「授業妨害」。

さて、ここのところ、僕の実体験をもとに、教育のあり方に関する「批判」めいたことを書いてきたが、今日は僕が受けた「ポジティブな影響」の話をしようと思う。

「誰が担任だったか?」ということが非常に重要だという話を書いたが、僕が中学2&3年の時の担任の先生は、とても素晴らしい方だった。

タイプは異なるが「金八先生」のような人で、僕たちのクラスは学年で最も「求心力」があった。

「遠藤和男」というその方は美術の先生で、そのことも影響していたのか、生徒を型にはめるということは一切なく、それぞれの「個性」に目を向けて接してくれた。

その遠藤先生のお陰で、僕の中学生活は、とても楽しい時間だった。

ところで、こうしていざ、遠藤先生のことを書き始めてみると、とても素晴らしかったということ以外、具体的なエピソードでブログに書いておもしろいと思えるものがないことに気がついた。

性格にも依るのだろうが、人間は楽しかったことは忘れてしまい、心に傷を負ったことは憶えているのだろう。

「心に傷」ということで言うと、僕が高校受験に失敗した話は何度も書いてきたが、その翌年、再受験の2週間前に、母親が亡くなった。

その時、遠藤先生が僕の自宅に弔問に訪れ、母の遺体の前に座って、泣き崩れるように僕の受験合格を祈ってくれたことを今でもよく憶えている。

それだけ、生徒の人生を自分のこととして受け止め、真剣に対応してくれていた方だった。

中学時代の僕はどんな生徒だったかというと、勉強はそこそこできて学級委員長をし、尚かつ、いわゆる不良少年達と付き合ってタバコは吸うは家出はするはと、フツーの先生にとっては、手に負えない厄介な存在だった。

ある時、ある科目の先生で、授業が退屈というか、1年生の時に教わっていたその科目の先生と較べると、教え方自体も人間的魅力も、どうしても劣ると感じてしまう先生がいて、僕は半ば「授業妨害」のような態度を取っていた。

その先生が職員室で「4組(僕たちのクラス)の授業はしたくない」とこぼしていたらしく、その原因が僕にあり、遠藤先生が「なぜ、そういうことをするんだ?」と訊いてきたので、正直にその理由を話たところ、そのことには理解を示した上で、「でもな、一生懸命に勉強しようとしている他の友達に迷惑じゃないか?」と言って、僕を諭してくれたことがあった。

遠藤先生にそう指摘されて、僕は自分のしていることの意味に気づき、それ以降、授業妨害のような態度は取らなくなった。

何事も決して頭ごなしに怒るということはなく、生徒との対話を誰よりも大切にする方だった。

でも、今にして思うと、他の先生達からは相当に煙たがられていただろうし、職員室ではきっと「居心地が悪かった」のではないかと思う。

教師としては間違いなく、「異端」だった。

小学校はそうでもなかったが、僕にとって高校は最悪で、でも、中学時代の楽しい想い出があったお陰で、何とかやってこれたように思う。

親や教師に限らず、その人の一生を左右するほどの影響力を持つ人がいる。

人間は「環境の動物」である。

「人間関係」構築力。

「官製不況」なる言葉があるが、「普天間基地」問題に対する鳩山首相のはっきりしない対応により、米国(オバマ大統領)との間に生じた不協和音は、はたしてどのような結末を迎えるのか?

ところで、「落ちこぼれ」シリーズの続きとして「学生時代」のことを書こうと思いつつ、師走の慌ただしさで時間が取れずにいたが、僕にとっての大学生活は、ある意味で「失われた4年間(高校時代も入れれば7年間)」だったこともあり、何を書こうか?書くことで何を消化しようか?(そもそも消化することがあるのか?)をはっきりさせることができなかったことも、書けなかった理由である。

大学生活が僕にとって「失われた4年間」だった理由は、「目的意識の欠如」と「将来展望」を描けなかったことにあったと思う。

高校生活では、「追試の連続」で学業が嫌になった話や「中学浪人」をしたことによる「年齢差」がクラスメートとの距離を作っていたことは以前のエントリーで書いたとおりだが、大学生活では、不本意な大学に行ったということと、周囲の学生と話が合わなかったことにより、またしても「自分の居場所」がなかった。

しかし、どんな環境にあっても、自分のアイデンティティをしっかりと持ってさえすれば、明確な目的意識と将来展望を持てるはずであり、現実から逃げていたのだと思う。

ただ、別の視点で大学生活を振り返ると、バイト先で知り合った仲間や、以前のエントリーで書いたH2Oの赤塩正樹氏との交流、そして、独学での英語の勉強とカナダ人が経営していた六本木の「不良外人バー」で知り合った外国人の友人達との付き合いは、今の僕の構成要素となっており、充実した時間でもあった。

また、当時付き合っていた彼女は、僕の大学生活の大きなウエイトを占めていた。

話は変わるが、数週間ほど前、インタースコープ共同創業者の山川さんとメールのやり取りをした時に、彼から見た僕の「強み」と「弱み」を、忌憚なく3つずつ挙げてくれとリクエストしたところ、以下のような返事がきた。

★強み:
1. コミュニケーション能力。人の話を聞く力、概念を捉え整理する力、人に伝える力。
2. プレゼン能力。特に英語のほうがよりその能力が発揮される。
3. 人間関係構築力←人間的温かさ、誠実さによるものが多い。ただし継続するかはまた別。

★弱み:
1. 実現力、実行力、具体的な落とし込み力。
2. 継続力、一貫力、
3. 情緒的、精神力。

山川さんは、「『ドラッカーの7つの窓』ではありませんが、一人の人をいくつかの窓から見ているに過ぎないので、あまり納得性はないかもしれません」とコメントをつけていたが、上記はいずれも「ピンそば30センチ」という内容である。

また、「僕にないところが強みと僕が思うところの様な気がしますし、強みは弱みの裏腹だったりしますしね」ともあり、一時期は「最悪の関係」だったこともあったが、改めて考えると、ドラッガーの言う「弱みを無意味なものにする」関係であり、インタースコープの成功は、間違いなく、そのような組み合わせがあったからこそだったと言える。

さて、話を僕の学生生活に戻すと、あの「失われた4年間」で僕が得たものは、大学でのそれは別として、「人間関係」構築力だったのかもしれない。

因みに、あの頃に築いた「人間関係」は、今も続いている。

大切なことは、自分の「居場所」と思える「コミュニティ」を築けるかどうか?なのだろう。

「果実」はどこにある?

「落ちこぼれ」シリーズの前回のエントリーで「次回は学生時代のエピソードを書こうと思う」と書いたが、その前に、僕が24歳の時(22年前)に亡くなった父のことを書こうと思う。

父は、昭和6年4月27日生まれ。生きていれば、78歳である。

父には、色々なことを教わった。

病床にあり、自分には、もうあまり時間がないと悟ったある日、子供たち3人をベッドの足元に並べて、ひとりずつ、最後の説教をした。

3人兄弟で最も出来の悪い僕には、こんな話をしてくれた。

「オレが生きていれば、お前が結婚する時には、マンションの頭金ぐらいは出してやれる。事業をする時には、資本金ぐらいは出してやれる。でも、これからは、そういう援助は一切無いと思って生きて行け。それがどういう意味か分かるか?お前の友達が一万円使う時、お前は『5,000円』しか使えないぞ。もし、友達と同じだけおカネを使いたいなら、友達の『倍』のおカネを稼ぐ必要がある。そのことを、よく憶えて生きて行け」。

事実として、僕が社会に出て、周囲のみんなが結婚し始めた時、彼らは結婚と同時に「新築マンション」に引っ越していった。

僕はその時、初めて、父親の言ったことの意味を理解した。

そして、僕が、他人が創った組織では生きていけないことを見抜いていたのだろう。

28歳で起業した時、そのことに気がついた。

また、父はこんな話もしてくれた。

具体的な職業は伏せるが、父は「お前が○○で満足できるなら、何も言わない。でも、それでは満足できないなら、勉強しろ」と言っていた。

教育というものは、20年、30年という時間が経って初めて、その意味が相手に伝わる仕事である。

つまり、「自分ではその成果を見届けられない=自分に果実はもたらされない」ことを覚悟しなければいけない、ということだ。

それだけの覚悟で仕事に望んでいる教職者が、どれだけいるだろうか?

僕が子供の頃は、そういう教師がたくさんいた。

幸せな時代だった。

でも、子供を持つ親として、過去形で済ませておくわけにはいかない。

「下北沢」へ引っ越した。

昨日のエントリーで書いたシリコンバレーに住む友人は、いつもどおり、自信に満ちあふれていたが、人生に対する考え方は、一年半前に会った時とは異なっていた。

2008年の夏に会った時は「60歳を過ぎても現役で仕事をしていると思う」と言っていたが、昨日は「60歳になったら、さすがに子供と遊びたいですよ」と言ってた。

何が彼の考えを変えさせたのかは聞かなかったが、子供がもうひとり生まれたことで、親として、あるいは、家族という存在の大切さを、よりいっそう実感するようになったのかもしれない。

シリコンバレーでは、若くして引退し、その後は、地域のボランティアをしたり、自分の趣味に打ち込んだり、あるいは、ジムロジャースのように世界を旅行して回ったりと、第2の人生を歩む人が多いと聞く。

そのためには、50歳までに「引退」できるだけの資産を築く必要があり、それが、彼らをモーレツに働かさせる動機になっているのだろう。

その一方、おカネはそれほど稼げなくとも、ボランティアに打ち込んだり、NPOで働いたりしている人もいて、「多様性」に富んでいるという。

一流大学を出て一流企業に入り、という、どこかの国にあるようなステレオタイプな価値観はない。

僕が学生の頃、初めてニューヨークを訪ねた時、その「エネルギー」と「多様性」と「自由さ」に驚きを感じたのと同じことなのだと思う。

さて、ここから先は「落ちこぼれ」シリーズの続き。

受かる見込みもない大学を含���て「計6校」を受験し、何とか「三流大学」に潜り込んだ僕は、神奈川県伊勢原市の「片田舎」で学生生活を始めた。

念願?の東京に出て来たつもりが、僕が入学した東海大学(関係者の皆様、三流大学と言って申し訳ありません)のキャンパスは「神奈川県秦野市」にあり、新宿から小田急線の急行に乗って、約60分ほどのところにあった。

通学の時間やアパートの家賃を考えて都内は諦めたとしても、何とか向ケ丘遊園辺りに住みたいと思っていたが、父親を説得できず、大学の最寄り駅の隣の駅から徒歩15分のところに住むことになった。

今では考えられない話だが、いわゆる「賄い付き(下宿)」のアパートである。

この生活が、僕は嫌で嫌で仕方がなかった。

自分でおカネを出せば文句はないだろうということで、僕はアルバイトでおカネを貯めて、当時付き合っていた彼女が住んでいた「下北沢(世田谷区)」へ引っ越した。

厳密に言うと、下北沢のひとつ隣の駅(世田谷代田)から徒歩1分のところだった。人気のある下北沢は家賃が高く、手が出なかった・・・。

因みに、風呂無しのアパートで、家賃は「37,000円」だった。

ところで、僕には、ふたつ年下の弟がいるが、彼がその翌年(僕が高校中退で一年ダブっているので)、大学入学で上京した。

成績優秀な彼はストレートで慶応大学法学部に合格し、大田区の北千束というあたりに住むことになった。

これまた、父親の主張で「賄い付き」だった。

僕とは違う理由で、彼も「その下宿」が嫌で嫌で仕方なかった。

そこで僕たちは、アルバイトでおカネを貯めて、ふたりで「下北沢」に住もうということになった。

慶応は、1~2年生は「日吉(東横線)」だが、3年生から「三田(港区)」になり、小田急線と井の頭線の交差する下北沢は、彼にとっても僕にとっても、便利な場所だった。

今でこそオシャレなお店がたくさん立ち並ぶ街になったが、僕たちが住み始めた頃の下北沢は、アングラ系(サブカルチャー系)の劇団やミュージシャンが多く住んでいることで有名で、今のような雰囲気の街ではなかった。

僕は下北沢がとても気に入り、約7年間、住んでいた。

その間に、当時、「H2O」というデュオを組んでいた赤塩正樹氏と知り合ったり、僕がニューヨークフリークになるきっかけとなったアメリカ人の友人と知り合ったりと、僕の人生に大きな影響を及ぼした。

赤塩氏には、僕らの結婚式の「立会人」になってもらったり、アメリカ人の友人の実家(ニューヨーク郊外)に泊まりに行ったり、また、彼と彼の友人に僕の実家に泊まりに来てもらったりした。

自分の人生(卒業後の進路)に対する不安もあったが、こうして、改めて書いてみると、とても楽しい時間を過ごしていたと思う。

次回のエントリーでは、そんな学生生活でのエピソードを書きたいと思う。

「親父の背中」と「放蕩息子」。

よく晴れた勤労感謝の日。僕たち家族は、久しぶりに「砧公園」に出掛けた。

おそらくこれが今年最後の「公園日和」になると判断したのか、初夏の頃と同じぐらい、たくさんの人が集っていた。

因みに、我が子は「新宿御苑」を主張したが、子供の「脳の発達」には、アップダウンのあるところを歩かせるのが効果的ということで、何とか彼を説得し、アスレチック施設や犬の散歩道があり、起伏に富む「砧公園」に連れ出した。

「侍戦隊シンケンジャー」に夢中の彼は、公園に着くと、まず最初に「長い棒(枯れ枝)」を探す。「剣」に見立てて、遊ぶためだ。

お目当ての「長い棒」を見つけてご機嫌の彼の手を取り、公園を一周した後は、ビニールシートを広げてランチを食べた。

食事が終わると、シンケンジャーになりきり、戦いごっこを挑んでくる。

彼の期待に応えようと頑張って遊んでいたのはよかったのだが、公園を出て、駐車場に向かおうとしたところ、腰の違和感に気づいた。

何とも情けない話で、どうやら肉離れのような状態になったらしい。

渋谷で用事を済ませて帰宅した後、こういう時にお世話になっているスポーツマッサージ(針灸士)の先生のところに行き、応急処置をしていただいた。

「子育ては、若いうちの方がいい」ということをまたしても実感。

さて、今日は「高校生活」の続きを書こうと思う。

「学校権力?」に反発し、無料でコンサートを開催した後、僕は3年生になり、大学受験の準備に入った。

中学の頃から理数系の科目が苦手だった僕は、高校入学当初より国公立は諦めており、はなっから「私立文系」に決めていたが、好きだった英語もすでに授業についていけてなく、今さら勉強をしても、OSをインストールせずにアプリケーションをインストールするようなもので、成績は一向に上がらなかった。

「赤点」のオンパレードで、受験勉強どころか、卒業さえ覚束ないよう状況で、最後には、親権者と一緒に呼び出されて、こっぴどくお叱りを受けた。

学校としては、さすがに卒業させないわけにはいかないので、僕ら「落ちこぼれ」にレベルを合わせた「追試」を実施し、何とか「既成事実」として、単位を認定できる「点数」を取らせるということをしてくれた。

殆どの家庭では、そういう時は母親が付き添って学校に来ていたが、我が家は、父が子供の教育に熱心で、その時も、わざわざ仕事を休んで父が来てくれた。

たぶん、半ば諦めていたのだろう。「追試で出された問題が分からなかった時は、元素記号でも公式でも何でもいいから、自分が分かることを答案用紙に書いて来い」と、父は僕を叱るわけでもなく、僕の実力を踏まえたアドバイス?をしてくれた。

今にして思うと、何とも親不孝な子供だった。

さて、学校側の温情により、何とか卒業の目処が立った僕は、いよいよ「受験」のため、願書を取り寄せ、手続きを始めた。

受験に際しては、郡山から東京に行くわけで「宿」が必要である。

すべてホテルに泊まるのはお金がかかるので、詳細は省くが、中学浪人時代の親友が東京の高校に進学しており、彼のお姉さんと一緒に三田(港区)のマンションに住んでいたので、そこに泊めてもらったりした。

ホテルといえば、これまた「親不孝」な話だが、憶えていることがある。

僕は高校の頃から、夏休み等まとまった休みには、三田の友人を頼って東京に遊びにきており、都内の地理には詳しかった。

田舎の少年のくせに、田中康夫の「なんとなくクリスタル」全盛の六本木のディスコに出入りしていたりした。

そんな親不孝な少年は、受験で泊まるホテルの予約に際し、立地とホテルのグレードを重視した。

しかし、父親の予算を大きくオーバーしていたようで、結局は父が自分でホテルに電話をし、「とても良いお値段ですね。もっとエコノミーな部屋はありませんか?」と訊いていた。

こうして書いていて、改めて思うが、何とも情けない、親不孝この上ない息子だった。

因みに、僕は三人兄弟の長男だが、出来の悪い子供ほど可愛いということなのか、僕のことは、とても愛してくれていた。

というか、僕以外は、手がかからなかったのだろう。

若くして他界した父には、孫の顔を見せてあげられず、とても残念だが、そういう父の血を受け継いだ僕らの子供を立派に育てることが、僕の責任であり、父に対する恩返しだと思っている。

「偏差値」教育。

昨日は、保育園つながりのBBQパーティに出掛けた。

当初は今日の予定だったが、天気が下り坂という予報により、急遽、昨日に繰り上げになった。

僕たちが住んでいるエリアは、場所柄、外国人や国際結婚の家庭が多く、昨日、お招きいただいたお友達のご両親も、国際結婚のカップルである。

ご自宅には、BBQができる小さな庭があり、そこで、スペアリブやハンバーグ、鶏のもも肉、野菜などを、外国人のご主人が焼いてくれた。

彼は、日本に住み始めて11年半。日本語は上手だが、それでも「おしゃべり好き」なママ達の早口とスラングについていくのは難しい。

また、言葉の問題はなかったとしても、共通のテーマが無ければ、会話は成立しない。

そんなことで、庭でひとりBBQをしている彼のところにいき、彼がどういう経緯で日本に来たのか?また、どんな仕事をしているのか?等を聞いていた。

ところで、保育園の子供たちを通して「交流」が生まれたことで、ドラッガーの言う、現代社会には「新たなコミュニティ」が必要だという意味を、身を以て理解できた。

以前、例えば、日本がまだまだ農業社会だった頃は「地域のコミュニティ」というものが機能しており、向こう三軒両隣は勿論、地域の住民のことは、家族構成も職業も、そして、人となりも理解しており、冠婚葬祭に関しては、皆を招き合い、特に、不幸があった時には「隣組」なる組織で手伝っていたが、現代社会では、極々一部の地域を除き、そういったコミュニティは崩壊している。

しかし、人間は、生きていく上での「精神的な拠り所」として「コミュニティ」を必要としており、それは、同じ価値観や境遇でない限り成立しない。

平たく言えば「話が合う(価値観や生活様式が合う)」人たちの輪を、我々人間は求めている、ということだ。

高度経済成長期の日本においては、不文律の「終身雇用」と「年功序列賃金」により、職場がコミュニティの役割を果たしていた時期もあったようだが、今はそれは望むべくも無い。

ところで、だいぶ前置きが長くなったが、昨日のエントリー「落ちこぼれ」の続きを書きたいと思う。テーマも「落ちこぼれ」というものを追加した。

さて、念願叶って安積高校に入学したはいいものの、僕は学校にも学業にも馴染めず、いわゆる「落ちこぼれ」になっていった。

そんなことは最初から分かっていただろうと言われてしまいそうだが、一年浪人イコール義務教育でいえば一年下の人間と同学年になるわけで、儒教的価値観でいうところの「年齢(自分は一歳年上)」が邪魔して、どうしても、クラスメイトと仲良くなれなかった。

それはまだ良い方で、僕にとって最大の問題は、進学校=「偏差値がすべて」という教育方針にあった。

さらに言えば、それは安積高校に限ったことではなく、進学校に共通の価値観であり、日本の教育方針として「当たり前」のことだった。

冷静に考えれば、16歳の頭でも、事前に分かっていたリスクだったが、しかし、それに気づいていたとしても、当時の僕には、一度入った高校を中退し、もう一度、安積高校を受験すること以外の選択肢は、選べなかったと思う。

話は変わるが、僕は中学1年生で初めて「英語」の授業を受けた時、「世の中にこんなにおもしろいものがあったのか?」と思ったほど、英語が好きになった。

中学2年生までは、単語は予習も復習もせず、すべて一発で憶えたほど英語が得意だったし好きだったが、安積高校入学後は、「古文」の「先生」のお陰?で、その英語も含めて、勉強意欲を無くしてしまった。

最近の高校がどういうシステムになっているかは知らないが、当時は、模擬試験なるものがあり、福島県内では、僕が入学した安積高校と福島高校、いわき高校という3つの高校が「偏差値」のトップを争っていた。

僕らのクラスの「古文」を担当していた「橋本祐一郎」という先生は、偏差値の総合順位で他の2校に負けたとしても「古文・漢文」で負けることは許さないという方針?の持ち主で、成績の悪い生徒には「追試」、その追試も成績が悪いと「追追試」、それでも悪いと「追追追試」と、彼の設定するハードルをクリアするまで延々と「追試」が続くという、さながら「追試地獄」のような制度?があった。

何かひとつ嫌なことがあるとすべてが嫌になってしまう性格の僕は(イマチュアと言われてしまえば、それまでだが)、そのお陰で「勉強」のすべてが嫌になった。

それでも、その先生に、生徒への「愛情」が感じられれば僕の反応も違ったかもしれないが、彼は、自分の「プライド」のために、出来の悪い生徒に追試を課しているとしか思えなかった。

「愛情」という欠片も、僕には伝わって来なかった。

そんなことで、入学当時は、432人中、150番ぐらいだった成績は、ストップ安を繰り返し、最後は、380番とか、420番とかまで落ちていった。

そもそも人間は誰でも得意、不得意があり、英語が得意な人もいれば、数学が得意な人もいるわけで、その生徒の「得意なこと、好きなこと」を伸ばしてあげるのが、本来の教育だと僕は思う。

今この瞬間に、橋本先生が僕の目の前にいたら、ロジックで反論する自信があるが、当時の僕は、勉強を放棄し、彼が僕に「追試」を受けさせる「戦意」を喪失させる戦略?をとることでしか、抵抗することができなかった。

そんな僕にとって唯一の救いは、「バンド」だった。

そのバンドも、自ら企画したコンサートを、学校側の圧力により、開催当日、中止させられた。

「おカネ」を取ることと、人が集まると何か問題が起こるかもしれない・・・(しれない、というだけで中止である!事なかれ主義、ここに極まれり)というのが、学校側の理由だった。

そのバンドは、その後、間もなく解散したが、僕はそんな「圧力」にメゲズ、しばらくして、新しいバンドを結成した。

「カネを取るのがダメだというなら、無料でやればいいんだろう?」ということで、会場費も機材費も含めて、すべてバンドのメンバーで負担して、遂に、コンサートを開催した。

17歳の少年の「権力に対するささやかな反抗(犯行?)」だった。

もちろん、学校側はそのことを知っていたが、「無料」ということで、さすがに「文句(中止させること)」は言えなかったらしい。

そんな高校生活を送っていた。

落ちこぼれ。

僕は福島県立安積高等学校という県内で指折りの進学校を卒業した。

ただし、僕のブログを最初の頃から読んで下さっている方はご存知だと思うが、その高校に合格したのは「2度目」のチャレンジだった。

中学3年生の時、安積高校を受験したが、見事に落ちてしまい、どこも滑り止めを受けていなかった僕は、二次募集があった、ある高校に入学した。

でも、レベルが合わず、どうしても嫌になり、3ヶ月で「中退」した。

その話も何度かブログに書いている。

ところで、僕が「中学浪人」時代(あの頃は、僕らのような人間をそう呼んでいた)に通っていた予備校で知り合った仲間は、なかなか会う機会はないが(一昨年の暮れ、10何年ぶりに集まった)、今も大切な友人である。

変な話かもしれないが、あの頃は、僕の人生で最も楽しかったと言ってもいいぐらい、楽しい時期だった。

お互いに受験に失敗した少年であり、変なプライドもなく、裸での付き合いができたのが、大きかったのだと思う。

その翌年、幸運なことに、安積高校に合格できたが、合格発表をラジオで聴いた時のことは、今でも鮮明に憶えている。

最初に僕の名前(受験番号)が読まれ、その何人か後に、もうひとりの友人の番号が読み上げられた。

一緒にいた「元同級生(ふたりとも現役で安積高校に入学していた)」のふたりが、僕らと手をとって、その「2つの番号」が読み上げられる度、「やったー!!」と言って、喜んでくれた。

僕たちふたりの番号に近づくに連れて、4人とも無言になり、僕たちの間に「緊張感」が漂っていったが、その時、「先輩2人(元同級生)」は、どんな心境だったのだろう?

もし、僕たちが不合格だったら、あるいは、どちらかひとりしか合格しなかったら、どんな状況になっていたのだろう?

ところで、そのリベンジ受験に失敗した予備校仲間が、ふたりいた。

とても残念ながら、そのうちひとりは、その数ヶ月後、自らの命を断ち、僕は、当時の仲間の中で最後に会った人間だった。

何ともやりきれない思いがした。

もうひとりは、滑り止めで受けていた高校に入学し、元気に高校生活を送り、大学に進学し、無事、就職して結婚し、二児の父となっている。

もし、僕が二度目の受験に失敗していたら、僕は、彼のように「現実を受け止め」それを「消化」し、前向きに元気に生きて行くことができただろうか?

大人から見れば、大した話ではないかもしれないが、16歳の少年にとって、受験に二度も失敗することは、相当な精神的ダメージを受けたに違いない。

こうしてブログを書きながら、彼の「精神力」の強さを考えさせられる。

人生は、その理由を問わず、実際に、自分の身に起きたことがすべてであり、それを受け止め、自分なりに消化し、前を向いて行きていくこと以外に選択肢がない。

別の選択肢を選ぶということは、自分の人生に終止符を打つということになる。

でも、その経験が自分の人生にとって大きなものであり、色々な意味があればあるほど、そのことを消化するには「時間」を要するように思う。

今月から受講し始めた講義で、アスキー創業者の西さんが、ある話をしてくれた後、「このことを消化するのに、10年かかりました」と言っていた。

僕は、西さんが日米に跨がり活躍していた頃のことは朧げな記憶しかないが、あれだけのことを成し遂げ、尚かつ、挫折されたことを思うと、その意味が分かる気がした。

西さんの講義はとてもおもしろくユニークで、西さんの話が終った後は、全員が質問することになっている。

「何でも聴いて構わない。すべて正直に答える」と仰っているので、どうやって、ご自分の想いを消化(浄化?)していったのか?来週の講義(最終回)で、訊いてみようと思う。

アスキーの経営が傾き、CSKの大川さんに出資を仰いだ後、元朋友のビルゲイツ氏と久しぶりに連絡を取った時、「ビルゲイツが『なぜ、最初に俺に言って来なかったんだ』と言ってくれたことは嬉しかった」と、あるビジネス誌で書かれていた。

スケールの大きな話から僕の卑近な話に戻して申し訳ないが、高校受験に失敗した僕にとって、あの頃の「友情」は、紛れもなく、精神的な支柱だった。

何に困ったり、何に悩んでいるかもそうだが、そのことで、どういう想いを抱いているかまで理解してくれる友人は、そうはいない。

同じような境遇を生きてきた人でないと、本当の意味で相手の痛みを理解し、共有することはできないだろう。

人間は、辛い想いをしている時、相手の何気ない「ひと言」に、救われることが多々ある。感情の動物なのである。

ところで、ライフライター佐藤英典さんのメルマガで、大野勝彦さんという方を知った。

両腕を事故で失いながら、自分は誰の役に立てるか?何ができるか?と考え、「ハガキ絵」なるものを考案された。現在は、講演で全国を回られているという。

矛盾した話だが、自分の良さを活かすには、「エゴ」を捨てることが必要ということかもしれない。