自分は自分であったか?

通産省(現在の経済産業省)を辞め、カルチュア・コンビニエンス・クラブに転職をし、その後、産業再生機構にてカネボウの社長を務めた小城武彦さんをご存知の方は多いと思う。

彼はいわゆる「エリート」であるが、とても気さくな方で、ETICを通じて知り合い、何度かお会いしたことがある。

先週の水曜日だったと思うが、ETICが主催するイベントに小城さんがゲストとしてお見えになり、短い時間ではあったが、会場に集まった人々にメッセージを送ってくれた。

小城さんは通産省時代、日本経済の活性化のため、様々な民間企業の人たちと接してきたが、民間企業を支援するのであれば、自らが民間企業を知らなければいけないと思い、株式公開前だったカルチュア・コンビニエンス・クラブに入社したそうである。

また、小城さんは通産省時代、仕事上で交流のあった民間企業の人達を見ていて、32~33才ぐらいになると、目が死んでいる人が多いことに気づいたという。

それは何故か? 大きく、2つの原因があると言っていた。

ひとつは「自分の成長を実感できていない」こと、ふたつめは「自分が属している組織で働くことの意味を感じられなくなっている(自分は何故、その会社なり組織で働いているのか?それが社会的に個人的にどんな意味を持っているのか?)」ことだという。

その後の話の展開は覚えていないが、最後に小城さんが言っていたことが印象に残っている。

それは、ユダヤ人の話である。

ユダヤ人というと金融の世界を思い出す人が多いと思うが、彼らは自分が亡くなる前に、自分の人生の成功を、どれだけのお金を稼いだか?という観点ではなく、「自分は自分であったか?」ということを自分に問うという。そして、それがユダヤ人の教えだそうである。

話しは変わるが、僕がインタースコープを創業して2年目の頃、日経ビジネスに長嶋茂雄さんのインタビュー記事が載っていて、その見出しに「職業は長嶋茂雄」と書いてあったことがある。

それを見た僕は「これだ!!」と思って、「職業は平石郁生だ」というような話を周囲の人達にしたことがある。

それを聞いた山川さん(共同創業者)が、「そういうことを言うと誤解をされるから、言わない方がいいですよ」と諭してくれたことがあるが、実際、当時、親しくしていたインターン(今も親しくしている)が、僕の話を聞いて、「経営者なんて、人と仲良くなれれば務まるんだ」というようなことを山川さんに言ったらしい。

その時は、僕の真意が伝わらなかったことがとてもショックだった。

僕が言いたかったことは、インタースコープを経営していようが、どこで何をしていようが、結局のところ、「自分は自分でしかない」ということであるが、何の実績もない僕がそういう話をすれば、そのような誤解をされるのが当たり前である。

話しを「ユダヤ人の教え」に戻すと、「自分が自分であったか?」という問いには、説得力があるというか、共感するものがある。

ところで、今朝ほど、出社したら、リンクアンドモチベーションの小笹さんから、ご自身が書かれた本が届いていた。

「仕事がうまくいく 自分の創り方」というタイトルで、小笹さんにとっては初めての経験となる、ご自身のこれまでの歩みを綴った「体験記」であり、テーマは「自己開示」だそうである。

目次を見ると、「おわりに ピンチこそ自分を創り変えるチャンスである」と書いてある。

年末年始の休みに帰省する新幹線の中ででも読もうと思う。