孫の誕生日。

僕達兄弟の母、厳密には養母は、僕や僕の妻、僕の弟、そして、それぞれの子供達(彼女からみると孫)の「誕生日」が近くなると、必ず、手紙をくれる。もう10年以上も続いている。

先日も、僕らの子供の誕生日が来るということで、温かい手紙が届いた。

特に、何が書いてあるというわけではなく、季節にちなんだ他愛も無いことが書いてあるだけだが、その気持ちには、いつも言葉に表現できないものを感じている。

特に、今回の「手紙」に関しては、それこそ言葉には表現できないものがあった。

彼女の自筆の手紙に加えて、いわゆるバースデイカードが入っており、それがなんとも嬉しかった。

いつまでも元気でいて欲しい。

久しぶりの「猪苗代湖」。

8/12(日)の夕方から今日8/14(火)の夕方まで、僕の生まれ故郷の福島県郡山市に行っていた。今年は、さすがの郡山も猛暑で、滞在中の最高気温は35~36度だった。

ところで、昨日は末弟夫妻と彼らの子供、郡山に住んでいる次男と母親(養母)、そして、僕ら家族の「計8人」で、何年かぶりに「猪苗代湖」に「湖水浴」に出掛けた。

次男のところは、つい先日、3人目の子供(女の子)が生まれたばかりで、奥さんが上の子供2人を連れて里帰りをしていたため、残念ながら3人兄弟の子供達(彼らにとっては従兄弟達)全員が揃うことは出来なかったが、自分たちの子供を連れて「湖水浴」に行ったことは、とても良い想い出になった。

僕が生まれ育った郡山市は福島県のちょうど真ん中に位置しており、海まではクルマで1時間半ほどの距離があるが、「猪苗代湖」にはクルマで1時間弱で行くことができる。小学校や中学校の頃はもちろん、大学生になって帰省した時も、夏は「海」に行く代わりに「湖」に出かけていた。

僕たち3人兄弟の「産みの両親」は、僕らが幼い頃に他界したことは僕のブログでも書いたとおりだが、今年の夏は、世代交代はしたものの、また、あの頃に戻ったような感覚を覚えた。

ところで、今日の午前中は、亡くなった両親と父方の祖父母のお墓参りに行った。

僕たちの子供を連れていき、彼もお線香を墓前にあげた後、両手を合わせてお祈りをした。最近は、教えたことの飲み込みが早い(笑)。祖父母と両親は、微笑んでくれただろうか。

そういえば、明後日は、妻の両親の墓参りに行くことになっている。

残念ながら、僕の両親も妻の両親も、僕らの子供に会うことなく、この世を去ってしまったが、きっと天国で喜んでくれていると思う。

これから、新しい家族の物語を紡いでいきたいと思う。自分のこと(=仕事)しか興味がなかった頃が嘘のようだ。

人生の楽しみは、これからのような気がしている。

無事にグアムに到着!!

子供連れでの「初めての海外旅行」に、グアムを選ぶ人は多いのかもしれない。約3時間半のフライトで旅行料金も手頃であり、満2才前(子供料金は無料)の海外旅行としては良い条件が揃っている。

さて、グアムでの滞在先ホテルはとても快適であるが、ひとつだけ、不便なことがある。

それは、部屋にイーサネットの差込口が無いということだ。いわゆる電話のコード、つまり、ナローバンドのコードであればネット接続用の差込口が用意されているが、僕が持ってきたイーサーネットケーブルは差し込めない。

それで仕方なく、宿泊客用のラウンジに行き、WiFiネットワーク経由でのネット接続を試みた。

接続可能なネットワークを確認してみると、どれもセキュリティが確保されていないという表示が出たので、一瞬、ビビッてしまい、接続するのを止めたのだが、どうしても諦めがつかず、もう一度、確認してみると、セキュリティが確保されていないという意味は、「暗号化」されていないので、送信中のデータが読み取られるリスクがあるということだった。

それであればアクセスしようと思い、このエントリーを書いている。

実は先程、会社のスタッフにメールを送ったのだが、その時は、ラウンジのPCから、ウェブメールで送信した。それも、「英語」で。

何故なら、そのPCには「日本語のOS」がインストールされておらず、日本語の表示はできるが、日本語を「書く」ことは出来ないからだ。

その後に、もう一度、自分のPCで、フリーのWiFiネットワークを確認し、接続したというわけだ。

ところで、グアムは、サイパンととてもよく似ている。

でも、サイパン以上に「人工的」な雰囲気だ。

僕流に表現すると、映画の「Back to the Future」のような感覚で、自然と人口の造形物が調和していないのである。

続きは、また。

人生はすべて「マーフィーの法則」?

今日(7/13)から来週の月曜日まで、3泊4日@グアム、子供を連れての初めての海外旅行に行く。

僕は趣味と実益を兼ねて、毎月1~2回ほどゴルフに行きリフレッシュしているが、妻は子育てと大学院の両立でハードスケジュールの毎日を送っており、たまには息抜きが必要ということで、子供の旅費が要らず(2才未満は飛行機代が無料)、それなりに大きくなってきたこのタイミングで、近場のグアム(3時間半のフライト)に行くことにした。

さすがに、2才にならない子供を連れて行くということで、入念な下調べをし、GW前から予約をしていたのだが、日頃の疲れが出たのか、妻が本日夕方から発熱し、咳が出て、おまけにひどい下痢に見舞われている。

こういうのを、マーフィーの法則というのだろう。

なんとか3人とも元気で行って来たいものである。

自分との密かな約束。

僕がこうしてブログを書き始めてから1年3ヶ月になるが、今月は、ウィークデイは毎日ブログを書くことを自分との約束にしていた。

4月5月は諸事情により、それまでと較べるとブログの更新頻度が低くなっていたからだ。お陰様で何とかその約束は達成できた。

ところで、先週の日曜日は久しぶりに「下北沢」に行った。子供を連れて親子3人で。

実は、ランチに「蕎麦」を食べたいと思って渋谷・恵比寿界隈をクルマで探していたのだが、そのうちに子供が寝てしまい、中途半端に起こすと機嫌が悪くなるので、だったら、久しぶりに下北沢に行ってみようということになった。

下北沢に着いてクルマを駐車場に入れ、僕が知っている蕎麦屋に向かうと、なんと別の店になっていた。そんなわけで、そもそも洋食が飽きたので蕎麦を食べたいと思ったのだが、その日のランチは結局、パスタとなった。

下北沢には、富ヶ谷の交差点から井の頭通りに入り、大山の交差点を左折して向かった。

下北沢駅のすぐ横の踏切に着いた時、駅の北口からその踏切のあたりまで続いていた、戦後の闇市の名残の商店街が取り壊されていることに気がついた。学生時代に下北沢に住んでいた僕は、とても寂しい気持ちになった。

いつだったか、下北沢北口商店街の再開発に反対する住民のデモ行進の話しを新聞で読んだことがあったが、その話しを妻にすると、「反対して計画が中止になることってあるの?」という質問が返ってきた。要するに、そんなことをしても無駄でしょう?という意味だ。僕は「中には(計画が中止になることも)あると思うよ」と答えた。

たしかに、行政の開発計画に反対して訴訟を起こし勝訴すれば、それは可能である。でも、それは、容易なことではない。そういう意味では現実的ではないとも言える。

僕の妻は、僕と異なり、極めて「現実的」な人であり、無駄な努力はしないし、無駄な感情(憤り)も持たない人である。

話しは変わるが、昨日で上場企業の株主総会がほぼ終了したようである。新聞によると、ファンドによる株主提案はすべて否決されたという。

そもそも投資というものは、その対象の将来に何らかの価値を見出し、リスクを取って、その将来価値に賭けることだし、銀行というものは、起業家なり経営者が事業を興すことを支援し、それに必要な資金を提供することが仕事である。

にも関らず、自分の利益だけを考えての行動が多いような印象を受ける。

もちろん、慈善事業ではなく「営利活動」として事業を行っているわけであり、利益を考えない企業行動はあり得ない。僕も含めて。

でも、この社会の参加者全員が「社会的価値の創造」を考えず、とにかく「お金を増やす」ことだけを考えるようになったら、そもそも社会は機能しないだろう。

より良い社会を築くために必要なことは、「経済合理性」だけだろうか?

久しぶりの「下北沢」で、ゴアの「不都合な真実」を思い出した。

追伸:明日から「7月」だ。今年はどんな「7月(夏)」になるだろう?

「暮しの手帖」。

昨日の日経新聞の夕刊に「暮しの手帖」の編集長をされている松浦弥太郎氏のインタビュー記事が載っていた。松浦氏は高校を中退し、フリーター生活をしていた頃があったらしい。社会に適応できなかったと述懐している。

その松浦氏は、毎朝9:15に出勤し、17:30には退社する生活を続けているという。出版社イコール深夜まで仕事をするという業界構造のようなところがあるが、彼は「家族との時間などを通して生活を味わわなければ、いい雑誌はつくれないという信念を持っている」と言っている。

ところで、僕が子供の頃、我が家は「暮しの手帖」を購読していた。正確に言うと、母(産みの母)が購読していた。彼女は、高校を卒業して地元の民間企業に事務職として就職をしたが、こんなつまらない仕事を一生したくないと退職し、大学に入り、教職の資格を得て、学校の教師になった人だった。ある意味、世間に媚びることのない人だった。

その母が読んでいた「暮しの手帖」のことを、「この雑誌は他の雑誌とは違う。どこが違うか分かるか?」と父が僕に言ったことがあった。「分からない」と答えた僕に対して、「この雑誌は『広告を一切、取っていない』ので、記事(商品の解説や批評)が信用できるんだ」というようなことを教えてくれた。まだ、小学生の頃のことだったが、何故か、とても印象に残っている。

僕はそんな両親の子供だということを、子供が出来てから、より一層強く認識するようになった。
「血は争えない」というのはこういうことだろうか。

30代の記憶。

「30代」は自分の中ではそう遠くない記憶のつもりだが、先月末で44才。もう40代も半ば、50才まであと6年である。

「人生は短い」。35才の時にそう思ってから9年が過ぎた。時の経つのは本当に速い。

さて、先週の土曜日は、リフレクトの佐藤裕氏と2人で千葉県富津市竹岡というところにある「随縁カントリークラブ」に行った。内房の海沿いの小高い丘の上に立つゴルフ場で、天気もよく絶景が楽しめた。東京湾を一望でき、対岸の久里浜辺りがはっきりと見えた。

久里浜には、義理の両親が住んでいた。義理(妻方)の兄夫婦が買ったマンションに両親が住み、大田区の東雪谷にある実家に兄夫婦が住んでいた。

両親が住んでいたマンションは久里浜海岸沿いあり、毎年8月に開催される花火大会の時は、絶好の花火鑑賞スポットだった。妻の誕生日が8月ということもあり、毎年それに合わせて泊まりに行っていた。

久里浜から対岸の金谷港まではフェリーで繋がっており、レンタカーを借りて、館山にあるアクシオン館山というリーズナブルなリゾートホテルに何度か泊まりに行った。貧乏だった僕らの年に1度の楽しみだった。

僕は31才の時に結婚し、39才の時に妻の両親が亡くなった。母が8月、父が12月だった。僕の30代は、妻の両親と過ごした時間でもあった。

話しをゴルフ場に戻すと、最初の5ホールこそ調子が良かったが、強い海風の影響で6ホール目から崩れてしまい、久しぶりに「三桁」を叩いた。

ラウンド後に風呂に入ると、ガラス越しに東京湾が一望でき、立ち上がると正面に久里浜の辺りが見えた。

僕にとっての30代は「辛い時期」だった。特に、30代の半ばは、起業したはいいものの鳴かず飛ばずで、その先の人生に対する展望が開けなかった。当時は、そんなことを考える余裕すらなかったが、今になって振り返ってみると、義理の両親との交流は、先が見えずに経済的にも厳しかった僕にとっての「精神的な緩衝材」になっていたような気がする。

当たり前の話であるが、あの頃には二度と戻れないし、妻の両親と話をすることも叶わない。

僕にとっては大切な「記憶」である。