バナナ。

我が家では「バナナ」を常に買い置いている。

栄養価が高いにも係らず安価で且つ簡単に食べられるので、僕が朝食代わりに食べるようになったのがきっかけである。でも、最近は子供にもよく食べさせている。

古い話しで恐縮だが、僕が子供の頃、明治生まれの祖父母から、彼らが若かった頃はバナナは高級品であり、具合が悪くなった時にしか食べさせてもらえなかったという話しを聞かされていた。しかし、今の時代においては、バナナは典型的な「コモディティ」である。

「バナナ大学」なるバナナの総合情報サイトによると、日本における1世帯あたり(2人以上の世帯)のバナナの「年平均支出」は「3,980円」だそうである。

因みに、我が家ではほぼ毎週、バナナを買っている。ひと房が150~250円ぐらいなので、平均200円で計算すると、年間のバナナ支出は「9,600円」となり、日本の世帯平均よりも「約2.4倍」ほどバナナを食べていることになる。

そのバナナであるが、先日、家にあったバナナ(妻が買ってきたもの)に、とてもおもしろいシールが貼ってあった。そこには、「南米エクアドルで日本人が育てたバナナです。田辺農園 TANABE FARM」と書いてある。

僕はエクアドルという国の位置すら思い浮かばないが、遙か遠くの異国の地で、どうやったら「コモディティ化」したバナナという商品を差別化でき、自分たちが育てたバナナをより多くの日本人に食べてもらえるか?(売上をあげられるか?)を真剣に考えている人々のことに思いを馳せた。

その起業家精神というか、マーケティング努力というかに、軽い感動すら覚え、ついつい応援したくなった。

起業やマーケティングやイノベーションというと、ついつい最先端の技術や産業等を思い浮かべがちだが、バナナのような「コモディティ」商品においても、創意工夫の余地はたくさんあるということだ。

今度、スーパーに行った時は、田辺農園のバナナを探してみようと思う。

追伸:200円前後で買えるバナナであるが、味にはかなり違いがある。僕はけっこうバナナ通である(笑)。

サントリーモルツ。

2年ぐらい前(子供が生まれる少し前)から自宅であまりビールを飲まなくなったが、サントリー「モルツ」のリニュアルは気になっていた。

僕の記憶では、僕が大学生の頃から社会人に成り立ての頃に、サントリーからは「モルツ」、サッポロからは「クオリティ」というビールが発売された。「クオリティ」は残念ながら途中で製造中止になってしまったが、モルツはロングラン商品として育ってきた。

ある時、サントリーの商品企画の方とお話しする機会があり、モルツの話をしたことがある。

発売当初の「モルツ」と「クオリティ」は、両方共に「麦芽100%」「天然」「良質」といったコンセプトを打ち出しており、美味しいの勿論、「イメージ戦略」も巧みだった。

しかし、残念ながらサッポロのクオリティは廃盤になり、モルツは「大衆路線」に方針を転換した。それが、今回のリニュアルで、また、「天然・麦芽100%」といった「ナチュラル路線」を強化したように見える。その理由は何か?

初期のモルツは「ある特定の人には支持された」ものの、「量」を稼ぐブランドにはならなかったようで、より「大衆」にウケルことを狙ってポジショニングを変更した。結果として、売上は伸びたのだろうが、キリンの「ラガー」や「一番搾り」とどこが違うわけ?=「個性に乏しい」ブランドとなってしまい、恒常的なキャンペーンをしないと「数字」が維持できなくなったのではないかと思う。それで、原点回帰(自分の個性を再認識)をしたのではないか?というのが平石の私見である。

ところで、昨晩、三井物産100%出資のベンチャー企業で副社長をしている方と会食をした際に、その方が「資本主義の限界(複利のリスク)」という話しをしていた。因みに、銀行の預金金利が「5%(複利)」だった場合、元本は「14年」で倍になる。

彼が言っていたのは、人間は「複利=レバレッジが利く」と際限無く拡大を求めてしまい、いつか「限界」に達する時が来る、そして、限界に達すると「崩壊」してしまう、ということだった。歴史を遡れば、豊臣秀吉が朝鮮出兵をして失敗したのも、飽くなき「拡大」を追及したからのように思う。

「営利」を追求する企業という組織においては、より多くの「売上」を求めるのは自然な成り行きであるが、自社なり自分の「器」を超えて「拡大」を求めることは、必ずしも良い結果を生まないということだろう。

過剰流動性がもたらす「巨大ファンド」に関しても、はたしてペイするのか?という疑問が沸いてくる。

ETICが主催するSTYLE(社会起業家ビジネスプランコンテスト)の審査員としてご一緒させていただいている田坂広志さんとアレン・マイナーさんが、ふたり揃って「資本主義の未来」に言及していたことが印象に残っている。

「蒲田東急プラザ」で思う、「先行層」は儲かるか?

昨日は、ある会社の社長とのアポイントで、久しぶりに「蒲田(大田区)」に行った。僕の記憶が正しければ、2004年の初夏以来だと思う。

蒲田の駅に降り立って、ある商業施設が目に入り、とても懐かしい気持ちになった。

それは、駅ビルに入っている「東急プラザ」である。

僕が20代の時に勤めていたコンサルティング会社で東急プラザの運営母体である東急不動産と仕事をしており、蒲田東急プラザの仕事で頻繁に蒲田に通っていた頃がある。もう15年も前のことである。

その頃の議論で「先行層(イノベーター)」を狙うか? フォロワー(マジョリティ)を狙うか? という議論があった。

僕が勤めていた会社は、コンサルティング会社としては「2流」だったこともあってか、世の中にインパクトを与えることを第一義としていたところがあり、クライアントのビジネスに対しても、そういう観点でのアドバイスをすることが多かった。

しかし、今にして思うと、それは極めてナンセンスだったように思う。何故かと言うと「財務的インパクト」を考えずにアドバイス(コンサルティング)をしていたからである。

商業施設(小売業)であれば、「ROA(総資産純利益率)」を考えずにビジネスをすることはできないのである。

もし、今の僕がコンサルタントをしていたとしたら、全く違ったアドバイスをしていたと思うことが多々ある。

ある時、元マイクロソフトの成毛さんとお会いする機会があった。彼はその時、三浦展氏が書いた「下流社会」を引き合いに出していた。

ここ数年の日本社会は、その理由と善し悪しはともかく、従来の「日本総中流」から「上流・中流・下流」という3つの階層に「分断」されつつあるのは異論はないところかと思うが、そのことにより日本社会の「消費構造」そのものが大きく変化していると考えられる。

例えば、仮に「未婚30才(性別は問わない)」で東京の渋谷区に一人暮らしの年収600万円の人と年収1,200万円の人がいたとする。後者の人がよほど贅沢な住環境を欲しない限りは、年収が倍になったからと言って基本的な生活にかかるコストは倍にはならない。

話しを分かりやすくするために理屈を単純化(税金も考えない)すると、年収600万円の人の基本的生活コストが「400万円」だとした場合、年収1,200万円の人の生活コストは、多少の贅沢をしたとしても、せいぜい500~600万円だと思われる。

ということは、つまり、年収は「2倍」の差であるが、可処分所得(余剰資金)は「3倍」になるということである。

そう考えると、先行層の「定義」を「可処分所得が多い都市型の生活をしている人々」とするなら、彼らをマーケティングターゲットとするのは理に適っているということになる。

それは、今の時代においては正しい判断だと思うが、15~20年前の時代においては、必ずしも正しい「ロジック(戦略)」だったとは言えないと思う。

何故なら、当時の日本社会は今程の「格差社会」にはなっていなかったため、そういう「ラグジュアリー」な生活を送れる人の数は、極めて限られていたからである。

さて、話しを「蒲田東急プラザ」に戻すと、お手洗いに立ち寄るために入った館内は、地元の「おばちゃん(高齢者)」で溢れていた。

ビジネス(利益を生み出す)のためには、カッコイイだのダサイだのということではなく、彼女達の支持を得られるマーチャンダイジングをすることが必要である。

★ブログの検索ワード

僕のブログに訪れてくれる方々が、どんなワードで検索をしているかというと、当たり前であるが「平石郁生」が最も多い。

次に、多いのが「シリアルアントレプレナー」だ。

これは、自分でも驚きだった。

確かに、僕自身が自分のことを「シリアルアントレプレナー」とポジショニングして訴求しているわけだが、世の中に「シリアルアントレプレナー」という言葉で「検索」をする人がそこそこいるという事実には驚いた。

因みに、グーグルで「シリアルアントレプレナー」と検索すると、僕のブログがトップに表示される。

マーケティング戦略でいう「ポジショニング」なり「記号性&意味性」ということが大切だということを、自分自身を題材として検証できたと思っている。

何事も「試してみる」ことが重要ということだろう。

花王アジエンス V.S. 資生堂TSUBAKI

僕の拙い知識が正しければ、10%以上のシェアを取れればシャンプー市場ではトップクラスのブランドとなる。つまり、非常に細分化されたマーケットである。

1年以上前のことになるが、花王の「アジエンス」の開発責任者の方のお話を伺ったことがある。

シャンプー市場は「清潔」というベネフィットと「美しさ(華やかさ)」というベネフィットのふたつのカテゴリーに大別することができ、花王は「清潔」マーケットにおいては「メリット」というトップブランドを持つリーディングプレイヤーであるが、「美しさ(華やかさ)」マーケットにおいては外資系ブランドの独壇場となっており、今までにそのマーケットで勝ったことがなかったらしい。

その市場において、「これでダメだったら、もう諦める」というぐらいの覚悟で臨んだ(開発した)のが「アジエンス」だったという。そして、見事に成功を収めた。

そこに化粧品関連のトップブランドのプライドを賭けて真っ向勝負をかけてきたのが、資生堂「TSUBAKI」である。

この戦いの本質は、海外ブランドが支持されている「美しさ(華やかさ)」マーケットにおいても、欧米コンプレックスではなく、アジア人としての「誇りや美しさ」に自信を持とうというメッセージにあると思うが、欧米v.s.アジアという構図でマーケティングをしている「花王」に対して、ストレートに「日本人」ということを打ち出している「資生堂」という点が興味深い。

更に言えば、他のメーカーをも巻き込んだ「アジア&日本」という訴求競争を巻き起こしており、ある種の「ナショナリズム・マーケティング」とも言える。

花王の戦略は、「欧米v.s.アジア」という訴求が、資生堂の「日本(人)」という訴求に対して説得力を維持できるか?という課題を抱えており、資生堂の戦略は、メンツをかけて「旬の日本人女優」をこれでもか?というほどに投入しているインパクトを維持できるのか?(かなりのマーケティングコストであるのは間違いない)という課題を抱えており、それぞれの今後に注目したい。

マーケティング戦略という意味で、久々に興味を持った事例である。

Tokyo Girls Collection (カワイイ★ウォーズ)

日曜日のNHKで、「カワイイ★ウォーズ」と題して、ファッション業界の変化をテーマにした番組が放映されていた。

今までのファッション業界は、日本においてもモードと呼ばれるアーティスティック且つ哲学的要素をも取り込んだ著名なデザイナーのコレクションが頂点に立っていたが、ここ数年、急速にモードな世界が影響力を失っており、それに替わって「カワイイ」をキーワードにした「旬」が極めて短い「リアル・クローズ(一般的な服)」が影響力を持つようになっていることを紹介していた。

僕は、この番組を見ていて、僕が今年の3月まで本拠地としていた「インターネットリサーチ」のことを思い出した。

リサーチ業界は今まで、統計理論に則った「重厚長大」な調査手法が主流だったが、インターネットというインフラが社会のスタンダードになるに連れて、急速に「インターネットリサーチ」が大きな影響力とシェアを持つようになった流れに、ある意味で似ていると思った。

話しをファッション業界に戻すと、大浜さんという方が経営する「ゼイヴェル」という会社が「Tokyo Girls Collection」というファッションショーを運営している。

そして、その大浜さんに会いたいと言って、イッセイミヤケの社長から連絡してくるほど、「Tokyo Girls Collection」は既に影響力を持つに至っている。

ファインアートの世界であれば、芸術家の思想に基づき表現をし、それが結果的に受け入れられれば良いということかもしれないが、コマーシャルアートの世界では、文字どおり「コマーシャルベース(商業)」にのらない限りは認められないのである。

僕は、消費生活だけでは満足がいかず、常に何かを「創造」していたい人間であり、Tokyo Girls Collection のようなものに対しては「消費」的なものしか感じられず受け入れ難いものがあるが、昨日のNHKの番組をみて、そういう考え方ではいけないのだろうか?と考えさせられた。

時代は常に変化し続けているのである。

そんな中で、自分の価値観を貫きながら、商業的にも成功したいということは、極めてチャレンジングなことだということを改めて感じた時間だった。

でも、僕はそのことに挑み続けたい。

追伸:ゼイヴェルの大浜さんとは、早稲田大学のMBAに呼ばれてパネルディスカッションに行った際に、ご一緒させて頂いたことがある。楽しんで仕事をしていることが、彼の表情と発言から、とてもリアルに伝わってきたことを覚えている。

アンケート調査の限界

昨日の僕のブログに、富士山マガジンサービスの相内遍理さんがコメントをくれた。

「ベンチャー企業に就職するような大学生は、就職先『人気企業ランキング』には投票しないのではないか?」というのが、遍理さんのコメントだった。

実際、Googleで検索すると「複数」の「人気企業ランキング」が出てきた。そして、それぞれのランキングは微妙に異なっていた。

ここでは、それぞれの会社が実施した調査の内容を振り返ることはしないが、調査手法やサンプリング(対象者の抽出)によって、結果が異なるということだ。

昨日のブログを書いている時に、調査結果に違いがあることは認識しており、具体的な順位を鵜呑みにすることは危険だとは思っていたが、言われてみれば当たり前の話しである。

ひと言で「大学生」と言っても多様性が増している今日においては、代表性を担保して、就職先「人気企業ランキング」を出すのは、実際にはかなり大変だと思う。

代表性を担保するとなると、「膨大なコストと時間」を要するということだ。

そうなると、ある程度の情報で、自分で「仮説」を立てる必要が出てくる。そこが、ビジネスマンとしての力量が問われるところだろう。

極々当たり前の話しであるが、遍理さんのコメントによって、基本に立ち返って考えることができた。

Joi(伊藤穣一氏)が以前、アメリカではブログで間違ったことを書くと、それを読んだ他のブロガーから必ず指摘が来る、それを受けて、間違いを修正することで、ブログ全体のレベルが上がっていく、というようなことを言っていた。

遍理さん ありがとうございました。