まわり道

今日の「情熱大陸」は、アンジェラ・アキというシンガー・ソングライターの特集だった。彼女は、日本人の父親とイタリア系アメリカ人の母親の間に生まれたハーフで、出身は徳島県だと言っていた。

彼女のことは、名前とCDジャケットぐらいは知ってはいたが、番組を見るまで、詳しいことは知らなかった。

彼女は、27才の最後の日にメジャーデビューをし、来月で29才になるらしい。18才の時、当時、ワシントンDCに住んでいた彼女は「音楽で生きよう」と心に決めてから、10年間の「下積生活」をしてきたという。

デモテープを色々なところに何度も何度も送り続けては何も起こらない日々を過ごしていた時、日本のあるCMディレクターの耳に留まったことが、デビューのきっかけになったそうだ。

番組の最後に、ナレーターが「彼女は『まわり道』をしてきたかもしれない。でも、必要だった(のかもしれない)」と言っていた。

自分のことに置き換えてみると、最初の起業の頃を思い出す。

「徒手空拳」で始めたことなので、ある意味、当然のこととも言えるが、とにかく鳴かず飛ばずの9年間だった。正確に言えば、7年間だった。

最初の2年半間は、自分が勤めていたコンサルティング会社やコネのあった広告代理店の下請けをしたりで、起業したとは言っても、個人事務所に近いようなものだった。

それでは意味がないと思い、真夏の暑い太陽の下を新規顧客開拓で歩き回ったりもしたが、身を結ばなかった。今にして考えると、それは当然のことで、自分自身が「そんなことをしても、決まる筈がない」と思っていたのだから、決まる筈がないのである。何故なら、決めるまでの「努力」をしないのだから。

そんな僕を救ったのが、アップルコンピュータというかマッキントッシュだった。マックを使って「DTP」の仕事をし始めた。そういう仕事ができないか?(できるでしょ?)と言って、仕事を頼んできた人がいた。ラッキーだったとしか言いようがない。

それから数年間は、売上も伸び、多少ながらも利益も出るようになったが、起業してから5年半が経った頃、僕は、僕を救ってくれたDTPの仕事を「バサッ」と止めた。自分が本当にやりたい仕事ではなかったからだ。

その時の僕の会社は、売上の7割を「DTP」で稼ぎ出していたので、そのDTPを止めることは、普通に考えれば自殺行為に近い。僕にその決断をさせたのは、あるクライアントの責任者が、僕に「コンペ」を要求してきたことだ。

「勝ち目がない勝負をしても意味がない」。そう思って、スッパリと止めた。

そうしたら、案の定、翌年からの約2年間、僕の人生で最も貧乏な時期を迎えた。夫婦ふたりで年収が「300万円」あるか無いかだった。妻は、週に2~3日を「派遣社員」として働き、尚かつ、昼休みに公衆電話(まだ、今ほどケイタイは普及していなかった)で留守電を聞き、僕の会社の仕事もしていた。

そんな僕らに転機が訪れたのは、1997年10月だった。伊藤忠商事の新規事業開発を手伝うことになった。

その仕事(新規事業)は成就しなかったが、そこから僕は多くのことを学んだ。お金はもちろんありがたかったが、その仕事をすることによって、僕の仕事のレベルが格段に上がっていったと思う。そして、ネットビジネスにも関与するようになり、いつの間にか「自らネットビジネスを開発する」ようになっていった。そして、2000年3月にインタースコープを創業した。

ところで、昨日、ETIC主催の「cafe」というイベントで、インタースコープを創業した頃に何度か会ったことがある元アクシブドットコムの尾関さんと会った。本当に久しぶりだった。

当時の彼の印象は、何となく「軽い人」という感じだったが、それは昨日も変わらなかった(笑)。でも、彼の中で大きな変化があったのだろうと思わせる発言があった。

「今までの僕は、心を開くことをしなかった。それは、傷つくのが怖かったから」と言っていた。

その彼を変えさせたのが、沖縄との「出会い」だったという。

僕は沖縄に従姉妹がいるので何となく理解できるが、彼が言うには、沖縄の人は「本土」と「沖縄」の間で苦しんでおり、本土の人間に対して疑心暗鬼であったり、自殺率が高かったリと、そのイメージとは裏腹に、病んだところが多々あるらしい。アイデンティティに苦しんでいるのかもしれない。

その沖縄の人達が、彼に「心を開いて(彼を信じて)」くる姿をみて、彼は「この人達のために何かをしたい」と思うようになったという。

その結果、彼はアクシブドットコムを売却して得た資産のすべて注ぎ込んで、沖縄の土地を買い、新しい事業を立ち上げようとしているらしい。

女優の「山口もえ」さんと結婚したりと世の中に派手な話題を振りまいている傍ら、彼の中に大きな変化が起きていたことは、当然のことながら知らなかった。

そんな話しを、ETIC代表理事の宮城さんに言ったら、「いや、奴は昔からそういうところがあったんですよ。昔は、ポーズを取っていただけなんです」という返事が返ってきた。

尾関さんが「心を開く」勇気を持つために、今までの人生が必要だったのだろう。

その彼から、メールが届いた。とてもやわらかい感じがした。

近いうちに、彼のお店に行ってみようと思う。

自分自身の「人生のまわり道」の意味を考えるために。というと大袈裟であるが・・・(笑)。

追伸:「出会い」には、いつも何か「胸騒ぎ」を感じる。そんな「出会い」を大切にしていきたいと思う。