ほぼ創業メンバーの「松本知之」。

松本と初めて会ったのは、1997年か1998年。とても暑い夏だった。

その頃の日本は、故「橋本龍太郎」首相が「金融ビッグバン」なる金融行政の大改革中で、インターネットに代表される「I.T.革命」と共に、社会主義的日本が「市場資本主義」への移行を始めようかとしていた時だった。

そのような時代背景を踏まえて、国際決済銀行(BIS)に勤務していた井浦さんという方が、間接金融から直接金融(二アリーイコール株式投資)へ、そして、ネット系ベンチャーの起業促進をテーマとして「スマート・インベスター」というメーリングリスト(ML)を主宰されており、彼も僕も、そのMLのメンバーだった。

当時の彼は、まだ、法政大学の学生だったが、株式投資に興味を持っていたのか?ネット系ベンチャーに興味を持っていたのか?井浦さんがスイスから一時帰国した際に開催された「ベンチャー投資」に関する勉強会の「受付」として参加していた。因みに、インフォプラント創業者の大谷さんと知り合ったのも、そのMLであり、その勉強会だった。

その後のことはよく覚えていないが、彼が大学を卒業して丸三証券という証券会社に勤めるようになってからも時々、会うようになっていた。ご他聞に漏れず、彼が僕に営業にきて推奨した銘柄を買ったことがあったが、相場師としての才能があるのか、彼が勧めた銘柄はすべて、見事に値上がりした。

さて、そんな彼は、今にして思えば、ある種の「熱病」に冒されていたのだろうが、丸三証券をちょうど一年で辞めて、単身中国(上海)へ渡った。

そんなことじゃないかと思っていたが、僕も知っているある不良中年に騙されていたようで、丸三証券時代に貯めた貯金を使い果たし、裸一貫になって日本に帰ってきた。

上海には約2年ぐらいいたと思うが、何ヶ月かに一度は日本に帰国しており、その度に僕に連絡をくれて、一緒に食事をした。

そんなこともあり、彼とは一緒に働いたことは一度もなかったが、僕は彼を、彼は僕をよく理解しており、僕がドリームビジョンを経営していく上で何を大切にし、何を大切にして仕事をしているのかを、言葉ではなく、皮膚感覚で理解してくれている。そういう安心感が彼にはある。

そんな関係の松本だが、ドリームビジョンに合流する前は、あるベンチャー企業の名古屋支社の責任者をしており、三顧の礼ならぬ「二顧の礼」で口説き落とした。つまり、一度は断られたという意味である。

因みに、ドリームビジョンへの参画を決意した時、彼には婚約者がいて、結婚と転職を同時に、それも、いつ何時どうなってもおかしくないドリームビジョンに、転職(事実上、創業に参加)してきてくれたわけだ。

人生というか人と人の縁というのは、とても不思議なものだ。

月並みで且つ陳腐な言葉で恐縮だが、松本たちのような「夢と志」のある若いスタッフに対して「責任を果たせる生き方」をしたいと思う。