「大人げない大人」になるには、「勇気と覚悟」が必要だ。

土曜日は「大阪」、日曜日は「東京」で、社団法人関東ニュービジネス協議会とドリームゲート(株式会社プロジェクトニッポン)の共催による「DREAM GATE グランプリ」の「2次選考(プレゼン審査)」があった。

昨年から選考委員の仕事をさせていただいているが、ある意味で、人の「生き方」に関わる仕事であり、昨日は改めて、その責任の重大さを感じた。

書類選考では伝わってこない、人間の「生き方」がプレゼンテーションから伝わってくる。

年齢を言い訳にはしたくないが、土曜日は大阪での選考終了後、お好み焼きを食べながら「日本経済」に関する熱い議論をし、新幹線の中でその続編を行い、昨日は十数人のプレゼンを拝聴した後、うどんすきを食べながらの議論で、毎回の議論にはアルコールが入っており、松谷さんの肝臓の足元にも及ばないそれしか持っていない僕は、さすがに今日は疲労感が残っていた。

一方、今年から新しい保育園になった我が子は土曜日はお休みとなり、僕のいない週末を、ひとりで彼の面倒を看て過ごすのは大変ということで、妻は、以前の保育園繋がりの友達家族と過ごしていた。

ところで、もう4年半も前のことになるが、子供が生まれて、本当の意味での「人生が始まった・・・」と思ったというエントリーを書いたような気がするが、最近はよりいっそう、そう思う。

ひと頃の僕は、旧友を除けば、交友関係の殆どは仕事の上の付き合いで、ネットビジネスを始めてからは、ネットベンチャーの経営者との交流が大半を占めていた。

でも、子供が生まれてから、正確に言えば、3才ぐらいになってから、彼の交友関係のお父さん、お母さん達との付き合いが、僕の日常の人間関係の多くを占めるようになった。

これは「とても静かで緩やか」ではあるが、僕の人生に、とてもとても大きな影響をもたらしているように思う。

それはある意味で仕方のないことではあったと思うが、以前の僕は、ベンチャーキャピタルから資金を調達し上場を目指していたため、上場しているのなら「時価総額」が大きいこと、未上場よりは「上場」していること、未上場のベンチャーなら売上や利益、あるいは会社の規模(人数)、はたまた、どこのVCからいくら資金を調達しているか等、定量的というか「外形基準」で物事を判断しており、その尺度に当てはめて自分の価値を判断していたところがあった。

自分だけならまだしも、他人(他のベンチャー企業の創業経営者)を判断する際にも、同様な基準で考えるところがあった。

それは確かに、ひとつの判断基準にはなるのは間違いない。

ゴルフで言えば、スコアは少ない方がいい。

でも、「タイガーウッズ」と「アイルトンセナ」、「スティーブジョブス」と「マイケルジャクソン」をどうやって評価するのか?

以前の僕は間違いなく、「ベンチャー原理主義」なり「IPO原理主義」なりに囚われていた。

でも、世の中は「多元的」である。

とてもお恥ずかしい話だが、子供が生まれて保育園に通う(あずける)ようになって、仕事上の接点ではなく「子育て」という接点で知り合った人達との交流を通じて、ようやく、自分を支配していた「ドグマ」から自分を解放することができた。

そういう意味では、子供を育てながら働く女性の方が、視野が広いのは自明の理かもしれない。

さて、話をドリームゲートに戻すと、主催者の松谷さんが、選考委員を務める僕と影山さん宛に、「経済合理性」も「必然性」もないにも関わらず、グランプリの選考委員の仕事を快諾してくれていることに、心から感謝をしています、という趣旨のメールをくれた。

たしかに高額な収入でもなく、貴重な週末を潰しての仕事なのは事実だが(極めて地味な仕事である)、僕がこの仕事をしている理由は経済合理性ではなく、「価値観合理性」である。

そして、松谷さんや榎本さん(社員の方)と一緒に仕事をすることで、自分ひとりでは実現できないことを実現できるわけであり、その意味では「必然性」があるのである。

余談だが、ドラッガーは「経済は妥協できるが、価値観は妥協できない。半分のパンはパンだが、半分の子供は死体である」と言っている。

つまり、価値観を「共有」できない人とは、仕事はできないし、上手くいかない、ということである。

但し、ここで重要なことは、日々の生活に窮していたとしたら、いくら価値観的に共感できたとしても、その仕事を引き受けることはできず、稼ぎの良い仕事を取る必要(必然性)がある、ということである。

つまり、

・個人のレベルで見れば、仕事は「パン」だけのためではないが、パンは必要である。
・社会全体で見れば、何のために「経済成長」が必要なのか?

ということなのだろう。

日々の生活の糧を稼ぐことを除いて、僕は何のために仕事をしているのか?
何を基準として仕事を選んでいるのか?

そのことを将来、自分の子供にきちんと語れる「生き方」をしていきたいと思う。

そして、ALBERTの上村が数日の前のTwitterでつぶやいてた、「あなたにとっての”大きな石”はなんですか?」という問いを忘れずにいたい。

話は変わるが、僕の自作の「座右の銘(3点セット)」のひとつに「人生は短い」というものがあるが、最近は「まだまだ長い」と思うようになった。

僕たちの子供が「20才」になる時、僕は「62才」。「30才」の時、「72才」。

今までの人生とは異なる楽しみがあると思う。

そして、年齢的には「高齢者」になってしまうが、カッコいい親父でいたいと強く思う。

ところで、ウノウの山田さんのブログで、そのタイトル故に気になっていた、元マイクロソフト日本法人社長の成毛さんが書いた「大人げない大人になれ!」という本に関する書評(感想)を読んだ。

僕が思い出したのは「優等生な人生」は送りたくない、ということだ。

でも、「大人げない大人」として人生を歩んでいくには、それ相応の「勇気と覚悟」が必要である。

そのことも再認識した。

その「心」は、また今度。