「今年の抱負」と「今までの10年」と「これからの10年」。

今日から仕事始めだった人も多いはず。

僕は仕事始めとはちょっと違うけど、静かに2010年のスタートを切った。

まず、僕たちの子供は今日から新しい保育園に行った。転校ならぬ「転園」である。

昨年末までお世話になった保育園は「私立」の「東京都認証保育園」。今年からお世話になることになった保育園は渋谷区の「認可保育園」つまり「公立」。

「私立」と「公立」の違いがよく分かった初日だったが、我が子も、まずます順調にスタートした。

次は、僕の話。

遅ればせながら、iPhoneを購入した。3GS/32G/Black

セッティングを始めると、2006年に6年ぶりにマック(MacBook Pro)を買った時と同じ興奮が蘇った。やはり、Apple はイケている!!

自宅のMacBook ProとUSBで接続(iTunes経由)するだけで、Webもメールもアドレス帳もカレンダーもすべて同期され、完璧!!

マニュアルを読むのが嫌いな僕は、アルファベットの大文字と小文字の入力方法をまだ理解出来ていないのが難点だが、それは明日の宿題。

さて、エントリーのタイトルどおり、今日は「今年の抱負」を書こう

・・・が、その前に、一昨年末から昨年末にかけてを振り返ろうと思う。

僕は芸能人でも上場企業の経営者でもないし、自分自身の人生を「公」にする責任も義務も追っていないが、僕の「信条(CREED)」として、明確にしておきたいことがある。

特に、2008年10月以前から僕のブログを読んで下さっている方々に対して・・・。

ドリームビジョンのウェブサイトでも告知しているし、12月30日のエントリーでも触れておいたのでご存知の方もいるかと思うが、僕(弊社)は、オフィシャルには2009年8月末を以て、事実上は2008年12月末日を以て、人材紹介業から撤退した。

僕がドリームビジョンを創業した理由は、僕の人生にとって「終っていない宿題(Unfinished Business)」が、2つあったからだ。

そのひとつは「個性を尊重し、リスクを取って既得権益に挑戦する人材を輩出する仕組みを構築する」ことだったが、事業計画(Feasibility Study)を進めて行くうちに、僕の構想を実現するには「億単位の資金(インタースコープの2連発)」が必要だということと、自分の手には余る(実力不足)ことを認識したことにより、自分の想いは維持しつつも、その構想はお蔵入りさせ、先行投資が少なくて済むビジネスに取り組むことにした。

それが「ベンチャー企業に特化した人材紹介業」だったが、当然のことながら、ニッチな領域とは言え、その道にはその道のプロ(先行企業)がいるわけで、そうそうビジネスはさせてもらえず、紆余曲折の末、アクセンチュアやアビームコンサルティング等のI.T.系コンサルティングファームを顧客とするようになった。

最初は苦戦したが、当時のスタッフの奮闘により、それなりの売上が立つようになった(単月黒字は出るようになった)が、通期ではまだまだ赤字であり、僕のおカネを補填しならが会社の経営を行っていた。

ところで、ドリームビジョンは僕がマジョリティの株主であるが、僕の「ビジョン」に賭けてくれた「大切な株主(友人知人)」がいる。

四半期毎にレポートを送付し、半期毎に株主報告会を行っていたが、聡明な株主の皆さんからは「方向転換するなら、余力があるうちの方がいい。追いつめられてからでは、何も出来ない」という、とても理解のある、有り難い進言を頂いていた。

しかし、お恥ずかしい話だが、当時の僕には、人材紹介業から撤退したとして、その後、どのような事業展開をすればよいか?経営者として、道筋を描けなかった。

半年か一年、苦悩の日々を送っていたが、このままでは、どう考えても「明るい未来は来ない」と確信し、2008年6月初旬、断腸の想いで、僕は人材紹介業から撤退することを決断した。

そこまでは良かったが、最悪だったのは、その後、何のノウハウも経験もないにも関わらず、オンラインメディアを始めたことだ。経営者として、冷静な判断ができていなかった。

また、そのプロセスにおいて、当然のことながら、僕に対する求心力は急速に衰え、僕は苦悩の末、組織を解散することを選択した。

そのまま続けていけば、資金はすべて枯渇し、どうにもならなくなるのは火を見るよりも明らかだった。

何よりも最悪だったのは、当時のメンバー(取締役および正社員・パート社員)との結末である。

僕としては出来る限りのことをしたつもりだが、当然のことながら、彼・彼女たちにしてみれば裏切られたという想いが募り、関係は拗れに拗れ、悲惨な顛末となった。

そんな状況にあっても、株主の方々は、最後まで僕を支援してくれた。

彼らの存在のお陰で、僕は、辛うじて、会社を立て直そうという気持ちを保持することができた。

しかし、現実は、甘くない。

大きく毀損した「株主価値」を元に戻し、キャピタルゲインなり配当なりを出し、株主の方々の期待に応えるためには、新たな事業を興していく必要があるのは言うまでもないが、僕は一時期、「何もやりたいことがなかった」。

これは本当に辛かった。

昔の仲間から声をかけてもらい、昔取った杵柄と得意な英語を活かし、BRICsの一角としてのロシアでのリサーチ事業を手掛けようと試みた時期もあったが、僕が身体ごとロシアに行くのであれば話は別として、さすがにそこまでの覚悟はなく、彼らの好意には申し訳ないが、冷静に判断し、ロシアからは手を退くことにした。

因みに、インタースコープの名前はロシアの広告・リサーチ関連業界でもそこそこ通っていたらしく、ある外資系広告代理店を訪れた際、彼らは僕のことを知っていた。

そんなこともあり、ロシア第2の都市、サンクトペテルブルクで開催されるロシア最大の広告/PR関連のカンファレンスで「初めての日本人」として講演をして欲しいという招待状を頂戴したが、丁重に辞退した。

そんなことで、僕の仕事は、投資先のベンチャー企業の支援や社外取締役・顧問だけとなった。

でも、結果的には、それが良かったのだと思う。

自分自身を見つめ直す時間ができ(というより、必然的にそうならざるを得なかった。残念ながら、それでも能天気でいられるほど、僕は精神的に図太くはない。)、僕は、とてもシンプルなことに気づく(思い出す)ことができた。

それは、僕にとって「起業」は「手段」であり、目的ではなかった、ということである。

それが、ある時から「起業家」でいることが「目的化」してしまっていた。

僕が社長をしたわけではないが、創業に参加したウェブクルーが東証マザーズに上場したり、上場は断念したが、インタースコープはYahoo!(日本法人)が買いたいと言ってくれる会社になり(売却し)、僕は自分自身を勘違いしてしまっていた。

随分と高額な授業料だったが、そのことに気がつけたのは、僕にとって大きな財産になったと思う。

そのお陰で気持ちが軽くなり、そうすると、不思議なもので、また、やりたいことが出てくるようになった。

僕は最初に創ったちっぽけな会社を経営していた頃、いつか、株主から委託される立場で会社を経営してみたいと思っていたが、それも実現でき、狭い世界ながらもインターネットリサーチ業界では(自画自賛で恐縮だが)誰しもが認めてくれる存在になり、貧乏だった懐具合も、多少は温かくなった(高い授業料のお陰で、また、だいぶ寒くなったが・・・)。

少々脱線するが、色々なことが絡み合っているものの、僕が「目的と手段」のことに気づいたのは、城繁幸氏の「若者はなぜ3年で辞めるのか?」という著作を読んだことが大きい。

最初の会社を経営している頃の僕は、城繁幸氏流に言えば「人生の勝ちパターン(レール)に乗ることができた一部上場企業に勤める彼ら」に勝るとは言わないまでも劣るとは思えないにも関わらず、社会から受けていた「対応と待遇」に納得がいかず、だったら、実力で這い上がるしかない!!と思っていた。

つまり、「看板と既得権益」に頼らず、自分の力で、人生を実り多いものにするための「カネ」を稼ぐことと、自分の存在を「社会に認めさせてやる」ということが、僕にとっての「目的」であり、その手段が「ネットビジネス」だったことを思い出した。

幸運にも、それらはある程度、達成できた。でも、それが、ドリームビジョンとしての失敗を招いた。

さて、だいぶ前置きが長くなったが、これからの僕が何をしたいと思っているか?

「海外で生活する(仕事をする)」ことを実現したいと思っている。

実は「日本社会の先行き」に対する僕の考え方と、それに伴う「子供の教育」とも絡んでいたりする。

また、何だかんだ言って、自分がやりたいと思ったことは実現してきたが、それだけ(でもないが)が「終っていない宿題(Unfinished Business)」だったことと、実は、幼少の頃から、そのことに憧れていたことを思い出した。

ビジネスの内容は現在思案中であり、まだ株主にも話をしていないので具体的な話を書くことはできないが、何もやりたいことがなく辛かった時期に暇に任せて読んだドラッガー曰く、「新しい道具の使い方を学ぶより、古い道具をより上手に使えるように努力をした方がよい」ということで、僕という人間のトラックレコードを振り返り、順番とウエイトは別として、マーケティング、インターネット、資金調達、エンジェル投資(茶髪の中年男性/先日の日経新聞)、英語、そして、それらと「海外」というキーワードを組み合わせたことを手掛けていこうと思っている。

もうひとつ考えたいと思っているのは、年末に久しぶりに山川さんと会った時にアドバイスされた「中小企業」という存在。

あとは、やはり僕は「若い人を応援すること(人材育成)」が好きだということ。

これは幸いにも、某ビジネススクールからお声がけを頂いており、来年度(今年4月)から、また、教壇に立つことになっている。

ところで、僕がなぜ、このエントリーを書くのを今日にしたかということを書いておきたい。

それは、アスキー創業者の西さんから「絶対に迷わない時が来る」ということを教わったからだ。

自分自身が何の迷いも躊躇いもなく、自信を持ってこのエントリーを書けるようになるまでは書くべきではないと思っていた。

同時に、迷ったらやってはいけないし、既に何かをやっていたら「一秒後に撤退すべき」ということも教わった。

そういう意味では、人材紹介業からの撤退は、遅きに失した極みである。

それからもうひとつ、僕はインタースコープを経営していた頃、2つ、強く思い、言動に表していたことがある。

それは、創業者である自分自身も含めて、誰一人として、一生、インタースコープで働く人はいないと思っていたが、縁あってインタースコープで働いてくれていた彼・彼女たちには、その時間の長短は別として、後で振り返った時、インタースコープで働いて良かったと思えるようにするために、僕に出来る限りのことをするということと、僕(&僕ら)に賭けて、投資してくれた株主の期待に応えたい、ということである。

ドリームビジョンでは、大変遺憾ながら、前者は申し上げるまでもなく、後者も、少なくとも現時点では何も申し上げられる状況にない。

でも僕は、その思いには拘っていきたいと思っている。

最後にもうひとつ、マネックスの松本さんのブログや堀江さんのつぶやきで、「時間」と「年齢」に関する言及があった。

彼らと僕を同列で語っては大変申し訳ないが、その気持ちは、よく分かる。

僕が初めて起業したのは28才の時。ウェブクルーの創業に参加したのは34才の時。山川さんとインタースコープを創業したのは36才の時。

現在の僕は、46才。

「集中力」も「体力」も「残された時間」も違うので同じようなプレーはできないが、ひと通り18ホールを回ってきているし、スイング理論も学んできたので、今までの僕には出来なかったプレーができると思っている。

35才になった時、50才を意識したけれど、46才の今は、56才を考えたい。

その後は、また、別な人生を送りたいから・・・。

今年は、その「Redesign(再設計)~次の10年~」の具体的な一歩を踏み出す年にしたい。

本気でね!!