他人の夢を笑わない。

僕も創設に携わった武蔵野大学アントレプレナーシップ学部(通称:武蔵野EMC=Entrepreneurship Musashino Campus)は、とてもユニークな学部だ。

教員は全員が現役の起業家やベンチャーキャピタリスト等。学生も多種多様でユニークな面々が集まっている。年齢的には僕の子供のような人たちだ。その彼・彼女たちとの交流から、様々な学びと刺激を受けている。

他人の夢を笑わない」というのは、武蔵野EMCの魅力を端的に表している。僕が担当する授業で、何人かの学生が異口同音に口にした言葉だ。

僕は、その言葉を自分のブログのタイトルとして、拝借することにした。

そして、そのタイトル以外にも是非、僕のブログを読んでくれる方々に知って欲しい武蔵野EMCの魅力がある。それを僕が担当するクラスの学生たちと一緒に考えた。これからひとつずつ、僕のブログで紹介していくことにする。

武蔵野EMCの魅力を伝えるブログ Vol.1

「私の夢はずっと『アイドル』でした。同時に『私なんかが・・・』と諦めていました。でも、EMCに入り、皆が夢を応援しあう姿を見て、『もしかしたら私も』と思い、授業内のプレゼンで「アイドルになりたいです!」と言ってみました。

『あなたが?』と引かれるのが怖かったけれど、皆から返ってきたのは、たくさんの拍手と『頑張れ!』でした。

EMCじゃなければ、自分の夢を認められない人生を後悔していたと思います。あの日のおかげで今は着実に夢に近づいています。

あなたの夢もここで叶えませんか?」

by 重久紀香(武蔵野EMC第一期生)

彼女はまだ、夢の途中にいる。敢えて、厳しいことを言えば、その夢が叶うかどうかは何も保証されていない。でも、その夢に向かって一歩、踏み出さなければ、絶対にその夢は実現しない。

ところで、「希望学」という学問があることをご存じだろうか?

東京大学の玄田有史教授が中心となって始められた研究だ。

玄田教授たちが2005年に実施した調査によると、小学6年当時で「71%」、中学3年当時で「66%」が、自分の将来において、何らかの具体的な「希望する職業」があったそうだ。

しかし、その希望は多くの場合、実現していない。

希望していた職業に就いた経験がある人の割合は、中学3年の希望については15%、小学6年の希望に至っては、僅か8%に過ぎない。つまり、子どもの頃に希望した職業に就くことは実現困難ということだ。

では、将来に対する「希望」や「夢」を持つことは無意味なのか?

しかし、前述の調査結果によると、希望を持つことが、将来の職業選択や人生にに大きな影響を与えているという。

具体的には、小学6年生の時に希望する職業があったとする人々の場合、「86%」が仕事において「やりがい」を経験したことがあると答えているのに対して、希望が無かった人々の場合、その割合は77%に留まっている。

さらに、希望には、個人的な精神充実に留まるものもあれば、個人が希望を持って行動した結果として、それが何らかの「社会的な影響」を及ぼすものまである。

つまり、より多くの人々が希望を持てる社会を実現することは、活力に満ちた社会を実現することに繋がるということだ。

日本は、特に若者が将来に対して希望を持ちにくい国だという。

そんな日本を変えるべく創設されたのが、武蔵野EMCだ。

会社に入るか、社会を創るか」。

自分の思考と行動で、世界をより良い場所にできると本気で信じる人を増やす」。

これが、武蔵野EMCの理念であり、我々が目指すものである。

是非一度、武蔵野大学オープンキャンパスにいらしていただき、その空気を感じて欲しい。

妻の入院とスープカレー。

「眼の前が真っ暗になり、歩けない・・・」。そう言って電話を掛けてきたのは、今週の月曜日(7/18)。勤務先からの帰宅途中だった。

高2の長男を迎えに行かせて、何とか帰宅したのが18時少し前。メニエル病の持病がある妻は、激しい目眩と激しい腹痛を訴えており、そのまま横になっていれば治るという感じではなかった。

救急車を呼ぼうと思い、119番に電話するも、話し中で一向に繋がらない。東京都の救急対応相談窓口があり、そこに電話をするも同様な状況だった。30分ぐらいしただろうか。ようやく繋がったので事情を説明すると、とにかく、119番に掛け続けて下さいという。繋がらないので、そちらに電話をしたというと、とにかく、繋がるまで掛けて、繋がったら、相手が電話に出るまで鳴らしっぱなしにして待って下さい、という。そんなこんなで、救急車を呼ぼうと思い、電話を掛け始めてから、救急車が来てくれるまで、3時間を要した。尚且つ、救急車に妻を乗せてもらった後、救急隊員が受け入れ先の病院に片っ端から電話をしている。受け入れ先が見つかるまで、20分・・・。

結果的には虫垂炎(いわゆる盲腸)で、命に別状はないが、これが脳梗塞等、一刻を争う病気だったら、どうなっていただろうか?

コロナ対応に力を入れるのは良いが、そのせいで、他の重篤な病気の方で救えるはずの命が救えなかったということが、間違いなく、起きているだろう。それでいいはずがない。

日本は、あまりにコロナに過剰反応しているとしか思えない。BA5は感染力が強いというが、重症化リスクは少ないと聞いている。先月、約2年半ぶりにヨーロッパへ出張した際、ロンドンでもアムステルダムでも、98%程度の割合で、殆どの人がマスクをしていなかった。ここでも日本はまた「ガラパゴス」だ。

さて、話を妻の入院に戻すと、二人の子どもの食事の世話や買い物、洗濯など、とにかく忙しい。もちろん、仕事もしているわけで、子どもたちに夕食を食べ終わらせた頃には、もうヘトヘトである。

今までも、妻が乳がんの手術で入院したことがあったが、今回は、いつもの「キャベツスープ」だけでなく、今までに作ったことのない料理を作ろうと思い、様々な新メニューにチャレンジした。今日は「土用の丑の日」で「鰻」を買ってきたが、それだけでなく、ゴーヤチャンプルーを作った。

妻が入院した次の日、いつものスーパーに買い物に行き、人参、玉ねぎ、じゃがいもを買い物かごに入れていたところ、目の前に「スープカレー」の素が置いてあるのが目に入った。本当は普通のカレーを作るつもりだったのだが、予定を変更し、スープカレーを作ることにした。その瞬間、ひとりの消費者として初めて、クロスセルの効果を実感した。

朝起きたらその日の天気予報を確認し、朝食を用意している間に洗濯機のスイッチを押す。ブロッコリーを茹でている間に豚肉を炒める。数日先の献立を考えながらスーパーに行く。時間は限られている。

僕のような凡人は、当事者にならないと分からない。そのことを理解した。

下北沢と西荻窪。

学生時代の僕は、弟と一緒に下北沢に住んでいた。

弟は、弁護士を目指して司法試験の勉強をしていたが、父が他界し、何年に渡るか分からない、さらに言えば、何年挑戦しても合格する保証のない司法試験への挑戦を断念し、実家の福島県郡山市に帰ることになった。そして、僕は仕方なく、下北沢を離れた。その数年後、弟は念願の司法試験に合格した。

弟と二人で住み始めた頃の下北沢は、休日の午前中、トレーナーで買い物に行っても大丈夫だったが、いつしか人気の街になり、週末はHanakoを片手にしたカップルや女子で溢れるようになった。今にして思うと、日本社会がバブル経済に向かう時期だった。毎年のように家賃が高くなっていき、ひとりで払うのは無理があった。

後ろ髪を引かれながら下北沢を諦め、1987年の夏、汗だくになりながら引っ越ししたのは、代々木八幡にあった風呂なしのアパートだった。窓の外は小田急線。窓を開けると、電車の中の人が見えた。救いは、アパートの斜向いに銭湯があったことだ。

さすがに、そのアパートに住み続けるのは耐えらず、僕は井の頭線の東松原から徒歩6-7分、小田急線の梅ヶ丘からも徒歩8分程度のところに移り住んだ。いわゆるプレハブの安アパートだったが、築浅で日当たりがよく、まあまあ快適だった。下北沢に戻りたかったが、安月給の僕には無理だった。

2年ぐらい住んだだろうか? 僕は井の頭線の久我山に引っ越した。都心からはだいぶ遠くなったが、急行なら渋谷から15分。さらに3駅乗れば、吉祥寺。僕は久我山が気に入り、6−7年、住んでいた。

妻は東京生まれの東京育ちだが、方向音痴なのと、生まれ育った東急沿線とは雰囲気が異なり、久我山は好きではなさそうだった。

当時の僕は、株式会社クリードエクセキュートという、ちっぽけな会社を経営していたが、ある時、主力事業(という程の規模ではなかったが)だったDTP(Desktop Publishin)のビジネスからスパッと撤退した。1億5,000万円あった売上が、翌年には1,800万円に激減。僕たち夫婦は経済的に困窮した。

僕は、人生の「何かを変える必要がある」気がしていた。

大前研一氏は、人生を変えるためには、3つの方法しかないと言っている。それは、1. 付き合う人を変える。2. 時間の使い方を変える。そして、3. 住む場所を変える。だった。

他力本願ではなく、自分の意思で変えられることは何か? と考えた僕は、妻の土地勘のある東急線のエリアに引っ越しをすることにした。

妻は、どうせまた途中でやっぱり「東急沿線は止めた」となるだろうと思っていたらしいが、引っ越した先は、目蒲線(現目黒線)と大井町線が交差する「大岡山」という場所だった。既に他界してしまったが、妻の叔母が住んでいた2階建ての戸建ての1階部分に移り住んだ(叔母は代々木上原に引っ越した)。小さな庭も付いていた。

大岡山は、東京でも有数の高級住宅街で、近所には映画監督の篠田正浩氏と女優の岩下志麻さん夫妻の豪邸があった。

高級住宅街の一角の小さな戸建ての家は、住心地は良かったが、その頃の僕たちは、人生で最も貧乏な時代だった。拙著「挫折のすすめ」にも書いたが、3つではなく、4つ100円で売っていた名もないメーカーの納豆しか買えなかった。

詳細は割愛するが、その後、幸運にもネットバブルの最終列車に飛び乗ることができた僕は、ビットバレーの起業家のひとりとしてメディアにも取り上げられるようになり、創業メンバーのひとりとして立ち上げたウェブクルーは2004年9月21日、東証マザーズに上場した。社長(共同創業者)として立ち上げたインタースコープは、ネットリサーチ業界の御三家の一角として数えられるようになり、2007年2月、Yahoo! Japan にM&Aで売却した。

それから8年後の2015年。スーパーマーケットやレストランの店内で野菜を栽培するテクノロジーの開発に取り組んでいた、ベルリン発のInfarm というスタートアップと知り合った。僕が経営していたサンブリッジ グローバルベンチャーズという会社で主催していたInnovation Weekend というピッチイベントを、初めてベルリンで開催した時だった。

当時のInfarmは、プロトタイプのInStore Farm が一台あるだけだったが、3人の創業者と会い、彼らであれば、この壮大なビジョンを具現化できるだろうと思い、事業計画等は一切検討せず、投資をした。

リクルート創業者の江副さんの著書「かもめが翔んだ日」には、痛く心を揺さぶられた。

インタースコープを経営していた頃だった。僕にとっての初めての著作「自分でできるネットリサーチ」の原稿を書かなければいけなかったのだが、そんなことはお構いなしに、渋谷マークシティのスターバックスで、人目を憚らず、泣きながら「かもめが翔んだ日」を読んでいた。

「元リク」のある方から「平石さんは『自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ』を実践されていますよね」と言われたことがある。

その時は、そんなもんかな・・・という程度にしか思わなかったが、改めて振り返ってみると、まんざらそうでもないか、と思う。ネットベンチャーの後、教育関連の事業を行おうとしたり(それは上手く行かなかった)、その後はスタートアップに投資する側になり、極小規模ながらファンドを組成し、今度は、アグリテックといえば聞こえは良いが、野菜を栽培し、スーパーマーケットで販売する事業の日本法人を設立したりと、たしかに、自ら新しい機会を創り出し、それに取り組んで来た。

快晴の土曜日。JR中央線「西荻窪駅」構内に入っている「紀ノ国屋」に行った。店内で「収穫作業」をしてくれているスタッフの陣中見舞いのためだ。因みに、彼女の入社日は、僕の誕生日である。

西荻窪は閑静な住宅街でありながらサブカルチャー的な雰囲気を併せ持っており、どこか下北沢に似た雰囲気がある。ユニークな飲食店もたくさんある。

土曜日はいつもそうなのだが、自宅から西荻窪に向かう道は渋滞が激しい。

Google Map の推薦を信用し、環七から梅ヶ丘へ向かう道を入り、梅ヶ丘駅前を右折。北沢警察署の前を通り過ぎ、突き当りを左折した。角にあったガソリンスタンドはファミリーマートに姿を変え、僕が住んでいたアパートは無かったが、未熟だった20代の頃の自分を思い出した。

最近の僕は、若かった自分を思い出しては哀しい気持ちになる。ノスタルジーで片付けてしまうのはどうにもしっくりこない。その感情の源泉は何なのだろう?

ここには書いていないことも含めて、辛いことはたくさんあったが、それでも、僕の人生は幸運に恵まれている。20代の頃の自分はあまりにも未熟で危なっかしく、よくまあこうしてやって来れたなあと思う。

そんな人生もいつかは終りが来る。生きていることは、それだけで素晴らしいし、そう思える人生を送れているのは、とても幸せなことだ。そんな幸せな人生が砂時計のように残り少なくなっていくのは、どうにもやり切れない。

懐かしい住宅街の道を走りながら、自分の気持ちに気がついた。

中川とポルシェ。

ブログに書くほどではないかとも思ったが、前回の投稿からだいぶ時間が経っていることもあり、文字にしておくことにした。気になって読んだコラムに衝撃を受けたので。

大学生の頃、一冊1,000円もするカーグラフィックという月刊誌を毎月買っていた。大学進学で上京後、2年目から一緒に住むようになった弟もクルマが好きで、2人で知識だけは増えていった。当然、クルマを買えるお金があるわけもなく、カーグラで学んだ知識をもとに、2人でクルマ談義をするだけだったが、それも楽しかった。

大学2年生の頃だったと思うが、マツダのファミリアという2ボックス、色は「赤」が大人気になり、僕はレンタカーで赤のファミリアを借りてドライブに出かけたりした。こうして文字にしてみて改めて思い出したが、当時は、クルマを運転すること自体を目的にして出掛けることをドライブと言っていた。そして、ドライブの最中に聴くためにお気に入りの音楽を録音した「カセットテープ」と一緒に、楽しい娯楽として機能していた。1980年代のことである。

気になって読んだコラムは「松任谷正隆さん」が毎月、JAF Mate に寄稿されているものだが、その結末に、僕は思わず「えっ!」と声をあげてしまった。

僕と同年代以上の方には説明するまでもないと思うが、彼は無類のクルマ好きで知られている。本業の音楽活動に加えて、クルマ関係のコラムを書いたり、今は無いと思うが、以前はカーグラフィックTVというテレビ番組があり、そのパーソナリティをしていたりした。

今月号のコラムには、彼の本業の音楽活動に関することが書いてあり、奥さんでもあるユーミンのツアーバンドのギタリストして活躍されていた中川さんという方のことが紹介されていた。

彼もクルマが好きだったらしく、松任谷さんの影響で、ポルシェに乗っていたそうだが、ある年の苗場でのユーミンのライブを最後に病気が見つかり、あっけなく他界されてしまったそうだ。

そして亡くなられる直前に、ご自分でポルシェを処分されたという。

そのことを後で伝え聞いた松任谷さんは、「その時の彼の気持ちを思うと、今でも胸が張り裂けそうになる」と綴っていた。

昭和の高度経済成長期に生まれ育った人間に共通する価値観なのか、クルマは経済的成功のシンボルのひとつだ。カーグラフィックを読んでいた大学生の頃から20年後、創業に関わったウェブクルーというスタートアップのIPOで得たキャピタルゲインで、BMW Z4 3.0i を買った。人生で初めて買ったクルマだった。そんな僕も人生で一度は、ポルシェのオーナーになりたいと思っている。

大学生の頃ほどクルマに対する関心は無くなったが、それでもクルマが好きなのと、松任谷正隆さんのファンでもある僕は、とても楽しく、そのコラムを読み進めていたのだが、最後の最後で、中川さんという寡黙なギタリストの最後を知り、想定外の結末に、心が動揺した。

自分でも何を伝えたいのか? 何を文字に残しておきたいのか? 整理できていないが、会ったこともない中川さんというギタリストの人生から、何かを訴えられている気がした・・・。

※出典:写真はポルシェ・ジャパンのウェブサイトよりスクリーンショット。

あの日。

人生は短いよ。人生100年時代とか言うけど。若い日々は、あっと言う間に通り過ぎる。

子供の頃にお世話になった叔父さんや叔母さんたちが旅立ってしまう年齢になったせいか、子供の頃や自分が若かった頃のことを思い出す。

父は珍しく、急いでいた。制限速度を超えているのは、小学生の僕にも分かった。長い坂道を父のクルマで病院に向かっていた。小学校4年生か5年生の頃だったと思う。あれが人生で初めての入院だった。

地元の総合病院で働いていた父は、とても仕事が忙しかったようで、一緒に遊んでもらった記憶は無い。時々、どこどこに連れて行くという約束をしては、いつも前日になって、仕事が入ってしまい、連れていけなくなった・・・と言っていた。母は、子どもたちを遊びに連れて行ってあげたいという気持ちは分かるけと、行けなくなるとガッカリさせるだけなので、本当に行けることが確実になるまで、何も約束しない方がいいでしょう、と父に言ってた。

コロナ禍の中、息を引き取った叔父は、僕が高校生の時、大雪が降った日、バンドの練習で楽器を運ぶためにクルマを出してくれた。僕の父親(彼にとっては義理の兄)に対する手前もあっただろうけど、本当に他人に優しい、素晴らしい人だった。残念ながら、告別式には参列できなかった。

思い出せば、長男は幼少の頃から気難しく、神経質だった。数学が得意で、Garage Band で作曲を始めた彼の姿を見て、一昨年のクリスマスに、僕は彼にMacBook を買ってあげた。妻に似て、金銭感覚がシビアで、最初は「どうして、そんな高額なものを買ってきてしまったんだ・・・」と涙を流しそうにしていたが、音楽ユニットを結成し、今ではFinal Cut Pro等を使いこなし、昨年の夏には、FMラジオにも出演した。

この両親からどうしてこういう天真爛漫な人間が生まれて来たのか?と思うほど、次男は底抜けに明るく、社交性に優れており、誰とでもすぐに友達になれる。アフタースクールのキャンプでバスに乗る時も、隣が知らない子だろうがまったく気にせず、帰って来る頃には仲良しになっている。長男のような理系の脳ではないと思うが、兄の様子を見様見真似で、Garage Band で作曲をしたりしている。週末は、友達の家に行ったり、彼らを我が家に呼んだりと、学年の違う子どもたちとも楽しく遊んでいる。

彼らがいなかったら、去年の紅白をみるまで、きっとヨアソビは知らなかったし、ヨルシカもね。

田坂広志さんがご自身のブログか何かで若さの貴重さに気づくのは、残念ながら、若さを失った時だということを仰っていた。その時は、理屈としては理解していたが、今になって、哀しいほど、その意味を実感する。

そりゃいろいろあるけど、生きていることは、それだけで素晴らしい。そう思える人生を送れていることに、感謝しかない。

人生は短いね。

10年後の自分。

それほど期待していたわけではないけど、急遽決めた一泊二日の「箱根」旅行は楽しかった。

貸別荘なら食事も部屋で食べるし、他のお客さんと一緒になることもないし、この時期でも大丈夫だろうしね。

ここ数週間、色々と書きたいことはあったけど、年明け1月の紀ノ国屋とサミットでのInfarm ローンチの準備で忙殺されており、ブログを書くことよりも優先すべき仕事がたくさんあった。

彫刻の森美術館で見たピカソは圧巻だった。僕は巨匠の絵を理解できるような才能は持ち合わせていないが、それでも、ゲルニカを思わせる絵のタペストリーの前に立った時は、その作品のエネルギーに圧倒された。

「絵は前もって考えつくされ、決定されるものではない、むしろ描かれていく間、たえず心の変動に従う。絵は作者の欲求がそこに表そうとしたことよりも、ずっと多くのことを表現する。作者はしばしば自分で予期しなかった結果に驚かされる。線が対象を生まれさせ、色がフォルムを暗示し、フォルムが主題を決定する」。

年が明け、3月の誕生日が来ると、僕は58歳になる。還暦カウントダウンだ。

35歳になった時、20歳からそれまで生きてきた時間と同じ時間が訪れると、僕は50歳になるという現実に気づいた時、後頭部をハンマーで殴られたような衝撃を受けたが、その50歳はとうの昔に通り過ぎ、あと2年3ヶ月で60歳だ。

ここ数年、大学生や20代の若者たちを見ると、何とも言えない哀愁というか、認めざるを得ない衰えに、切ない気持ちになっていたが、ピカソの絵を見て、元気が出た!

ピカソ風に言えば、その時々の自分が選んできたことが「自分が予期しなかった結果」をもたらし、新たな「選択肢」を生まれさせ、行動が役割りを暗示し、役割りが人生の主題(目的)を決定する。

肉体は58歳になっても、精神的には、28歳の頃とあまり変わらない気もする。

柔道のワンマッチは、たくさんの方が見たと思う。僕は別に柔道のファンというわけではないけど、たまたま、その数日前だったかに「丸山城志郎」選手の特集番組を見て、66kg級は、たいへんなことになっていることを知った。

その日のニュース番組では、勝負に勝った阿部一二三選手を称える報道だけだった。そりゃ勝者がいれば、敗者がいるわけで、勝者を称えるだけでいいのか? どちらが勝っても金メダルと言われていたわけで・・・。

たしかに、阿部一二三選手の方が妹さんも一緒にオリンピック代表に選出されるなど、メディアにとっては、これ以上ないストーリーかもしれないけど、僕は丸山選手の今後の方が興味がある。

地元の進学校を受験するも落ちて、二次募集で入った高校を中退し、翌年、リベンジしたまでは良かったけど、落ちこぼれとなり、三流大学にしか行けず。興味があるのは英語と西洋文化しかなく、でも、留学をさせてもらえるわけもなく、生活していくために仕方なく入った会社は一年3ヶ月で退職。28歳で起業するも鳴かず飛ばずの日々が9年。そんな僕を見かねたのか、神様が拾ってくれて、何とかネットバブルの最終列車に飛び乗った。

外野が軽々しく言っていいことじゃないと思うけど、丸山選手には是非、リベンジして欲しいと思う。

リベンジと言えば、ビートレンドの上場は嬉しかった。僕はドリームビジョンを通じて、ほんの少しばかり、ビートレンドに投資させてもらっているけど、株主という意味だけじゃなく、ビットバレーと言われたネットバブルの狂乱を共に生き、その後、幾多の試練を乗り越え、苦節20年が実って、12月17日にめでたく上場。まだまだ人間が出来ていない僕は、他人の成功を嫉妬もするが、ビートレンドの上場というか、井上さんの苦労が報われたことは、自分のことのように嬉しかった。

ところで、10年後の自分は68歳。どうしているんだろうね? 日本にいるんだろうか?

僕がしてきた苦労なんて苦労のうちに入らなけど、辛いことがあっても、生きていることは素晴らしいし、そう思える日々を送れていることは幸せなことだ。

皆さん、良いお年をお迎え下さい!

スーツケース。25年。鱗雲。

スーツケースにいつもの荷物を詰め込み、羽田までのタクシーを予約し、あとは当日、パスポートさえ忘れないようにすれば、いつでも飛行機に乗れた日々が嘘のようだ。新型コロナウイルスなどいう怪物がこの地球上を支配し、昨年は計5回も行ったヨーロッパに、今年は一度も行っていない。

何故か突然、頭の中にメロディーが浮かぶことがある。残念ながら作曲のことではなく、昔、よく聽いていた曲のことだ。昨年9月のパリ、サンジェルマン大通りから一歩入ったところにあるお気に入りの小さなホテルの部屋で、何故か突然、井上陽水の曲のサビを思い出した。

頭に浮かんだ歌詞をグーグルで検索すると、それは「恋の予感」という歌だった。井上陽水の歌詞は理解不能で、彼が何をイメージして作った曲なのかは分からないが、凡人には思いつかない言葉と言葉が紡がれており、何やら神秘的な雰囲気だけは伝わってくる。

今年2月に、Infarm HQの Japan Expansion チームと共同創業者でCEOのErez Galonska が週替りで来日。TOA (Tech Open Air) World Tour Tokyo 2020なるイベントの壇上で、JR東日本からドイツ法人へのご出資と紀ノ国屋での導入、そして、ムロオ(チルド物流大手)との業務提携を発表。その後、コロナでスローダウンを余儀なくされたとはいうものの、切れ目なく日本ローンチの準備を進めてきており、問題を解決しては、また新たな問題が発生し・・・ということを、ここ数ヶ月、続けているせいか、さすがに僕も、少し、精神的に疲れていることを実感している。

そんな時、井上陽水の神秘的な歌詞と耽美なメロディは、「まあ、そんなにシリアスになるなよ。大丈夫だって!」という感じで、サプリメントというか、心のビタミン剤のような効能がある。坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」も、ここ最近のお気に入りだ。

僕と親しくしていただいている方の中には、長男が「音楽デュオ」を結成して、YouTubeにオリジナル曲をアップロードしていたり、この夏は「ZIP-FM」なる名古屋のラジオ番組に出演したことをご存知の方もいらっしゃると思うが、彼らの曲は、今流行りのヨアソビヨルシカ的なアップテンポの曲で、ジョギングの時にはいいんだけど、今この瞬間のような少々心が疲れている時には聴けないんだよね・・・。

中高生の彼らに、還暦が視野に入った起業家の心に響く曲は無理かもしれないけど、僕が書いた歌詞に、曲を付けてもらおうかな・・・。

井上陽水の「恋の予感」を聴きながら、こんなエントリーを書いていたら、少し、元気が出てきた。

さて、オフィスに行きますか!!

追伸:タイトル中の「25年と鱗雲」の意味は、次のエントリーで解説します。