「ご近所」の友達。

生憎の空模様だった日曜日、子供の「保育園つながりの友達」の家へ遊びに行った。

集まったのは、我々を入れて計4家族。さながら小さな保育園状態で、とても賑やかな日曜日になった。

僕は東京に住み始めて、かれこれ30年近くなるが、子供が生まれ、そして、保育園に入るまで、まさか、こうして「近所の友達」ができるとは想像もしていなかった。

「近所の友達」とは、子供たち同士のことだけでなく、我々大人たちのことも含めて。

昔の人は「子は鎹(かすがい)」と言ったらしいが、まさしく、子供たちのお陰で、親同士が知り合いになり、こうして、お互いの自宅を行き来する「友人」関係に発展していっており、子供という存在は、本当に凄い可能性を秘めている。

最寄り駅が同じで、家が近所なので、ひょっとしたらすれ違っていたのかもしれないが、子供が生まれなかったら、間違いなく、こうして知り合うことはなかった人達である。

ところで、子供の話とは直接は関係ないことのように思えるかもしれないが、最近の政治を見ていると、彼らの人生を考えていないのではないか?と思えることが多い。

昨年9月のリーマン・ショック以降、世界的な金融・経済危機の広がりにより、各国は「財政出動」による危機対策に動き始めたが、それは、一時的には仕方ないとしても、問題の根本的な解決にはならない。

巨額の財政赤字だけならず、世界一のスピードで進む「少子高齢化」問題を抱える日本において、将来への「ツケ」は、大きなリスクを孕んでいると言わざるを得ない。

僕らが「飲み食い」した「ツケ」を払うのは、僕らの子供たちである。

「受益者負担」が原則のはずが、とんでもない話である。

不勉強な僕が、浅はかな考えでこういうことを書くのは、自分の無知を曝け出すことに等しいかもしれないが、日本社会における「税収」は、本当に不足しているのだろうか?

殆どクルマの通らない高速道路の建設費や維持費、何をしているのか分からない特殊法人の維持コスト等、不必要な支出を見直すことにより、かなりの「財源」ができるのではないか?と思う。

また、日本が今、世界第2位の経済大国であるのは、先人の方々の努力の賜物であるのは議論の余地がないが、「高齢者医療」等も、見直しは避けられないように思う。

例えば、首の治療のために3週間前から通い始めた「整形外科」の患者の殆どは、いわゆる「高齢者」の方々である。

「関節の痛み」があったり、歩くのに不自由をしているのかもしれないが、身なりを拝見している限りでは、生活に余裕のある方々のように見受けられる。

共働きの両親のもとで育った僕は、実質的には「祖父母」に育てられたこともあり、お年寄りの方々が住みやすい国であって欲しいと思うが、高齢者と言っても、その経済状況は、人それぞれであり、収入のレベルにより、医療費の負担割合が異なるのは、仕方ないように思う

また、数週間前のエントリーで、保育園を運営するためにかかる「おカネ」のことを書いたが、それは「コスト」ではなく、将来への「投資」であると、僕は思う。

問題は、何におカネが使われていて、何は有効で、何は無駄なのか?どうすれば、低コスト体質の国に「再構築」できるのか?ということである。

今朝の日経新聞一面の「責任ある改革」競えという見出しの論説のとおり、「選挙を前に与野党は目先の危機対応だけでなく、日本の置かれた現状を正直に国民に語り、責任ある改革の見取り図づくりを競うべきだ」と思う。

こうして、僕がブログを書いている瞬間も、僕たちの子供と彼の友達は、保育園で友達と遊び、けんかをし、彼らの人生を歩んでいる。

彼らの将来に責任を持てる生き方をしていきたいと思う。

追伸:あるものを探すために妻のPCのまわりを見たところ、僕らの子供と彼の仲良しの友達、そして、僕の妻と保育園の先生が映っている写真があった。そういう日常こそ、大切だと思うようになった。