天国への階段? それとも、地獄への階段?

ロシア事情の続きを書くはずだったが、写真の取り込みができておらず、今日は別のテーマでのエントリーとしたい。

今日のエントリーに付けたタイトルは、「日本社会」のこと。

日本社会は、戦後の復興期を経て、まったく「別の国」と思える程の豊かさを手に入れた。

僕は、1963年生まれ。昭和でいうと38年生まれで、社会に出た時は「新人類」と言われた世代だ。

その「新人類」も、今年で「46才」。約四半世紀が過ぎた。とても感慨深い。

さて、近年の日本は「若者が将来に希望を持てない国」と言われるが、その理由が分かるような気がする。

その理由は、日本という国は「豊かさと閉塞感」の両方が同居する社会だからだと、僕は思う。

つまり、一部の本当に不幸な方々を除けば、まだまだこの国は豊かであり、食うに困る人は極僅かであり、このままでは日本は経済的に窮する(貧しくなる)と言われても、貧しかった日本社会を知らない人達は、その危機感を理解できるはずもない。

その一方、戦後の高度経済成長期の「枠組み」で得た「既得権」を死んでも?離そうとしない人々のお陰で、自分たちには美味しい果実は分け与えられそうにないと直感的に感じている主に若い世代は、別の脈絡において無力感にかられるのも理解できる。

そういう僕も、1980年代の後半、バブル経済の絶頂期、どう頑張っても報われないだろうと思い、半ばやる気を失っていた。しかし、それが僕を「起業」に駆り立てたのも事実である。

その時点で「持てる者」は、より一層、持てる者となる、つまり、「土地」や「株式」を持っていた人は「キャピタルゲイン(資産価値)」の恩恵に与れたが、当時の僕のように、資産の欠片もなかった人間は、高騰していく「地価」を見ながら、自分は「マイホーム」さえ持つことが出来ない一生を終えるのか?と悲嘆に暮れていたのである。

もう一度、話を日本全体に戻すと、100年に一度と言われる昨今の世界的経済危機においても、日本社会は少なくともこの瞬間、まだまだ「豊か」なのである。

マスコミの「偏重報道」のせいで、「派遣労働者」の窮状ばかりが目に付くが、横断歩道をケイタイメールをしながら渡る若い女性が大勢いることも事実である(経済的に平和なのである)。

戦前および戦後間もない頃に生まれた世代と較べれば、かなり恵まれている「新人類」の僕らも、子供の頃と較べれば、今の日本社会は、かなり裕福になっている。

なにしろ、あの頃は「海外旅行」がテレビのクイズ番組の「優勝賞品」だったのである。因みに、ロシアは今、極一部の富裕層を除いては、ちょうどその頃だと思っていい。

その海外旅行、今では「日常」の消費活動である。

この3連休に久しぶりに家族で訪れた「YOKOHAMA BAY QUARTER」で入ったレストランの隣の席では、20代前半と思われる女性たちが、何やら「海外旅行」の打ち合わせで、旅行代理店のパンフレットをテーブルいっぱいに広げて、とても楽しそうに、でも、侃々諤々と意見を戦わせていた。

「円高」の今日、海外旅行は「お買い得」である。

その一方、日本の「お家芸」である「製造業」は、世界同時不況に「歴史的水準の円高」のダブルパンチで、トヨタのみならず、SONYも東芝も「赤字」転落のニュースが新聞記事を賑わせている。

GDPの「約70%」が「個人消費」で尚かつ、その個人消費は「クレジットカード(借金)」に支えられていた「米国」への輸出(特に、自動車産業)に支えられていたことを考えれば、日本を代表する製造業の赤字は、当然とも言える。

米国民の「借金」に依存していた世界経済の発展は、その「原動力(?)」を失ったのである。

バイクでの世界旅行で有名で現在はシンガポールに住むカリスマ投資家「ジム・ロジャース」が言うには、米ドルは間違いなく、更に下落し、基軸通貨の地位から陥落するだろうとのことで、更なる「円高」もあり得ることを考えると、日経平均株価「8,000円割れ」のリアリティがなくもない。

そのような時代環境において、経常赤字に転落するという「製造業」に「雇用を保障しろ」と言うのは、リアリティがあるだろうか?

日本社会が「バブル経済」に突入していった1980年代に「限りなく透明に近いブルー」で「芥川賞」を受賞した作家の「村上 龍」氏が今年1月6日の日経新聞にて、以下のようなことを言っている。

「企業業績の改善の可能性が見えない中で派遣社員の正社員化を助成金で奨励しても、根本的な解決策にはならない。(中略)契約を打ち切られる労働者の側からの報道が間違っているというわけではない。だが、急激な販売減、需要減で赤字になった輸出企業が雇用をそのまま維持すればどのようになるのかという経営側の状況はほとんど知らされない」。

マスコミの報道を見ていると、雇用は守られるもの、つまり、労働者は「守られるもの」という「依存」のロジック(思考)が前提にある。

でも、はたして、そうだろうか?

言うまでもなく、「利潤」は「労働」によってもたらされるものであり、その「利潤」は、それを生み出した貢献度合いに応じて「分配」されるものであり、経営者も同じである。

「分配」する「パイ」が縮小すれば、自ずと「所得」は減少せざるを得ない。

因みに、日本の上場企業の経営者の役員報酬は、極一部を除き、欧米企業のそれと比較して、極めて低い。リスクの割に、リターンが少ないのである。だから、新入社員へのアンケート調査で、「社長や取締役になりたいとは思わない」と回答する人が増えているのである。

「天は自ら助ける者を助ける」という言葉があるが、今こそ、日本を「誰かに依存する」のではなく、「自助努力」をする人が報われる社会にするべきだと思う。

そうでなければ「挑戦する人」は現れないし、彼らが報われなければ、それこそ、キャピタル・フライト(資本逃避)のみならず、「ブレイン・フライト(頭脳流出)」になってしまうだろう。

現に、僕の友人の何人かは、既に、海外に移住したり、ビジネスの拠点を移したりしている。

その現実に、目を向けるべきである。

僕は、日本という国を、本当の意味で「フェア」な社会にしたいと思っている。

僕に出来ることは極々限られているが、まずは、自らそのことを実践したい。