僕は、取り立てて「忌野清志郎」の大ファンだったというわけではないが、中学・高校、そして、大学1年までバンドをやっていたこともあり、彼は気になる存在だった。
そして、その存在感は独特だった。
僕のまわりの人たちの何人かも、彼の死を悼むエントリーを書いており、改めて彼の影響力を実感した。
では、彼の「独特の存在感」とは、何だったのだろうか?
言葉で表現することは難しいが、ひと言で言うなら、世の中に「媚びない」生き方にあったように思う。
そして、パラドックスであるが、そんな彼の生き方故、多くの人々が彼に憧れ、メディアも彼を追いかけたのだろう。
昨日の日経夕刊で、音楽評論家の渋谷陽一氏が、「忌野清志郎」という人間を、こんなふうに語っていた。
「僕は彼と雑誌、テレビ、ラジオなど、いろいろなメディアで仕事をしたが、彼から内容についての注文を受けたことが殆どない。
どんな条件でも、それは仕事なのだからという姿勢で彼は取り組み、ベストを尽くした。
そこで、アーティスト風を吹かせることはなかった。
誰より戦う姿勢を貫いた清志郎は、誰より柔軟な姿勢を持つロック・エンターテイナーだった。
そして、そんなアーティストは、彼以外は殆ど存在しなかった」。
「忌野清志郎」という人間を、とてもよく捉えていると思った。
考えてみると、僕の好きな人は皆、そのタイプは違えど、「忌野清志郎」的な「孤高」の人だ。
他人から嫌われるのを恐れて誰からも受け入れられる「消耗品」になるか?
それとも、他人から嫌われるのを受け入れて「孤高の人」になるか?
人の心に強烈な何かを残す人というのは、そういうことなのだろう。
いくつの時の写真かは知らないが、「忌野清志郎」はカッコいいオジサンだった。
「清志郎」に、感謝。
追伸:彼は、ご家族をも、とても愛したそうだ。「ロック(反逆精神)」と「家族愛」は矛盾しない。むしろ、両立する。