梅雨入り前の「新宿御苑」。

先週の木曜日はブログの更新ができたが、金曜日から3日間、更新することができなかった。

「継続は力なり」とは名言である。

ところで、ここ最近の週末は天気に恵まれず、子供を充分に遊ばせることができなかったが、久しぶりに晴天に恵まれた昨日は、我々家族のお気に入りのひとつである「新宿御苑」に行った。

6月は「環境月間」とのことで、6月最初の週末は入場料が「無料」だった。

いつもより早くに家を出たせいか、11時前に現地に着いた時は、それほど混雑していなかったが、15時をまわり、帰る頃には、とても大勢の人達で賑わっていた。

ところで、僕らの子供が通っている保育園では、子供たちそれぞれの「マーク」が決まっている。

僕らの子供は、森や林の中に棲む、ある生物がマークなのだが、彼は一度も「本物」を見たことがなく、ここ最近の週末は、その生き物を探して、公園巡りをしている。

その甲斐あってか?昨日は、とても小さな、その生き物を発見することができた。

妻曰く、東京でも、彼女が子供の頃は、至る所で見掛けたらしいが、最近は珍しくなってしまっているのかもしれない。

子供たちが「自然と触れ合う機会」を提供してくれているという意味でも、「新宿御苑」や「砧公園」のような緑が多い大きな公園は、とても貴重な場所である。

こういうことに税金を投入してくれるのなら、大歓迎である。

自宅の「模様替え」。

今日は、自宅の模様替えをした。

子供がつかまり立ちをし始めた頃、彼の安全のために作った「柵」で囲ったスペースをを取り外し、そこにおもちゃ等をしまう家具を置いた。

子供の成長というか、家族のステージの変化は、こうして家の中に表れるということを実感した。

3年後には、小学生。

自分(達)以外の変化で生活が変わっていくのは、何とも新鮮である。

生みの母と父、そして、妻の両親がが生きていたら、どんな会話をするのだろうか?

ドリームビジョンのロゴをつくってくれた方が、こう言っていたことを思い出した。

「子供ができると、季節の変化に敏感になります。そして、すべてが新鮮に感じられます。子供が生まれることで、マイナスなことは何もありません」。

彼は、どんな小学生になるだろうか?

「ご近所」の友達。

生憎の空模様だった日曜日、子供の「保育園つながりの友達」の家へ遊びに行った。

集まったのは、我々を入れて計4家族。さながら小さな保育園状態で、とても賑やかな日曜日になった。

僕は東京に住み始めて、かれこれ30年近くなるが、子供が生まれ、そして、保育園に入るまで、まさか、こうして「近所の友達」ができるとは想像もしていなかった。

「近所の友達」とは、子供たち同士のことだけでなく、我々大人たちのことも含めて。

昔の人は「子は鎹(かすがい)」と言ったらしいが、まさしく、子供たちのお陰で、親同士が知り合いになり、こうして、お互いの自宅を行き来する「友人」関係に発展していっており、子供という存在は、本当に凄い可能性を秘めている。

最寄り駅が同じで、家が近所なので、ひょっとしたらすれ違っていたのかもしれないが、子供が生まれなかったら、間違いなく、こうして知り合うことはなかった人達である。

ところで、子供の話とは直接は関係ないことのように思えるかもしれないが、最近の政治を見ていると、彼らの人生を考えていないのではないか?と思えることが多い。

昨年9月のリーマン・ショック以降、世界的な金融・経済危機の広がりにより、各国は「財政出動」による危機対策に動き始めたが、それは、一時的には仕方ないとしても、問題の根本的な解決にはならない。

巨額の財政赤字だけならず、世界一のスピードで進む「少子高齢化」問題を抱える日本において、将来への「ツケ」は、大きなリスクを孕んでいると言わざるを得ない。

僕らが「飲み食い」した「ツケ」を払うのは、僕らの子供たちである。

「受益者負担」が原則のはずが、とんでもない話である。

不勉強な僕が、浅はかな考えでこういうことを書くのは、自分の無知を曝け出すことに等しいかもしれないが、日本社会における「税収」は、本当に不足しているのだろうか?

殆どクルマの通らない高速道路の建設費や維持費、何をしているのか分からない特殊法人の維持コスト等、不必要な支出を見直すことにより、かなりの「財源」ができるのではないか?と思う。

また、日本が今、世界第2位の経済大国であるのは、先人の方々の努力の賜物であるのは議論の余地がないが、「高齢者医療」等も、見直しは避けられないように思う。

例えば、首の治療のために3週間前から通い始めた「整形外科」の患者の殆どは、いわゆる「高齢者」の方々である。

「関節の痛み」があったり、歩くのに不自由をしているのかもしれないが、身なりを拝見している限りでは、生活に余裕のある方々のように見受けられる。

共働きの両親のもとで育った僕は、実質的には「祖父母」に育てられたこともあり、お年寄りの方々が住みやすい国であって欲しいと思うが、高齢者と言っても、その経済状況は、人それぞれであり、収入のレベルにより、医療費の負担割合が異なるのは、仕方ないように思う

また、数週間前のエントリーで、保育園を運営するためにかかる「おカネ」のことを書いたが、それは「コスト」ではなく、将来への「投資」であると、僕は思う。

問題は、何におカネが使われていて、何は有効で、何は無駄なのか?どうすれば、低コスト体質の国に「再構築」できるのか?ということである。

今朝の日経新聞一面の「責任ある改革」競えという見出しの論説のとおり、「選挙を前に与野党は目先の危機対応だけでなく、日本の置かれた現状を正直に国民に語り、責任ある改革の見取り図づくりを競うべきだ」と思う。

こうして、僕がブログを書いている瞬間も、僕たちの子供と彼の友達は、保育園で友達と遊び、けんかをし、彼らの人生を歩んでいる。

彼らの将来に責任を持てる生き方をしていきたいと思う。

追伸:あるものを探すために妻のPCのまわりを見たところ、僕らの子供と彼の仲良しの友達、そして、僕の妻と保育園の先生が映っている写真があった。そういう日常こそ、大切だと思うようになった。

「弟」が欲しい。

僕たちの子供も、気がつけば、3歳8ヶ月。最近は、だいぶ色々なことが理解できるようになってきた。

自分から「バイオリンを習いたい」と言ってきたぐらいで、「音楽」には、かなり前から興味を示していたが、僕が教えたこともあってか、最近は「数字」に興味を持つようになった。

先日はクルマで走っていると、速度制限の標識を見つけて、「40だよ!」と教えてくれた。

子供の発育には個人差があり、何から覚えるかはそれぞれだのようだが、僕たちの子供は、絵を描けるようになるのが、他の子と較べてやや遅かった。

その絵も、少し前からようやく描けるようになり、先日は、僕の友人夫妻の似顔絵を書いてプレゼントしていた。

ところで、今朝、保育園に子供を送った帰り道に、妻から聞いて初めて知ったが、最近は毎日のように「弟が欲しい」とか「何で弟がいないの?」とか言っているらしい。

僕の弟夫婦に「第二子」が誕生したことや、保育園の友達で「弟がいる子」のことが分かるようになり、弟や妹がいる子のことが羨ましくなったのだろう。

また、「どうして、お祖父ちゃんは死んじゃったの?会いたかった・・・」とも言っているらしい。

僕の養母がいるので、彼にとっての「お祖母ちゃん」はいるわけだが、最近は「お母さんのお母さんにも会いたかった」と言うこともある。

祖父母に関しては、僕もいずれそういう時が来るだろうとは思っていたが、「弟が欲しい」ということには、親として、とても申し訳ない気持ちになった。

僕たちの子供は、妻が流産と早産をしかけて、出産までに計3度の入退院を繰り返しながら生まれてきたことや、現在の妻の年齢、また、僕が、経済的に極めて不安定な人生を送っていることを考えると、彼の望みを叶えてやるには、あまりにリスクが大き過ぎる。

そもそも僕は、とても我侭な人間であり、子供のために自分がやりたい仕事を犠牲にすることができないと自覚していたので、40才を過ぎるまで、子供をもうけることをしなかったわけで、そう考えると、今さら「申し訳ない」というのは、虫が良すぎる話である。

むしろ、僕も妻も決して若くはない年齢になってから、望むと同時にすぐに彼を授かったわけで、そのことに感謝をしなければと思う。

でも、僕らの子供は、自分の意思ではなく、親の意思で生まれてきたわけであり、そういう意味では、僕たち親の都合で人生を左右されているわけであり、当然のことながら、親には大きな責任がある。

一方、計3度の入退院を潜り抜けてこの世に生まれてきたことを考えると、僕たちの子供に、その「意思(生命力)」があったのだとも思っている。

いずれにしても、僕たち夫婦にとって、物と言っては失礼だが、彼は、間違いなく「宝物」であり、何物にも替え難い存在である。

話は変わるが、「マザー・テレサ」は、こんなことを言っていたそうである。

「世界平和のために何ができるかですって?家へ帰って、あなたの家族を愛しなさい」。

自分の家族を愛せない人が、世界平和を実現できるわけはなく、すべての人が自分の家族を愛することができれば、他人の家族の大切さも分かるだろうし、平和へ近づいていくに違いない。

ドリームビジョンの企業理念である、「挑戦する人」を創出し、広く社会に「勇気と自信と感動」をもたらす「新しい社会的価値」を創造したいなら、まずは、「自分にできる挑戦」を続けていくことと、「無私」の境地に立ち、数多ある「社会のために役立つこと」の中で、自分に「できること」「やり続けられること」を見つけ、「愚直に」取り組んでいくことが必要だろう。

「育児」は「育自」というらしいが、子供を授かったことで、我侭な僕が、少しずつでも成長できているとしたら、それこそ、彼に感謝である。

追伸:明日は、子供の脳の発達が専門のお医者さんに聞いた、何故、ビジョン(イメージ)を持つことが大切か?という話を書いてみようと思う。

保育園の「連絡帳」。

数日前に「保育園」に関するエントリーを書いたが、最近は、保育園と家庭との「連絡帳」を読むのを、とても楽しみにしている。

保育園での様子と家庭での様子を先生と親とで共有することにより、子どもたちの健やかな発育を促進しようという仕組みである。

家庭からの連絡はすべて妻が書いているが、彼女と保育園の先生のやり取りを見ていると、僕らの子供が毎日、どのように過ごしているかが手に取るようにイメージできる。

とても素晴らしい仕組みである。

ところで、今日は夕方からやや強い雨が降り出したので、一度、仕事から戻り、クルマで保育園に子供を迎えに行き、子供を自宅に送った後、また仕事に戻った。

別れ際、「何時頃、帰って来るの?」という質問に、「11時(23時)頃かな」というと、さすがに我が子は寂しそうにしていた。

こういう日常を大切にしたい。

子供は誰が育てるのか?

今日は、妻の仕事の関係で、僕が子供の面倒を看る当番である。もう暫くしたら、保育園に迎えに行く。

ところで、「子供は誰が育てるのか?」という今日のエントリーだが、それは、当然ながら「親」である。

但し、経済的な面では「社会全体」が子供を育てているのも事実である。

大前研一氏が運営するAGORIAというSNS会員向けのメルマガで読んだことだが、児童ひとりにかかる「保育所」運営費つまり自治体の負担額は、月額「20~30万円」だという。

因みに、東京都の場合、土地代が高いせいだろうが、月額40万円を超えるらしい。

一方、子育て中の女性は、夫の扶養家族の枠内で働こうとする方々も多いだろうから、年間103万円以内、月額にして「約8万円」以内で働くことになり、自治体の負担額の方が多いことになる。

そのような状況を踏まえて、学習院大学・鈴木亘 教授が、「103万円を児童手当(所得制限をかける)として支給したほうが良いのでは?」という提案をされているらしい。

その方が、そのお金が消費に廻る可能性が高く、経済効果が期待でき、さらに、「育児に専念する妻」と、「高い生産性を求めて本格就業する妻」の二極化によって、保育施設を増やさない(自治体=税金の負担を増やさない)という案とのこと。

僕は、メルマガでそのことを読んだだけで、鈴木亘 教授の提案の詳細を存じ上げないので、ひょっとしたら、的外れなことを言っているのかもしれないが、このテーマは、単純に「経済合理性」だけでは語れない気がしている。

これは、ある人材派遣会社の方から伺った話だが、女性の中には、フルタイムで働く能力やスキルがあっても、必ずしも、それを望まない人がいて、むしろ、週2~3日の就労を望む人もいるという。

つまり、子育てや家事と仕事を両立させることにより、俗に言う「ワーク・ライフバランス(個人的には、単語の順番が逆だと思う)」を図りたいということだと思う。

また、子育ての観点から見れば、「核家族化」した現在の日本社会において、また、特に東京のような都会においては、安全性の問題等により、子供が自由に外で遊ぶことのリスクが大きく、一日中、母と子だけで過ごすことは、子供の「社会性」を育むという点において、問題が多いと感じている。

僕自身は、保育園に預けられた経験はなく、幼稚園に行く前は、近所の子供達と遊んでいたが、今の日本社会(特に都会)では、そういうことは現実的ではないだろう。

たしかに、月額20~40万円の自治体の負担はとても大きいし、僕も驚いたが、これは、保育園の運営費と扶養家族控除という2つの変数の問題ではなく、どのような社会システムであれば、自治体つまり税金の負担を少しでも軽くして、より多くの社会的ベネフィットを生み出せるか?という、社会全体の問題として捉える必要があるように思う。

贅沢だと言われれば、そうなのかもしれないが、仮に僕が女性だったら、専業主婦か?キャリアウーマンか?という「二者択一」ではなく、自分に合った、もっと柔軟な選択をしたい、と思うような気がする。

その一方、ドリンク剤「Regain」の「24時間、戦えますか?」というコピーが一世を風靡した1980年代にキャリアウーマンが持てはやされたのとは対照的に、最近では、スパッと仕事を辞めて、育児に専念することが「幸せ」だと思う女性も増えているようにも思える。

僕が子供を持ったことで、そのような女性が目に留まるようになったせいかもしれないが、電車の中で子供を連れて楽しそうに会話をする母親たちを見ていると、女性の「幸せ観」が多様化していると感じる。

ところで、ベンチャー仲間でもある井手さんという方がご自身のブログで、「日本社会は、高齢者に配慮する(おカネをかける)一方、将来を担う子供たちにお金をかけない傾向があるのでは?」というエントリーを書かれていたが、僕もそのような実感を持っている。

日本の個人金融資産の過半は、60歳以上の高齢者が持っているという社会構造にあって、将来を担う子供を育てることに、社会としてどのような取り組みをするべきか?もっともっと考えるべきテーマだと思う。

それにも通ずることだと思うが、マネックスの松本さんが、「世代別選挙区」なる制度を導入することにより、「世代間格差」を是正することを提案されている。なるほど・・・と思う。

本来であれば、僕自身で行政のあり方や税金の使途を調査し、それをもとにこのエントリーを書くべきだと思っているが、そこまでのキャパシティがなく、他の方の話を引き合いにして、自分の考えを書くに留まっていることをご了承いただきたい。

追伸:学習院大学・鈴木亘 教授の公式ホームページを訪問してみたが、とても興味深い研究をされている。時間を作って、氏の論文等を拝読してみようと思う。

「3才の友情」。

日本の新年度初日の今日、僕のブログを読んで下さっている皆さんは、どのような一日を送られただろうか?

さて、今日のエントリーは、数日遡り、先週のことについて書いてみたい。

僕らの子供が通う保育園では先週金曜日に「お別れ会」があった。

彼が通っているのは私立の保育園で、東京都の「認証保育園」という制度に基づいている。

東京都の場合、公営の保育園は「区」単位で運営されており、それらは「認可保育園」という。厳密に言えば、私立であっても「認可保育園」の指定を受けることは可能で、大雑把に言うと、「庭(園庭)」があるかないかで「認可」されるか否かが決まる。

「日本一、土地の高い東京で、『庭付き』じゃないと認可(助成金を出す)しないなんてナンセンスだ。区がやらないなら都がやる」と言って、石原都知事が創った制度が「認証保育園」である。

さて、少々前置きが長くなったが、僕らの子供が通う「認証保育園」には「庭」がない。

なので、4才5才となってくると、さすがに「運動不足」になりがちになる。

我が子がお世話になっている保育園に限らず、認可以外の殆どの保育園では、雨が降らない限り毎日、近所の公園まで「散歩」を兼ねて、子供を「運動」させに出掛ける。

時々、保育士の方が、黄色やピンクの帽子を被った子どもたちを引率している光景を見掛けるかと思うが、そのことである。

しかし、さすがに4才5才になると、それだけでは充分な運動量が確保できないのである。

それで仕方なく、保育園側でも、園児の両親に、(理想的には)4才以降は「認可保育園」に「転校ならぬ転園」させることを推奨する。

ということは、今まで同じクラスだった「園友」の何人かが、この4月1日から「認可保育園」に「転園」していくことになる。

その「お別れ会」が先週金曜日にあった。

保育園には「連絡帳」なるものがあり、「園」での様子と「家庭」での様子を、それぞれが報告し合い、子供の健やかな成長を実現するためのツールとして活用している。

その「連絡帳」に、こんなことが書いてあった。

「◎◎くんのことは、さすがに気になるようで、『◎◎くんは、○○保育園なんだよね・・・』としみじみしていました」。

我が子の最も仲の良い友達が、認可保育園に「転園」してしまうのである。

3才児にも「友情」と「別れを惜しむ気持ち」があることを知った。

僕らの子供も「たった3才なのに人間なんだなあ」と思うと、何とも言葉にできないじ~んという感情が沸き上がってきた。

「人間とはいかなる生き物なのか?」を、子供の成長を通じて日々学んでいる。