「民主主義のジレンマ」。

「いまこそ、ケインズとシュンペーターに学べ」は、「ハーバードの世界を動かす授業」の著者:リチャード・ヴィートー教授の講演会への行き帰りの地下鉄で読了。

これで、祝1/100冊。

ところで、ヴィートー教授の講演と質疑応答が終わって会場を出てきたところで、取材に来ていた「WBS(テレビ東京)」のディレクターにつかまった。

「想定外」且つ突然のことでイケテル回答ができず、勉強不足を実感。

3~4分ほどインタビューに答えただろうか?

テイクが採用されるかは分からないが、明日は緊張してWBSを見てみよう。

もし、採用されるのであれば、後半の部分にしてもらえればありがたい。

前半は、あまりに当たり前の質問で、自分で話していても「つまんない」と思う答えしかできなかった・・・。

因みに、インタビュー後半で僕が話したのは、ヴィートー教授の著作で知った「日本の高度経済成長」の「理由」は、ベンチャー企業の経営にも当てはまるということ。

組織の「価値観」が明確なこと。

貯蓄率(内部留保)が高く、投資が活発なこと。

誰が「最終意思決定者」なのかが明確なこと。

そして、決定された方針が「長期」に渡って「継続」すること。

つまり、政権(経営陣)のパワーバランスが明確なこと。

国家や企業という観点を超え「機能する組織に共通する条件」のひとつのパターンだと思う。

「民主主義の限界」という話を僕のブログでも何度か書いているが、ヴィートー教授も、民主主義国家である米国や日本、欧州よりも「共産党の一党独裁」の「中国」が上手く行っていることに言及していた。

価値観が多様化する社会では「誰の利益を優先するのか?」という問題にぶち当たる。

高齢者を優遇すれば、若年層には辛い政策になったりする。

こちらを立てればあちらは立たない。

「八方美人」はあり得ない。

政治家も、このままでは日本は立ち行かないと分かっていたとしても、「票」を獲得して「当選」しなければ、政治の仕事はできない。

となれば、「人口構成」でも「投票率」でも「マジョリティ」である「高齢者」の「票」を得られる政策を掲げなければ当選できない。

「民主主義のジレンマ」に関する話をした。

さて、明日のWBSを楽しみ?にしよう。

「日本人の貯蓄率」と「国債発行原資」。

今日は、大学院時代の恩師のご自宅での新年会があるとかで、昼過ぎから妻が外出し、その後は、僕と子供とふたり。

昼前はひとりで機嫌良く遊んでいた5歳児もだんだんと飽きて来て、妻が外出する前あたりから「お父さん、何かしよう?」とせがんでくるようになった。

妻を見送った後、近所の公園に行くと、保育園で一緒の友達に会う。

年末にインフルエンザに罹り、治った後は僕の実家に帰省と、体力が消耗し、尚かつ、新幹線での移動で疲れているのだろう。暫く遊ぶと、珍しく自分から「お家に帰る」と言い出した。

公園を出た後、人影まばらな銀行のATMコーナーに寄り、夕食の買い物をして家に帰ると、ソファーで眠ってしまった。

さて、元日のエントリーで、今年は「数字」にまつわるコラムを書くと書いたが、今日は「貯蓄率」に関する話。

ひと頃まで、日本人は勤勉で尚かつ「貯蓄率」が高いというのが通説だったが、その構造は過去の話である。

1990年代までは「10%」以上をキープしていた「家計純貯蓄率」は2000年を境に減少し、2008年には「約3%」まで低下。

因みに、この数字は、かの「イタリア(約9%)」よりも低い。

では、その理由はさておき、貯蓄率の低下は、一国の経済にとってどのような意味を持つのだろうか?

ひとつは、「国債の購入原資」が「枯渇」する(詳細は、野口悠紀雄氏のコラムを参照されたし)。

国債の殆どは「金融機関」経由で購入されているが、その「原資」は国民の「預貯金」いわゆる「個人金融資産」である。

貯蓄率が低下するということは、国債購入原資の「個人金融資産」が増えないことを意味するが、金融機関はどうするか?というと、企業(それ以外もある)への「貸出」を「削減」する。

因みに、1996年から2006年までの10年間に「国債と地方債」と合わせて「382兆円(GDPは約450兆円)」が発行されているが、その間、「金融機関の貸出」は「207兆円」減少している一方、「株式以外の証券(国債と地方債)」は「約300兆円」増えている。

つまり、国民から集めた「預貯金」を「企業」に貸して「金利」収入を得ていたものを引き揚げ、その分を「国債購入」に洗い替えする(した)ということだ。

尚、金融機関の貸出残高「700兆円(2009年)」の内、160兆円は「住宅ローン」であり(この引き揚げは事実上、不可能だろう)、企業への貸出残高は「540兆円」となる。

リーマンショック後、急速に増大した国債と地方債の発行額(約60兆円)が継続した場合、あと「9年」で「引き揚げる原資」も「枯渇」する。

これは「理論上」の話であり、実際には「貸出をゼロ」にするのは「不可能」だろう。

となると、国内での国債消化は困難になり、長期金利が「上昇」。つまり、国債が「暴落」=「金融機関の資産(保有国債の価格)が悪化(目減り)する」ことになり、金融危機を招くことになり兼ねない。

では、国債を「海外に販売」すればいいじゃないか?というと、そのような財政状況の「日本国債」の格付けは「ジャンク」だろうから、額面通りでは買ってもらえず、やはり「暴落」。

となると、円高改め「円安」となり、インフレとなる可能性は極めて高い。

分かりやすく、仮に、額面1ドル(1ドル=100円として)が、50セントでないと買ってもらえない場合、1ドル=200円になる。

因みに、時価総額でソニーやパナソニックを大きく上回るサムソンの母国「韓国」は、タイに端を発した1997年の「アジア通貨危機」の影響を受け、国家財政の破綻寸前まで行き、IMF(国際通貨基金)が介入する事態に陥ったが、その後、経済は回復。

現在の失業率は、日本よりも低い(2010年@韓国:3%強 v.s. 日本:5%強)。

この「歴史的事実」から何を読み取るべきか?

[世] [画像] - 失業率の推移(1980~2010年)の比較(韓国、日本)

謹賀新年2011:「地方都市」と「社会の変化」。

皆様、新年明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い申し上げます。

さて、年末29日に帰省して以来、寒さも手伝い、どこかへ出掛けるでもなく家の中で過ごすことが多く、間違いなく運動不足だったので、元日の今日は、お昼を食べに出掛けました。

因みに、年末は忘年会等で出歩く機会が多く、タクシーには乗らず、なるべく歩くようにしていましたが、先々月に買い換えたドコモのケイタイに付いている「万歩計」によると、27(月)は「9,714歩」。それが、30(木)は「867歩」、31(金)は「1,465歩」でした。

ということで、2011年最初のエントリーは、昼食で外出した時に思ったことを書いてみます。

僕の実家のある福島県郡山市は人口が約34万人。典型的な地方都市です。

僕は大学進学に伴い上京して以来、帰省する度に「地方都市」の「構造的変化」を目の当たりにしてきましたが、今日は、そのことを改めて感じました。

地方都市というのは、首都圏や関西圏と違い、公共交通手段が充実していないこともあり、繁華街はほぼ例外無く、中心となる「駅」周辺(駅前)になっています。

郡山もその例に洩れず、新幹線の停車駅でもある「郡山駅」の西側に繁華街があります。

しかし、今から約10年前(2000年10月)、駅前にあった「西武百貨店」が閉店しました。

次いで、2008年2月29日を以て、やはり駅前にあった「丸井」が閉店しました。

それは「車社会」の発展により「駐車場」不足が常体化したことの解決策として「市街地の郊外化」が進んだことが大きな原因です。

しかし、「新車の販売台数」は全国レベルで見ると皆さんご存知のとおり、1990年の800万台弱(軽自動車を含む)をピークに下落を続け、今年は450万台を割り込むそうです。

因みに、ある中国人留学生の調査によると、「中古車」登録台数(流入+小売り+業販)は、1995年から2005年まで、ほぼ800万台で推移しています。

1995年頃は「約5年」だった新車の買い替えサイクルが長期化(2005年時点で約7年)したことにより、新車の販売台数は伸び悩んでいるわけですが、保有台数は増大(約4,300万台@1995年→5,600万台@2005年)しており、公共交通手段が充実していない地方都市においては、「お出かけ」はますますクルマになってきているわけです。

そんなこともあり、現在では、郡山「駅前」に残る「百貨店」は地元の「うすい百貨店(現在は三越傘下)」だけになりました(途中、駅前の生き残り競争で、うすいは増床しています)。

さて、そんなことで今日は「THE MALL」なるショッピングセンターに出掛けたわけですが(もちろんクルマで)、なんと駐車場の収容台数は「2,000台」以上だったと思います。

その駐車場が半分以上、埋まっていました。

因みに、渋谷西武(ロフトと共有)の駐車場の収容台数は「209台」。
渋谷マークシティが「200台」。
東急本店が「426台」。

ところで、日本の借金(政府債務)がGDPの2倍になるのは時間の問題と言われていますが、公共部門の借金問題は、政府(中央)の問題だけではなく、地方都市も同様です。

2010年度の郡山市の「税収」は、約475億円。

それに対して、市債の発行額は「約60億円」。借金残高は「967億円」。借金返済に充てる支出(公債費)が一般財源に占める割合は「13.7%(132億円)」。

参考までに、一般会計に占める国債費(借金返済)は「22.4%」。

市街地の郊外化が進むことはイコール、電気、水道、ガスといった「生活インフラ」のコストが膨らむことを意味します。

高齢化が進めば、クルマの運転ができない人の比率も増えるでしょう。

「社会」は確実に「変化」していきます。

その「変化」には、どのようなイノベーションの「機会」が潜んでいるのか?

今年は、そのような「意識」を持って毎日の生活を送っていこうと思います。

追伸:今年は僕の「職業?」らしく、日々の思いを綴るだけでなく、社会の「数字」を踏まえたコラムを書いていこうと思っています。

日本のハンディキャップ。

昨日は、僕がアドバイザリーボードの一人として関わっているドリームゲートと元日銀総裁の福井さんが会長を務められるSEOU会との朝食会があり、07:15に家を出た。

地下鉄に乗ると慶応幼稚舎と思しき小学生たちが、「戦争になったらどうなるんだろう?北朝鮮が核兵器を使ったら、放射能が漏れちゃうじゃん…」と、笑いながら降りて行った。

延坪島(ヨンピョンド)には、小学校も中学校もある。

そして、ソウルは北朝鮮との軍事境界線から、50kmしか離れていない。

東京都心から鎌倉までと同じ距離である。

日本は幸か不幸か(平和である前提に立つ限りは間違いなく幸である)、日米安全保障条約の下、諸外国と比べて極端に少ない防衛予算で平和を享受してきたが、中国の台頭により、世界のパワーバランスが変わったことで、そのリスクが顕在化したということだろう。

平和が続いている間は、政治(安全保障)と経済がシンクロしていなくても問題なかったかもしれないが、尖閣諸島や北方領土の問題で、安全保障の問題と経済活動を切り離しては考えられないことを、国民も理解したと思う。

中国は共産党一党独裁の政治体制で、事実上の国営企業が多数?あり、政府主導で経済運営がてきるが、日本においては、そうはいかない。

米ソの冷静構造に終止符が打たれ、I.T.の発展と規制緩和によりグローバル化が進展し、経済力が国力の源泉となったかに見えたが、時計の針が一回りし、政治、軍事力、経済が「三位一体」でなければ機能しない時代に逆戻りしたのだろう。

日本が今さら軍事力を増強することは、国際世論的にも財政的にもリアリティがないことを考えると、日本の将来には、厳しい現実が待っている。

僕たちの子供の世代は言うまでもなく、平均寿命を考えれば、僕らの世代にもあと30年の人生が与えられている。

国民ひとりひとりが真剣に、日本の将来を考える必要がある。

そのためにも、何にも増して「教育」が重要である。

時既に遅しではないことを祈りたい。

「人口が減る国」の未来。

今日は僕たちの子供の「七五三」。昨日から実家の母親が上京し、4人で明治神宮へ出掛けた。

会場に着くと「少子高齢化」を繁栄してか、当の子供達よりも「祖父母(それも両方)」の姿が目に留まった。

それはさておき、僕にとっての七五三は今から42年前、父親に連れられて、実家の福島県郡山市にある「安積国造神社」へ行った記憶に遡る。

我が子が着たような着物ではなく、半ズボンのスーツにネクタイ姿で、千歳飴を持って帰ってきたことを憶えている。

因みに、僕たちの父親は「教育熱心」で、尚かつ、母親は学校の教師をしていたこともあり、七五三だけでなく、小学校の入学式も父親と一緒だった。

ところで、少子高齢化(人口構成)に因んだ話として、早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授「野口悠紀雄氏」のコラムを読んで「住宅取得に関するスペンディング・ウェーブ」なる概念を知った。

ライフステージ的には、団塊ジュニア(1971年~1974年生まれ)が30代後半に「住宅取得のピーク」を迎えるという見方があり、そのとおりだとすると2005年から2015年頃が、まさにその時期になるが、実際には、そのような傾向は見られていないらしい。

実質住宅投資の実質GDP比を見ると、1980年代から1995年頃までは、5~6.5%程度で推移しているが、それ以降、急降下を続け、2009年には「2.5%」程度まで落ち込んでいる。

つまり、住宅投資については、団塊ジュニアのスペンディング・ウェーブは存在しないことになる。

要するに、せいぜい「2人兄弟(長男長女)」の彼らは、将来的にはどちらかの親元に住めばよく、多額のローンを抱え込んでまで住宅を購入する必要がないということだ。

仮に、同じ「長男長女」だったとしても、これが高度経済成長期のように地方から都会に人口が移動する時代であれば、新規住宅取得の需要があるが、日本においては、都市化はほぼ完了しており、この先、地方から都会への大きな人口移動は見られない。

となると、これからは、新規住宅取得よりも「リフォーム需要」の方が高まるという推測が成り立つ。

参考までに、欧米諸国と比較すると、現時点での日本は「既存住宅の取引の割合」や「リフォーム投資の対GDP比」が低い。

この辺りは住宅に関する価値観の問題が大きいが、「住宅の耐用年数」等の問題も絡んでおり、テコ入れをする余地は充分にあると思う。

あとは、やはり、移民政策だろう。

因みに、あるところから聞いた話では、ソ連の崩壊により、それまで「国防」等の仕事に就いていた優秀な科学者達の「失業」に祭し、アメリカは「約5,000人」の旧ソ連の科学者をスカウトしたらしいが、日本はなんと「ひとり」だけだという。

ソ連が崩壊することは、政府レベルでは予測できていたはずであり、そういうところにも「国家戦略」のレベル差がある。

日本は、アジアの優秀な若者ものを、留学生として、どんどん受け入れればいい。

授業料と生活費と併せて年間ひとり500万円だとして、1,000人を受け入れても50億円。

10年続けても、500億円。

安いものである。

日本には天然資源はない。

頼れるのは「(優秀な)人的資源」だけである。

「内定率57%」の意味。

昨晩は久しぶりにウェブクルー(東証マザーズ)の創業メンバーで集まって食事をした。

因みに、集まったメンバーは、渡辺さん(創業社長で現在は取締役相談役)、渡辺通世さん(渡辺さんの妹さん)と僕。

2009年春にゴルフに行って以来だったので、一年半ぶりだった。

因みに、集まった場所は、ウェブクルーが経営する、渋谷のセンター街の奥にある「小肥羊」という中国の火鍋料理の店。

行き帰りのセンター街を歩きながら、今の日本を覆っている閉塞感の一端がここにあると思った。

どう見てもまともな仕事をしているとは思えない若者があちらこちたに立っている。

ところで、昨日の日経朝刊に、来春の新卒者の「内定率57%」という数字が載っていた。

この数字の意味することは何だろう?

ひと言で言ってしまえば、日本には、大学を卒業する若者の2人に1人分しか「仕事がない」ということだ。

東証一部上場企業の業績が急回復していると言っても、それは「新興国」の需要に支えられているわけであり、移民を受け入れない限り人口が減っていく国内市場を担当する日本人よりも、新興国での雇用を優先する、ということだろう。

また、日本のように解雇規制が厳しい社会においては、正社員として雇用した人間はよほどの理由がない限りは解雇できず、これほどに変化が激しく事業の寿命が短くなっている環境においては、固定費としての人件費は、できる限り少なくしたいのは無理もない。

要するに、時代環境が悪化しても中高年の雇用は保障され、その分、若者の雇用が犠牲になっているということだ。

世界経済の構造変化を考えると、この「数字」は、そう簡単には改善されないだろう。

因みに、1990年代の「生産性の向上」と「労働人口の変化」を見ると、「建設業」では「労働生産性がマイナス」になっているにも関わらず、「就業人口が増えている」(「失われた10年と産業構造の転換」宮川努)。

つまり、バブル崩壊後に「赤字国債」を乱発して「需要のない地方公共事業」に膨大な資金を投入した結果である。

それは、一般会計における「税収」と「歳出総額(要するに支出)」と「公債発行額の推移」を見ればよくわかる。

平成元年(1989年)には「6.6兆円(それでも収支は赤字である)」しかなかった「公債発行額」が、現在では「44兆円」である。

しかも、「歳入」が「37兆円」しかないにも関わらずである。

アメリカ社会では「サブプライム・ローン」という過剰債務が弾けたとすれば、日本は「社会保障」や「公共事業(地方救済)」という美談のもとの「砂上の楼閣」が瓦解しそうになっている、ということだろう(因みに、野口悠紀雄氏/早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授によると、公共事業への支出よりも、社会保障費の支出増の影響の方が大きいという)。

また、そこには霜降り牛肉よろしく特殊法人が入り乱れているらしい。

さて、話を昨晩(ウェブクルー)に戻すと、ウェブクルーを創業する前は、渡辺さんも僕も、お互いに「マンションの一室」で細々とベンチャーをやっていた。

でも、幸運にもインターネットという「千載一遇」の「フロンティア」に遭遇し、自分たちもその中で主要な役割を演じることができる!という確信を持つことができ、貧乏な暮らしをしていても、将来に「希望」を抱くことができた。

若かったということもあるが、将来に対する希望を持つことができたせいで、毎晩夜中まで、場合によっては朝まで、仕事に打ち込むことができたのだと思う。

村上龍に言わせれば、「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが希望だけがない」ということだ。

一方、氏の著書に猛烈な批判を加えている書もあるらしい。

いずれにしても、「57%」という数字は、今の若者に限った話ではない。

僕たちの世代(40代後半)も、このまま平和に日本で暮らしていけるとは限らない。

30年後の日本がどうなっているか?想像もつかない。

僕なりに、知恵を絞りたい。

「クルミドコーヒー」と「顔の見える経済」

今日の東京はこの秋一番の寒さらしいが、これだけきれいな青空も、この秋、初めてのような気がする。

ところで、今週の月曜日は、わざわざ西国分寺にある「クルミドコーヒー」まで出掛けた。

都心からの所要時間は約40~45分。決して近くはない。

クルミドコーヒーは、影山さんという方が経営しているカフェで、名前のとおり、店内には「無料」の「クルミ」が置いてあり、好きなだけ食べていいことになっている。

店内は、木と鉄とガラス以外の素材は一切使われておらず、壁も影山さん自らが貼ったという凝り具合だ。

ところで、その影山さんであるが、東京大学法学部を卒業し、経営コンサルティングファームのマッキンゼーに就職。その後、マッキンゼーの先輩が立ち上げるウィルキャピタルというベンチャーキャピタルに参画し、2年程前に「カフェ」のオーナーとなった、僕から見ると、かなり変わった人である。

その影山さんが講師?となり、毎週月曜日に「クルミドの夕べ」という勉強会のようなものを開催しているらしいのだが、一昨日のテーマは「ベンチャーキャピタル(VC)」で、影山さんがVCの社会的役割、そして、現状と未来ををどう考えているのか?を拝聴したいと思い、1時間近くもかけて、久しぶりにクルミドコーヒーまで行ってみた。

結論として、僕が期待したような話は聞けなかったが、その代わりに、別の収穫があった。

影山さんが何故、「クルミドの夕べ」と題して、無料で、それも毎週、勉強会のようなものを開催しているのか?僕なりにその理由が分かったような気がした。

影山さんにとっては「クルミドコーヒー」そのものが影山さんの「理念」の結晶であり、お店というハードとメニューという商品でその理念を具現化しているわけだが、それだけではなく、影山さんが今の日本社会(場合によっては世界全体)をどのように見ているのか?そして、どのような社会を理想とし、どのような理想の実現の一助となろうとしているのか?その「想い」を自分の言葉で直接、伝えたいのだろう。

つまり、経済的価値(リターン)ではなく、直接的に経済に転化できない何かを、そのことから得ているのだと思う。

影山さんほどの学歴と経歴と能力があれば、もっと稼げる選択肢は他にいくらでもあるだろうに、それを捨ててリスクを取って「カフェ」と「賃貸マンション(現代版の長屋のような運営をしている)」の経営を始めた理由が、よりよく理解できた気がした。

それはひと言で言えば、「顔の見える経済」(誰のための経済活動か?が分かる社会)を実現したいということなのだろう。

彼が考えている(だろう)「顔の見える経済」の何たるか?に関しては、別途、エントリーを書こうと思う。