家からお金を集めることはそう簡単ではない。もうひとつ、大事なことは、当然のことだが、投資家からお金を集めるということは、同時に、大きな責任を背負い込むということだ。そのことを忘れて安易にお金を集めると不幸になる。

実は本日昼過ぎに、あるVCの方がドリームビジョンのオフィスに僕を訪ねてきたのだが、その方が「平石さんがやろうとしていることには、とても共感するよ。みんな総論は絶対に賛成だと思う。だけど、お金を出すか(投資するか)?というと、なかなか難しいだろうね」と言っていた。僕もそう思う。

では、何故、そこまでして「3度目の起業」をしたのか? 
それは、カッコ良く言えば、そこまでしてやる価値があると思っているからだ。

今日(5/2)の午後、僕の親友が経営するWeb製作会社で、ドリームビジョンのWebサイト構築に関するMTGを行った。そこで、ドリームビジョンとして何を伝えるのか?そもそもドリームビジョンのミッションは何なのか?ということを、当社メンバーと友人の会社のスタッフと熱い議論をした。

既にだいぶ長くなっているので途中の議論は省略するが、僕はそのMTGで、僕が大ファンだったアイルトン・セナの話をした。

正確な時期は覚えていないが、ホンダがF1から撤退し、当時のセナが所属していたマクラーレンはパワフルなホンダのエンジンの代わりに、非力なフォードのエンジンを搭載してのシーズンだった。

当時は、ウイリアムズルノーというチームがダントツに速かったのだが、フォードエンジンでは、さすがのセナのドライビングテクニックをもってしても優勝することはおろか、表彰台に立つ(3位以内に入る)ことも出来ないという状況だった。

あれはドニントンサーキットだったが、雨が降りしきるレースとなり、路面のグリップが甘くなったお陰でマシンの性能差が相対的に小さくなり、代わりにドライバーの技量の違いが大きく効いてくる状況となった。お陰でセナは8番グリッドからスタートしたにも関わらず、オープニングラップ(最初の1週目)で「前の7台をごぼう抜き」にして「TOP」で帰ってきた。そして、完走し、優勝した。

その時の解説者は、もう解説ではなく、絶叫していた。僕はテレビの前で感動のあまりに泣いていた。

当時の僕は、それこそ「起業したはいいものの」・・・、苦戦の連続で、もう諦めようか(サラリーマンに戻ろうか)?と悩んでいた時だったのだが、セナの勇姿をみて「勇気」をもらい、「諦めずに頑張っていけば必ず、チャンスは訪れる」と想い、ちっぽけな会社の経営に踏みとどまることができた。そして、その7年後、僕はインタースコープを創業した。

僕はドリームビジョンという会社を経営していくことを通じて、そのサービスはもちろんのこと、僕たち自身の生き方を通じて、一生懸命に頑張っている人たちに、僕がセナからもらったような「勇気」をあげられたら・・・(そういうと偉そうだが、適切な言葉が見つからない)と思っているし、それが無理でも「勇気」を持つ「きっかけ」ぐらいは提供したいと思っている。

さて、では、何故、この話がアインシュタインに繋がるのか?であるが、ドリームビジョンのインターンの山田くんが教えてくれたことがある。

アインシュタインは間違いなく「天才」だと思うが、そのアインシュタインは「わたしは、一日100回は自分に言い聞かせます。わたしの精神的ならびに物質的生活は、他者の労働の上に成り立っているということを」という言葉を残しているそうです。

自分がどんなに天才でも優秀でも、常に社会や周囲に対する感謝の心を忘れない。(もちろん僕は天才ではないが)僕は常にそうありたい(感謝の心を忘れない)と思っているし、そういう人が好きだ(尊敬する)。そして、そういう人は、そのベースとなる才能や素質は親から与えられたものであり、自分の努力で勝ち得たものではない。アインシュタインはきっと、そういう姿勢を生涯に渡り持ち続けたのだろう。だから、素晴らしい功績を残すことができたのではないだろうか?

僕は科学者でもエンジニアでもないのでアインシュタインのことは通り一遍の知識と関心しかなかったが、山田くんからその話を聞いて(正確には、彼がドリームビジョンのSNSの日記に書いていたことを読んで)、アインシュタインを身近に感じるようになった。

実は、ALBERTという社名は、アインシュタインが大好きな山川さんのことを考えて、上村が提案した名前である。「アルベルト・アインシュタイン」というらしい。素晴らしい師弟愛である。

もうひとつのテーマの「自由」であるが、お金があると「自由でいられる(選択肢が増える)」ということと、お金があると「お金では買えないものを守ることができる」ということを書きたかったのだが、さすがに長くなり過ぎたので、今日はこの辺でオヤスミナサイ(笑)。