「弟」が欲しい。

僕たちの子供も、気がつけば、3歳8ヶ月。最近は、だいぶ色々なことが理解できるようになってきた。

自分から「バイオリンを習いたい」と言ってきたぐらいで、「音楽」には、かなり前から興味を示していたが、僕が教えたこともあってか、最近は「数字」に興味を持つようになった。

先日はクルマで走っていると、速度制限の標識を見つけて、「40だよ!」と教えてくれた。

子供の発育には個人差があり、何から覚えるかはそれぞれだのようだが、僕たちの子供は、絵を描けるようになるのが、他の子と較べてやや遅かった。

その絵も、少し前からようやく描けるようになり、先日は、僕の友人夫妻の似顔絵を書いてプレゼントしていた。

ところで、今朝、保育園に子供を送った帰り道に、妻から聞いて初めて知ったが、最近は毎日のように「弟が欲しい」とか「何で弟がいないの?」とか言っているらしい。

僕の弟夫婦に「第二子」が誕生したことや、保育園の友達で「弟がいる子」のことが分かるようになり、弟や妹がいる子のことが羨ましくなったのだろう。

また、「どうして、お祖父ちゃんは死んじゃったの?会いたかった・・・」とも言っているらしい。

僕の養母がいるので、彼にとっての「お祖母ちゃん」はいるわけだが、最近は「お母さんのお母さんにも会いたかった」と言うこともある。

祖父母に関しては、僕もいずれそういう時が来るだろうとは思っていたが、「弟が欲しい」ということには、親として、とても申し訳ない気持ちになった。

僕たちの子供は、妻が流産と早産をしかけて、出産までに計3度の入退院を繰り返しながら生まれてきたことや、現在の妻の年齢、また、僕が、経済的に極めて不安定な人生を送っていることを考えると、彼の望みを叶えてやるには、あまりにリスクが大き過ぎる。

そもそも僕は、とても我侭な人間であり、子供のために自分がやりたい仕事を犠牲にすることができないと自覚していたので、40才を過ぎるまで、子供をもうけることをしなかったわけで、そう考えると、今さら「申し訳ない」というのは、虫が良すぎる話である。

むしろ、僕も妻も決して若くはない年齢になってから、望むと同時にすぐに彼を授かったわけで、そのことに感謝をしなければと思う。

でも、僕らの子供は、自分の意思ではなく、親の意思で生まれてきたわけであり、そういう意味では、僕たち親の都合で人生を左右されているわけであり、当然のことながら、親には大きな責任がある。

一方、計3度の入退院を潜り抜けてこの世に生まれてきたことを考えると、僕たちの子供に、その「意思(生命力)」があったのだとも思っている。

いずれにしても、僕たち夫婦にとって、物と言っては失礼だが、彼は、間違いなく「宝物」であり、何物にも替え難い存在である。

話は変わるが、「マザー・テレサ」は、こんなことを言っていたそうである。

「世界平和のために何ができるかですって?家へ帰って、あなたの家族を愛しなさい」。

自分の家族を愛せない人が、世界平和を実現できるわけはなく、すべての人が自分の家族を愛することができれば、他人の家族の大切さも分かるだろうし、平和へ近づいていくに違いない。

ドリームビジョンの企業理念である、「挑戦する人」を創出し、広く社会に「勇気と自信と感動」をもたらす「新しい社会的価値」を創造したいなら、まずは、「自分にできる挑戦」を続けていくことと、「無私」の境地に立ち、数多ある「社会のために役立つこと」の中で、自分に「できること」「やり続けられること」を見つけ、「愚直に」取り組んでいくことが必要だろう。

「育児」は「育自」というらしいが、子供を授かったことで、我侭な僕が、少しずつでも成長できているとしたら、それこそ、彼に感謝である。

追伸:明日は、子供の脳の発達が専門のお医者さんに聞いた、何故、ビジョン(イメージ)を持つことが大切か?という話を書いてみようと思う。