「町医者」という職業

「職業シリーズ」というわけではないが、以前から書こうと思っていたテーマだった。

2005年3月に、僕らは今の家(恵比寿)に引っ越してきたが、家から徒歩1分のところに、小児科と放射線科と内科を併設している医院がある。

そこの医師は、既に70代半ばを超えれているが、とても元気な人だ。

その医師が何よりも素晴らしいのは、とても「社交的」なところである。僕たち患者に対して、いつも笑顔で、平易な言葉を使って病状を説明してくれる。悠生が6ヶ月を過ぎた頃(母親からもらった免疫が切れる頃らしい)から、ちょくちょく発熱したり、具合が悪くなったりして、その医院に通うようになった。

妻は広尾の日赤医療センターで悠生を産んだこともあり、僕らも日赤に通っていたが、恵比寿と広尾で近いとは言え、往復の時間や何より病院での待ち時間を考えると、近所の「町医者」の方がいいだろうと思って行ってみたところ、これが「想定外」に素晴らしいお医者さんだった。尚かつ、看護婦の方達も感じのよい人ばかりで、それ以来、何かあると近所のお医者さんに行くようになった。僕の気持ちとしては実名を出したいところだが、僕のプライバシーもあるので(笑)、医院の名前は出さないでおく。

その医師は、僕の推測では、若い頃は大病院に勤務していたのではないかと思う。とても知識・経験が豊富そうで、看てもらっている立場として、安心感がある。僕の父は、総合病院のマネジメントをしていたので、小さい頃からお医者さんに接して育ってきており、お医者さんのことは何となくわかる。その医師には息子さんがいらして、彼も時々、診察している。その方は、ハーバードを出ており、聖路加病院で修行を積んできたそうで、父親の愛情が感じられる。きっと、英才教育を施してきたのだろう。

さて、話しは変わるが、「相田みつを」という人をご存知だろうか?

僕は彼の「言葉」が好きで、トイレに「日めくり」のカレンダーを置いてある。

今日の言葉は、「願」というものだ。

それは、個人的な欲望とは別に、社会全体や周囲のことについて、その平和や繁栄を願うことを言うらしい。相田みつをは、自分自身もそうだとして、個人的な欲望を否定していないが、私利私欲とは別に、地球環境に配慮する心と行動や道徳的な心と行動を伴った「生き方」をしていると、目が澄んできて「深く」なると書いている。なんとなく分かる気がする。

そして、「一隅を照らす人間」になりたいものです、と書いている。

大病院で難しい手術をしたり、最先端の医療に携わることは、医者として、名誉なことだろうし、やりがいがあると思う。

しかし、自分の極身近にいる困っている人を助けることは、それらに劣らない素晴らしい「生き方」だと思う。

僕は、昔も今も「大きな事」や「社会から評価」されることを志向しているところがあるが、自分の中でインタースコープを退任することを決めてから、だいぶ、そういう志向性が弱くなったと思う。

まだまだ煩悩の塊であり、それを無くすには、まだまだ若いとも思っているが、心の片隅でもいいから、「一隅を照らす」という気持ちを持ち続けたいと思う。

「弁護士」という職業

僕の弟は、実家の福島県郡山市で「法律(弁護士)事務所」を開業している。

「弁護士」というと、高給取りのようなイメージがあると思うが、一部の「渉外弁護士(企業の交渉事をまとめる弁護士)」を除けば、それほど割の良い仕事ではない。特に、弟のように地方都市で弁護士事務所を開業している場合は、尚更である。

いつだったか、ある事件について弟と話しをしていた時、彼が言ったことが印象に残っている。

それは、どこからどう見ても「凶悪犯」としか思えない容疑者の弁護を引き受ける時というのは、いったい、どういう心境で引き受けるのか?また、何故、引き受けるのか?という質問に対する、弟の回答だった。

「一人の冤罪(えんざい)を救うためには、多数の凶悪犯の弁護を引き受ける必要がある」。

一言一句は別として、弟は、僕にそう答えた。僕は、なるほどなあ・・・と思った。

僕は、堀江さんを擁護するつもりはないが、今回のライブドア事件に関するマスコミの報道を見ていて、ふっと、そんなことを思い出した。

弟の話しは、僕らの仕事にも通じることがあるような気がする。

「想い」は削れない。

今週末は「原稿Weekend」だった。

6/5(月)午前中必着で依頼されている、あるビジネス誌の原稿がある。昨日、約10,000字のボリュームのその原稿の「骨子」を考えて、編集長にメールを送った。

2003年だったと思うが、グロービスが編集を担当し、ダイヤモンド社が発行していた「Globis Management Review」というビジネス誌に約13,000字ぐらいの原稿を書いたことがあったので、今回の原稿は、編集長の期待値に応えるには、どのぐらいの難易度で、どのぐらいの集中力と時間が必要か、ある程度、読めていた。しかし、原稿のテーマが自分にとっては初めてのもので、尚かつ、5/22(月)の弊社設立記念レセプションと、6/1(木)に予定しているマネックスの松本さんとの対談形式のセミナーとが重なっていたことで、かなりのプレッシャーを感じていた。幸いなことに、天候にも恵まれてレセプションが無事に終わったことで、だいぶ気が楽になっていた。この後も、まだまだチャレンジはあるが、あとは、とにかく締め切りに間に合うように原稿を書くだけだ。

もうひとつ、今週末に書かなければならない原稿があった。それは、6/1(木)のセミナーで配布する会社概要(パンフレット)に載せる「企業理念」と「代表者挨拶」だ。

「企業理念」も「代表者挨拶」も既にWebサイトに掲載しており、今から原稿を書くわけではないのだが、パンフレットに載せるために「字数」を調整する必要があり、その原稿を書く必要があった。

「企業理念」は特に苦労もなく、デザイナーが指定した字数に調整できたが、理念という「論理体系」ではなく、僕の「想い」を字数を調整して書くのは、それも、約2,700文字の内容を「450字」にまで削減するという作業は、苦痛を伴う。

論理的に説明すればよいものであれば、いわゆる「要約」の手法で済むが、自分の「想い」は削れないのである。

ところで、今日のBlogだが、最初は「清原」の「逆転満塁サヨナラホームラン」のことを書くつもりだった。

松井やイチローの方が、選手としてのパフォーマンスや実績は優れいてると言えると思うが、僕の「心」を揺さぶるのは、松井でもイチローでもなく、清原である理由を書こうと思っていた。田坂さんの言う、「パーソナリティは最高戦略」ということの意味を、清原にも感じるからだ。

彼は、何かと問題も起こすし、数字的には彼以上の選手はたくさんいる。でも、彼の存在感はとても大きいと思う。それは何故か?彼はいつも「本音」で生きており、いつも「ありのままの自分(素の自分)」をさらけ出しているからだと思う。日経新聞で清原の記事を読んでいて、僕は目頭が熱くなった。

さて、話しを「想い」に戻すと、そんなことで原稿を書けないでいたので、自分の気持ちをリセットするために、TBSの「情熱大陸」という番組を見ていた。今日の「情熱大陸」が取り上げていた人は、小西真奈美だった。透明感のある人だと思った。

「情熱大陸」を見ていて、思い出したことがある。それは、グロービスの小林さんのことだ。

彼は自身のBlogで、「昔はアサヒビールのスーパードライのTVCMに出たいとか思っていた(出れるような人になりたいと思っていた)」と書いていた。今は、NHKのプロフェッショナルとかに特集されるようになりたいそうだ。

いわゆる、フツーの人であれば、心の中ではそう思っていても、実際に口にはしないだろうし、ましてや、Blogには書かないだろう。でも、素直にストレートに書いてしまう彼のその行動に、僕はある種の「共感」と「好感」を覚えた。

そう、人間、素直に生きるのが一番なのである。

それが出来ないのは、「羞恥心」や「見栄」や「プライド」があったり、「他人の目を気にしている」からだろう。僕は、そういう「お澄まし」な生き方は、インタースコープを退任すると同時に、もう止めることにした。

「志」の意味

松下幸之助は、「『志』とは『自分が見届けられないことに本気になれること』」と言ったそうです。ステキなことですね。ロマンを感じます。

マクロミルの杉本さん

杉本さんと初めて会ったのは、2000年12月27日に開催された「次世代インターネットリサーチ・フォーラム」というイベントだった。

ネットレイティングスの萩原さんが音頭を取っていたイベントだったが、まさにインターネットリサーチが世の中に認知され始めたばかりの頃で、200人以上の人が集まっていた。

イベントの内容は主要なインターネットリサーチ会社の経営者が壇上に座り、萩原さんが司会をするというパネルディスカッション形式のものだったが、杉本さんは、客席から向かって一番左側に座っていた(残念ながら、僕には声が掛からなかった/笑)。その時の杉本さんの印象は「神経質そうな人」というものだった。

しかし、付き合っていくうちに、「この人は相当に手強い人だ」というふうに考えが変わった。そして、特に「財務戦略」的分野においては、様々なことを杉本さんから学ばせて頂いた。

杉本さんの右側が、GBネクサイトの女性(申し訳ないがお名前は覚えていない)、その右側がインフォプラントの大谷さん、その右側がビートレンドの井上さん、そして、一番右側にインターネットリサーチのユーザー側ということで、当時は三和総研にいらした谷内さんというメンバーだった。

杉本さんとはその後も交流が続き、その翌年のある日、初めて食事を共にしたが、その帰りの西麻布の交差点の横断歩道の上で、「将来は何か一緒にやりましょう」と握手をした。また、あれは2002年だったと思うが、杉本さんと彼の奥さん(とてもキレイな方だ)と我々夫婦の4人で代官山のレストランで食事をしたこともあった。何を話したかは覚えていないが、とても楽しい時間だった。因みに、僕の妻は、かなりの杉本さんファンだ(笑)。

杉本さんとインフォプラントの大谷さんは、一緒に「インターネットリサーチ業界」を創り上げてきた「盟友」のような存在で、ビジネスの上では「競合」であるが、そういう関係を超えて、親しく付き合ってきた。

昨晩の弊社のレセプションにはネット業界の錚々たるメンバーが集まってくれたが、その中でも、杉本さんが出席してくれたことは、僕にとっては特に嬉しいことだった(残念ながら大谷さんは所用があり出席されなかった)。

男(女もそうか?)という生き物は、どうも見栄っ張りというか虚栄心が強いのか、マクロミルを一部上場企業にまで育て上げた杉本さんに対して、「レインチェック(雨天試合の代替チケット)」を切って3度目の起業をした僕は、何となく引け目のような感情を抱いていたが、昨日のレセプションのアレンマイナーさんのスピーチで、そういう感情もだいぶ無くなったような気がする。

さて、昨晩、その杉本さんに言われたことがある。僕がこのBlogに「BMW Z4」に乗っている写真を掲載していることについて、「Z4の写真は出さない方が(ドリームビジョンに対して)お金が集まるんじゃないの?」ということだ(以前のBlogにも書いたが、Z4は妻の妊娠に伴い売却して、今は中古で買った330i に乗っている)。

そのことは、もちろん僕も考えた。経営者として、果たしてどうしたものか?と。でも、今回は敢えてそうした。

実は、Z4 を買った時、山川さん(インタースコープの共同創業者)からも同じようなことを言われたことがある。それは、「会社には乗ってこない方がいいと思う」というアドアイスだった。

BMW Z4 は、同じマンションベンチャーからスタートした渡辺さんが立ち上げた「保険スクエアbang !(後に、ウェブクルーという会社になる)」というネットビジネスに僕も創業メンバーとして参加させてもらったことで、ウェブクルーの上場に伴い得ることができたキャピタルゲインで買ったもので、インタースコープで高い役員報酬を取っていたわけでもなく、貧乏な頃から額に汗して頑張ってきた結果、得たお金で買ったものなので、誰の目を気にする必要もなかったのだが、まだまだ、ろくに利益も出ていなかったインタースコープの株主や社員の人達への配慮として、そういうアドバイスをされたのだと理解している。

しかし、その一方で、夫婦の年収が300万円もないという貧乏にも負けずに頑張っていれば、いつかこういうこともある!!!ということを社内に示すことができるという想いもあり、僕自身、かなり悩んだが、結局、インタースコープ時代は会社には乗っていかなかった。厳密に言えば、会社の駐車場には停めなかった。

では、何故、このBlog に、Z4 に乗っている僕の写真を掲載したのか?

それは、僕はとにかく、Z4が好きだったということや、僕は既にインタースコープの経営者ではないということと、ドリームビジョンには外部株主は入っていないこともあるが、それよりも、僕の考えとして、特に、これからの時代は、「清貧」という生き方ではなく、「崇高な理念」と併せてそれなりの「財力」がある人でないと、社会に対して「プラスの影響力」を与えることが出来ないと考えるようになったからだ。

つまり、海外旅行に行くにもお金はかかるし、オシャレなレストラン(昨日の船上ラウンジも)で食事をするにもお金はかかるし、子供を大学に入れるにもお金はかかるわけで、いくら崇高な理念を唱えても、ある程度の財力が伴わなければ何も実現できない。

今日の午後、あるところが主催する講演会に行ってきたのだが、そこで紹介された言葉が印象に残っている。

一言一句は覚えていないが、「財を残すは下、事業を残すは中���人を残すは上。しかし、財なかれば事業は保たれず、事業なければ人は育たない」というものだった。

なので僕は、正々堂々とBMWに乗ろうと思うし、3年後にポルシェに乗ろうと思う。

3年後にポルシェに乗ることに意味があるのではなく、ポルシェが買えるほどの経済的余裕があるようになっていること、つまり、会社としてドリームビジョンが成長しているということが大切だということだ。

僕よりも優秀な素晴らしいスタッフがたくさんいて、みんなが楽しく元気に自分らしく働いている会社にしたい。

3度目の起業

ようやく始まった!!!という気がする。

今日は、天王洲アイルのWATERLINE という「船上ラウンジ」で、ドリームビジョン設立記念レセプションを開催した。月曜日にも関らず、ネットベンチャー関連の人達を中心に、120人以上の方達にご出席いただいた。ありがとうございました。

2月からインタースコープを非常勤にしてもらい、3/17(金)に開催されたETICのイベントで「予告編」的に告知をさせて頂いた後、本格的に立ち上げの準備をしてきたが、ようやくお披露目ができた。まだまだ、工事中だらけだが、WEBサイトもカットオーバーできて、いよいよこれからだ。

ドリームビジョン設立の背景や僕の問題意識と絡めて事業内容の話をさせて頂いた後、サンブリッジのアレンマイナーさんにスピーチをいただき、その後、こちらの不手際で集まって頂いた皆さんにグラスが行き届かないままに乾杯の音頭をとって頂いた。

アレンさんのスピーチで印象に残っているのは、ソフィアバンクの田坂広志さんの言葉を引き合いに出して、今日の僕の話(ドリームビジョンの事業説明)にコメントしてくれたところだ。

アレンさんが引き合いに出した田坂さんの話は、僕もライブで聞いていた話で、それは「パーソナリティは最高戦略」というものだ。

その話を引き合いに出して、彼が僕の話にどうコメントしたかというと、「戦略的な話は何もないが、僕の想いが全面に出ているのがよい」ということで、経営者としてはダメ出しをされたのであるが、シリアルアントレプレナーというのは、いくつも事業を立ち上げていくうちに、その人らしい事業を手掛けるようになるものなので、平石さんがやりたいことを、ただ、愚直にやっていけばよいということだった。

僕自身が、今日の発表資料を作っている時に、「これって、ビジョンはあるけど、戦略がないよな・・・」と思っていたので、アレンさんが田坂さんの話を引き合いに出そうとされた時に、「あの話をするんだろうな」と思った。

今日のレセプションでは、とにかく、変にカッコつけずに、自分が考えていることをストレートに言ってしまおう!!!と思っていて、実際にそうすることが出来たし、アレンさんのスピーチを聞いて、何か肩の力が抜けた気がする。

グロービスの堀さんやアタッカーズを運営する大前研一さんのように「R.O.I.」や経営効率をシビアに考えるのではなく、僕が目指すものを、「凡事を非凡にやり続けよう」と改めて考えた。

「船上ラウンジ」ということで、初夏の風が心地よく、とてもステキな夜だった。写真は明日、アップロードしよう。

お花を贈って下さった皆さん。ありがとうございました。

「WEB2.0(ウェブ進化論)」と僕の人生(続)

今朝から悠生の具合が悪くなり、今日のテーマは「初めての子育て」でもよかったのだが、約束?なので、昨日の続編にすることにした。

梅田さんはウェブ進化論の中で、「不思議な人間的魅力を伴う『器の大きさ』と『動物的な強さ』を併せ持つ個性に出会うことは滅多にない」と、はてなの近藤さんを絶賛しているが、僕が今までに出会った中にも、そういう人物がいる。

ひとりは、吉川欣也さんという人で、彼は今、シリコンバレーで活躍する日本人のひとりだ。

やはり、自ら創業したデジタルマジックラボという会社を退任してシリコンバレーに渡り、パートナーの石黒さんという天才的なエンジニアと一緒に、シスコのルーターに対抗するシェアウエアのルーター開発ベンチャーを興した。つい先日、彼とのメールのやりとりで知ったのだが、全株式をアクセスに売却したそうだ。彼は引き続き、創業経営者(社長兼COOだったと思う)として、2回目のEXITとして「IPO」を狙うと言っていた。とにかく、その腹の括り方は凄いの一言である。

もうひとりは、ウエディングプロデュース&ホテル・レストラン運営等を手掛ける野田豊という人物だ。

僕らが結婚する時に、彼が経営するウエディングプロデュース会社に発注したのが縁で知り合い、一時期は頻繁に会っていた。オプトのハチ(鉢嶺氏)なんかと一緒に、よくゴルフに行っていた。最後に会ったのは、僕が社外取締役に就任したラソナ社長の岡村氏(仲間内ではポンと呼んでいる)の結婚式だったが、相変わらず、エネルギーの塊だった。今や一部上場企業となったテイクアンドギブニーズの野尻さんも、以前は野田が経営するプラン・ドゥ・シー(PDS)の社員だったそうだ。因みに、PDSは業績的には充分に上場できるレベルにあるが、資金ニーズがないので上場メリットがないとして、野田はPDSを上場させようとしないカリスマオーナー社長だ。

彼らの才能とエネルギーには敵わないなあと思う。

もうひとつ、梅田さんの言動で印象に残っているのは、9.11以降、自分の生き方を変えて、1970年以降に生まれた若い人達と積極的に会うようにしたということである。

僕の場合、幸いにも、インタースコープにおいて、述べ50人以上の「インターンの学生達」と接してきたことにより、今の若い人達は、僕らの世代が今の彼らの年齢だった頃とは比較にならないほど優秀であることを体感した。

そして、僕は、たまたま若い人達(この表現はとても嫌いだが)と交流することが好きで、仕事はもちろんであるが、食事に行ったり、飲みに行ったりと、彼らとの接点がたくさんあったし、今もある。それは、非常に恵まれていることだと思う。

なので、羽生善治さんが言う「高速道路の大渋滞」の比喩は、皮膚感覚で理解できる。

つい先日、久しぶりにランチを共にしたライブレボリューションの増永さんも、将来が楽しみな1970年以降生まれの起業家である。ドリームビジョンの事業構想について、彼にコメントをもらったのだが、とても参考になった。さすがの一言である。

最後にもうひとつ、ウェブ進化論で僕が「再発見」したことは、そう言われてみれば、吉川さんも野田も(彼らはふたりとも1967年生まれである)、あるいは、増永さんも、確かに凡人ではないのは間違いないが、天才というわけではなく、人よりも「かなり早い時期」に様々な経験をしてきたことが、持って生まれた才能を若くして発揮することになったように思う。

彼らの凄いところは、同じ年齢の人達が遊びまくっている時に、世の中の変化を敏感に嗅ぎ取り、自分が興味を持った何かに打ち込んできたこと、その「嗅覚と実行力」にあるように思う。

話は変わるが、青木功が彼の著作の中で、「プロゴルファーの『旬』」は、一般的には30~35才ぐらいだと思うが、自分は『5年遅れて』旬の時期がやってきたように思う」と言っていた。

僕は、28才から起業家人生をスタートさせたわけだが、高校から大学時代に「サボっていた」ツケが効いているのか、30代半ばまでは鳴かず飛ばずであり、苦労の連続だった。

インタースコープを始めてしばらくした頃、その先の自分のやりたいことを考えながら、30代の最後の3年間は、後で振り返った時、「自分の人生の2番目のピーク」だったと思うようになるような気がしたのと、僕の人生のピークは「54~56才頃」になるだろうと思うようになった。

また、40~42才は、階段でいうと「踊り場」のような時期になるだろうと漠然と考えていた。そして、43~45才は、次のステージに登るための準備期間なのか?子育てなのか?苦労をしそうな予感がしていた。今のところ、見事にそうなっている。

僕の「勘」が正しければ、46才頃から再び上昇気流に乗りはじめ、来るべき僕の人生のピークになるであろう「50代」に向けてのスロープになるような気がする。

自分の「直感」を信じて、焦らず、しかし、着実に、前に進んで行こうと思う。

明日のレセプションで、僕の人生における「夢」を発表するつもりだ。いよいよ決勝ラウンド突入である。もう、言い訳はきかない。