落ちこぼれ。

僕は福島県立安積高等学校という県内で指折りの進学校を卒業した。

ただし、僕のブログを最初の頃から読んで下さっている方はご存知だと思うが、その高校に合格したのは「2度目」のチャレンジだった。

中学3年生の時、安積高校を受験したが、見事に落ちてしまい、どこも滑り止めを受けていなかった僕は、二次募集があった、ある高校に入学した。

でも、レベルが合わず、どうしても嫌になり、3ヶ月で「中退」した。

その話も何度かブログに書いている。

ところで、僕が「中学浪人」時代(あの頃は、僕らのような人間をそう呼んでいた)に通っていた予備校で知り合った仲間は、なかなか会う機会はないが(一昨年の暮れ、10何年ぶりに集まった)、今も大切な友人である。

変な話かもしれないが、あの頃は、僕の人生で最も楽しかったと言ってもいいぐらい、楽しい時期だった。

お互いに受験に失敗した少年であり、変なプライドもなく、裸での付き合いができたのが、大きかったのだと思う。

その翌年、幸運なことに、安積高校に合格できたが、合格発表をラジオで聴いた時のことは、今でも鮮明に憶えている。

最初に僕の名前(受験番号)が読まれ、その何人か後に、もうひとりの友人の番号が読み上げられた。

一緒にいた「元同級生(ふたりとも現役で安積高校に入学していた)」のふたりが、僕らと手をとって、その「2つの番号」が読み上げられる度、「やったー!!」と言って、喜んでくれた。

僕たちふたりの番号に近づくに連れて、4人とも無言になり、僕たちの間に「緊張感」が漂っていったが、その時、「先輩2人(元同級生)」は、どんな心境だったのだろう?

もし、僕たちが不合格だったら、あるいは、どちらかひとりしか合格しなかったら、どんな状況になっていたのだろう?

ところで、そのリベンジ受験に失敗した予備校仲間が、ふたりいた。

とても残念ながら、そのうちひとりは、その数ヶ月後、自らの命を断ち、僕は、当時の仲間の中で最後に会った人間だった。

何ともやりきれない思いがした。

もうひとりは、滑り止めで受けていた高校に入学し、元気に高校生活を送り、大学に進学し、無事、就職して結婚し、二児の父となっている。

もし、僕が二度目の受験に失敗していたら、僕は、彼のように「現実を受け止め」それを「消化」し、前向きに元気に生きて行くことができただろうか?

大人から見れば、大した話ではないかもしれないが、16歳の少年にとって、受験に二度も失敗することは、相当な精神的ダメージを受けたに違いない。

こうしてブログを書きながら、彼の「精神力」の強さを考えさせられる。

人生は、その理由を問わず、実際に、自分の身に起きたことがすべてであり、それを受け止め、自分なりに消化し、前を向いて行きていくこと以外に選択肢がない。

別の選択肢を選ぶということは、自分の人生に終止符を打つということになる。

でも、その経験が自分の人生にとって大きなものであり、色々な意味があればあるほど、そのことを消化するには「時間」を要するように思う。

今月から受講し始めた講義で、アスキー創業者の西さんが、ある話をしてくれた後、「このことを消化するのに、10年かかりました」と言っていた。

僕は、西さんが日米に跨がり活躍していた頃のことは朧げな記憶しかないが、あれだけのことを成し遂げ、尚かつ、挫折されたことを思うと、その意味が分かる気がした。

西さんの講義はとてもおもしろくユニークで、西さんの話が終った後は、全員が質問することになっている。

「何でも聴いて構わない。すべて正直に答える」と仰っているので、どうやって、ご自分の想いを消化(浄化?)していったのか?来週の講義(最終回)で、訊いてみようと思う。

アスキーの経営が傾き、CSKの大川さんに出資を仰いだ後、元朋友のビルゲイツ氏と久しぶりに連絡を取った時、「ビルゲイツが『なぜ、最初に俺に言って来なかったんだ』と言ってくれたことは嬉しかった」と、あるビジネス誌で書かれていた。

スケールの大きな話から僕の卑近な話に戻して申し訳ないが、高校受験に失敗した僕にとって、あの頃の「友情」は、紛れもなく、精神的な支柱だった。

何に困ったり、何に悩んでいるかもそうだが、そのことで、どういう想いを抱いているかまで理解してくれる友人は、そうはいない。

同じような境遇を生きてきた人でないと、本当の意味で相手の痛みを理解し、共有することはできないだろう。

人間は、辛い想いをしている時、相手の何気ない「ひと言」に、救われることが多々ある。感情の動物なのである。

ところで、ライフライター佐藤英典さんのメルマガで、大野勝彦さんという方を知った。

両腕を事故で失いながら、自分は誰の役に立てるか?何ができるか?と考え、「ハガキ絵」なるものを考案された。現在は、講演で全国を回られているという。

矛盾した話だが、自分の良さを活かすには、「エゴ」を捨てることが必要ということかもしれない。