家族の記憶

先程のエントリーに書いた「記憶」のことが、妙に頭に残っている。

正確に言うと、「最後には白紙だけが残る」というフレーズが、とても大きな「存在感」を持って、僕の脳裏に迫っている。

昨日は、妻の伯母の一周忌だったこともあり、また、今日はこれから実家に帰省することもあり、亡くなった家族のことを考えているのかもしれない。

先程、時間の合間を縫ってメールの整理をしていたら、今年の2月27日と28日に、僕を入れて「3人兄弟」でのメールのやりとりが出て来た。

2月27日は、僕らの生みの母親の命日である。

末弟のメールに、「あの頃の平石家のメンバーは、我々3兄弟しか生きていないのだな、と改めて思い、世の儚さみたいのものを感じ、喪失感を覚えました。・・・としみったれたことを言うのではなく、前向きに生きていきたいものです」と書いてあった。

あれから27年の歳月が流れたことを思うと、無理もないことかもしれないが、世の中の高齢化を反映してか、僕ら兄弟の友人達の両親は健在の方が多く、僕らはマイノリティである事実は変わらない。

そんな僕にとって、「そうしているうちに訪問者が少しずつ減っていき、書き込む人も減り、残されたコメントは薄れていき、最後には白紙だけが残る」という一文は、とてもリアリティがあり、「生」ということの「尊さ」を改めて感じるには充分過ぎる「パワー」を持っている。

そんな「静か」ではあるが「パワー」のある生き方をしたいと思う。

追伸:一昨日のゴルフのキャディさんは、どことなく、亡くなった妻の母親に似ているところがあった。とても頭の良い方で、コースの攻略法やラインの読みについて、的確なアドバイスをくれていた。