意思決定

昨日は、僕が選考委員を務めているドリームゲートの「大挑戦者祭」というイベントがあった。

DeNAの南場さんが基調講演をされていたが、僕が今まで聴いた創業経営者の講演の中でも、特に素晴らしい話だった。

創業期の苦労話はネットベンチャー仲間の間では有名な話しだが、昨日の講演で特に深く響いたのは、マッキンゼーつまり経営コンサルタント時代の意思決定とDeNAを立ち上げてからのそれは、大きく異なるということ。

経営コンサルタント時代の意思決定は、高いフィーを貰っているクライアントに「何を言うか?(価値ある提案ができるか?)」だったが、経営者になってからの意思決定は、「何をするか?しないか?」だということ。

それだけ聞けば当たり前の話だが、問題は、「何をするか」を決めた「その翌日」から「予期せぬ問題」が起こるということ。

そして、何億というおカネとスタッフを投入した意思決定は「間違いだったのだろうか?」という疑問が頭をもたげ、言いようのない「恐怖と不安」に押しつぶされそうになったということ。

僕も自分の拙い経験に照らし合わせて南場さんの話を聴いていたが、その「恐怖」に打ち勝ち、自分の「信念」を持ち続けられる人だけが、経営者を続けられるということ。

あのステージに立ち続けるには、「覚悟」が必要だ。

そのことを再認識させられた。

iPhoneからの投稿

浅田真央の「涙」。パート2

はやいもので今日から3月。あと1ヶ月も経たないうちに「桜」の季節がやってくる。一年は短い。

さて、世界が熱狂したバンクーバー・オリンピックも終了。

金メダル「ゼロ」に終った日本だが、色々と考えることがあった。

ところで、その「金メダル」を獲った「キム・ヨナ」の引退説があるらしい。

「荒川静香」がトリノでの金メダルを花道に引退し、プロ・スケーターに転向したように、それは十分にあり得る話だと思う。

実際のところは知らないが、ここまでの「道のり」が「壮絶」なものだったことは想像に難くない。

本人は勿論、五輪で金メダルを目指すのは「家族全員の闘い」である。

ところで、「銀メダルに涙した」浅田真央が、今週号のアエラの表紙を飾っている。

今日の午後、青山一丁目から乗った銀座線の「中刷り広告」でそのことを知ったが、僕の目の前に立った50歳ぐらいのオバさんが、そのアエラを持っていた。

そういう僕も買ってしまった。かなり売れただろう。

何でも「経済効果」に置き換えるのはいかがなものかと思うが、それだけ、人々を虜にしたということだ。

さて、引退観測が流れる「キム・ヨナ」に話を戻すと、もし、本当に彼女が引退したら、「浅田真央」は、むしろ、精神的に辛くなるように思う。

先日のエントリーで「セナ v.s. プロスト」のことを書いたが、プロストが「4度目のワールドチャンピオン」を花道に引退した後、ひとりでF1界を引っ張っていた「セナ」が、レース中にプロストと無線で会話した時に、「アラン、(君がいなくなって)寂しいよ。戻ってきて欲しい」と言っていたことが印象に残っている。

キム・ヨナが引退すれば、「銀メダル」を取った「真央ちゃん」は、追われる立場になる。

16歳で4位に入ったアメリカの「長洲未来」など、若手の台頭も想定される。

「他人の人生についてあれこれ書く暇があったら、自分の人生の心配をした方がいい」とも思うが、「キム・ヨナ」と「浅田真央」という2人の天才は、それだけ人々の人生に「勇気と自信」をもたらしているということだ。

そして、閉塞感の漂う日本だからこそ、「浅田真央」や「上村愛子」に「期待」してしまうのだろう。

複雑な想いに駆られるが、そう考えると、「ドリームビジョンの企業理念」は、ビジネスでなくても実現できるということだ。

ビジネスだろうがスポーツだろうが芸術だろうが、人々に「勇気と自信」をもたらすのは、その人の「生き方」であり、それが「物事の本質」である。

追伸:トリノで金メダルを獲った後だったと思うが、「荒川静香」選手のことも、このブログで書いたことがある。あれから4年近く経つということだ。時の経つのは本当にはやい。

浅田真央の「涙」。

今週は、初めて会う「ベンチャー企業の創業経営者」が「3人」もいた。

いずれも素晴らしい人達で、そういう素晴らしい出会いに恵まれていることを、とても幸せに思う。

ところで、真央ちゃんは残念だった。

でも、ある意味、実力どおり?だったとも言える。

キム・ヨナは、技術力も然ることながら、その「演技力」が素晴らしい。

ただ単に「跳んでいる」だけでなく、3回転中も「演技」をしている。

僕は残念ながらショートプログラムは観ることができなかったが、それを見ていた妻は「(キム・ヨナと浅田真央では)格段にレベルが違う」と言っていた。

要するに「完成度の勝負」なんだろうな、と思う。

ところで、そういう僕は「トリプル・アクセル」を「2回(SPを入れれば3回)」も「成功」させたことに対する「技術点(加点)」がもっと高くて然るべきと思う派だ

たしかに、キム・ヨナの、あの「妖艶な演技力」は、圧巻である。

でも、あの「得点差」には、疑問符が付いた・・・。

話は変わるが、僕は自宅のリビングで固唾をのんでテレビの前で観戦(応援)していたのだが、僕が最も「凄い」と思ったのは、浅田真央が流した「涙」だった。

それだけ、自分に対して「正直」であり、「厳しい人」だ。

「2回」もミスをした自分が許せなかったのだろう。

その「精神の強さ」が彼女の凄いところであり、これからも彼女を成長させていくと思う。

「技術力」が足りない人が「技術」を磨くことよりも、「演技力(そうは言っても、浅田真央ちゃんの演技力は平均と較べれば群を抜いている)」が足りない人が「演技」を磨くことの方が、比較論で言えばリアリティがあるだろう。

また、女性は20才前後を境に身体のバランスが異なり、技術を磨くことが難しい身体になる傾向があるように思う。

そういう意味では、真央ちゃんは、これから「女性」としてさらに成長し、「演技力」を磨き、今回の「雪辱」を晴らすことは十二分に可能である。

僕は生でオリンピックを観たことがないのだが、「2人の再決戦」を観に、4年後の「ソチ」に行きたくなった。

浅田真央の「4年後」に期待したい。

追伸1:世の中では「真央ちゃん」と呼ぶのが一般的だと思うが、僕がタイトルに「ちゃん」とつけなかったのは、彼女の「凛」とした姿勢を表現したかったから。もう立派な「大人の女性」である。

追伸2:4年後という意味では、16歳の日系アメリカ人は間違いなく、さらに頭角を現してくるだろう。そう考えると「3人の戦い」になるかもしれない。まさに「アジアの時代」である。

「大人げない大人」になるには、「勇気と覚悟」が必要だ。

土曜日は「大阪」、日曜日は「東京」で、社団法人関東ニュービジネス協議会とドリームゲート(株式会社プロジェクトニッポン)の共催による「DREAM GATE グランプリ」の「2次選考(プレゼン審査)」があった。

昨年から選考委員の仕事をさせていただいているが、ある意味で、人の「生き方」に関わる仕事であり、昨日は改めて、その責任の重大さを感じた。

書類選考では伝わってこない、人間の「生き方」がプレゼンテーションから伝わってくる。

年齢を言い訳にはしたくないが、土曜日は大阪での選考終了後、お好み焼きを食べながら「日本経済」に関する熱い議論をし、新幹線の中でその続編を行い、昨日は十数人のプレゼンを拝聴した後、うどんすきを食べながらの議論で、毎回の議論にはアルコールが入っており、松谷さんの肝臓の足元にも及ばないそれしか持っていない僕は、さすがに今日は疲労感が残っていた。

一方、今年から新しい保育園になった我が子は土曜日はお休みとなり、僕のいない週末を、ひとりで彼の面倒を看て過ごすのは大変ということで、妻は、以前の保育園繋がりの友達家族と過ごしていた。

ところで、もう4年半も前のことになるが、子供が生まれて、本当の意味での「人生が始まった・・・」と思ったというエントリーを書いたような気がするが、最近はよりいっそう、そう思う。

ひと頃の僕は、旧友を除けば、交友関係の殆どは仕事の上の付き合いで、ネットビジネスを始めてからは、ネットベンチャーの経営者との交流が大半を占めていた。

でも、子供が生まれてから、正確に言えば、3才ぐらいになってから、彼の交友関係のお父さん、お母さん達との付き合いが、僕の日常の人間関係の多くを占めるようになった。

これは「とても静かで緩やか」ではあるが、僕の人生に、とてもとても大きな影響をもたらしているように思う。

それはある意味で仕方のないことではあったと思うが、以前の僕は、ベンチャーキャピタルから資金を調達し上場を目指していたため、上場しているのなら「時価総額」が大きいこと、未上場よりは「上場」していること、未上場のベンチャーなら売上や利益、あるいは会社の規模(人数)、はたまた、どこのVCからいくら資金を調達しているか等、定量的というか「外形基準」で物事を判断しており、その尺度に当てはめて自分の価値を判断していたところがあった。

自分だけならまだしも、他人(他のベンチャー企業の創業経営者)を判断する際にも、同様な基準で考えるところがあった。

それは確かに、ひとつの判断基準にはなるのは間違いない。

ゴルフで言えば、スコアは少ない方がいい。

でも、「タイガーウッズ」と「アイルトンセナ」、「スティーブジョブス」と「マイケルジャクソン」をどうやって評価するのか?

以前の僕は間違いなく、「ベンチャー原理主義」なり「IPO原理主義」なりに囚われていた。

でも、世の中は「多元的」である。

とてもお恥ずかしい話だが、子供が生まれて保育園に通う(あずける)ようになって、仕事上の接点ではなく「子育て」という接点で知り合った人達との交流を通じて、ようやく、自分を支配していた「ドグマ」から自分を解放することができた。

そういう意味では、子供を育てながら働く女性の方が、視野が広いのは自明の理かもしれない。

さて、話をドリームゲートに戻すと、主催者の松谷さんが、選考委員を務める僕と影山さん宛に、「経済合理性」も「必然性」もないにも関わらず、グランプリの選考委員の仕事を快諾してくれていることに、心から感謝をしています、という趣旨のメールをくれた。

たしかに高額な収入でもなく、貴重な週末を潰しての仕事なのは事実だが(極めて地味な仕事である)、僕がこの仕事をしている理由は経済合理性ではなく、「価値観合理性」である。

そして、松谷さんや榎本さん(社員の方)と一緒に仕事をすることで、自分ひとりでは実現できないことを実現できるわけであり、その意味では「必然性」があるのである。

余談だが、ドラッガーは「経済は妥協できるが、価値観は妥協できない。半分のパンはパンだが、半分の子供は死体である」と言っている。

つまり、価値観を「共有」できない人とは、仕事はできないし、上手くいかない、ということである。

但し、ここで重要なことは、日々の生活に窮していたとしたら、いくら価値観的に共感できたとしても、その仕事を引き受けることはできず、稼ぎの良い仕事を取る必要(必然性)がある、ということである。

つまり、

・個人のレベルで見れば、仕事は「パン」だけのためではないが、パンは必要である。
・社会全体で見れば、何のために「経済成長」が必要なのか?

ということなのだろう。

日々の生活の糧を稼ぐことを除いて、僕は何のために仕事をしているのか?
何を基準として仕事を選んでいるのか?

そのことを将来、自分の子供にきちんと語れる「生き方」をしていきたいと思う。

そして、ALBERTの上村が数日の前のTwitterでつぶやいてた、「あなたにとっての”大きな石”はなんですか?」という問いを忘れずにいたい。

話は変わるが、僕の自作の「座右の銘(3点セット)」のひとつに「人生は短い」というものがあるが、最近は「まだまだ長い」と思うようになった。

僕たちの子供が「20才」になる時、僕は「62才」。「30才」の時、「72才」。

今までの人生とは異なる楽しみがあると思う。

そして、年齢的には「高齢者」になってしまうが、カッコいい親父でいたいと強く思う。

ところで、ウノウの山田さんのブログで、そのタイトル故に気になっていた、元マイクロソフト日本法人社長の成毛さんが書いた「大人げない大人になれ!」という本に関する書評(感想)を読んだ。

僕が思い出したのは「優等生な人生」は送りたくない、ということだ。

でも、「大人げない大人」として人生を歩んでいくには、それ相応の「勇気と覚悟」が必要である。

そのことも再認識した。

その「心」は、また今度。

人間一度しか死ぬことはできない。

1990年。今から20年前。日本経済のバブルが崩壊した時、僕は「チャンスが来た!」と思った。

昨年の夏が過ぎた頃から、時間ができたせいもあり、ドラッガーやマクロ経済関連の書籍を好んで読むようになったが、僕が読んだ経済関連の書籍(著者)は異口同音に、「バブル経済の崩壊はとんでもない出来事であり、みんなが狼狽し、悲嘆に暮れていた」と言っている。

たしかに、マクロ的にはそうだっだのだろう。

でも、僕にとっては「千載一遇のチャンス!」であり、「イス取りゲーム」をひっくり返せる!!と思った。

それは、当時の僕が「持たざる者」だったからである。

僕はその当時、J.W.Thompson という、よく言えば老舗の世界的な広告代理店、悪く言えば「金属疲労」を起こして著しく生産性が衰退していた広告代理店に所属していた。

年齢は27才。年収は、約450万円前後だった(と記憶している)。

当時は(今も同じか?)「年収の5倍」程度が普通のサラリーマンが購入できる住宅の限度だったが、つまり、450万円の5倍は「2,250万円」、600万円になったとしても「3,000万円」で、当時の「物価水準」で言うと、都心まで1時間以内で通える家族で住めるマンションを買うには「最低5,000万円」は必要であり、両親共に他界していた僕は「頭金」を援助してもらえるわけもなく、「こりゃ、どう考えても、一生、家すらも買えない・・・」という状況だった。

以前のエントリーにも書いたが、事実として、僕の友人達は結婚と共に、ある夫婦は「5,000万円」、ある夫婦は「7,000万円」の新築マンションに転居していった。

バブルが崩壊したと聞いて、僕は「持たざる者」でも「住宅が買えるかもしれない!!」と、半ばシラケていた心に「スイッチ」が入ったのを今でもよく憶えている。

ところで、このところ、「正規社員 V.S. 非正規社員」や「終身雇用と年功序列型賃金制度の是非」に関する論争や、だいぶ熱は冷めたとは言うものの「会社は誰の者か?」という議論等があるが、僕は、今後の日本社会は確実に、「unbundling(アンバンドリング)」されていく、つまり、「組織で働くことの意味」が変わってくると思っている。

ドラッガーが提唱した「知識労働者」という存在が社会を動かすようになり、その総和としての社会が「知識社会」になると、自らの「知識とスキル」が「生産材(産業資本)」となり「ポータブル」となることから、自分という「資本効率」を最大化できる組織を求めるようになり、人材の流動性が増すことになるだろう。

もちろん、正規雇用(正社員)の「解雇規制」が異常に強く、企業年金はポータブルではないことや、幸いにして自分が所属している会社に「経済合理性以上の何か」を感じている人もたくさんいるのは事実であり、そう簡単に米国のような雇用の流動性の高い社会になるとは考え難いが、でも、その流れは不可逆的と思われる。

別の観点で見ると、マーケティングの世界では20年以上も前から叫ばれている「価値観の多様化」なるものが、ここへ来て、疑いようのない現実となっており、それだけ多様化した人々を、ひとつの組織に、それも一生涯に渡って留めておくことは、社会の変革スピードを考えると、現実的とは思えない。

僕は「豊かな社会とはどんな社会か?」と問われたなら、「選択肢の多い社会」と答える。

資本主義には様々な問題があることは事実だが、経済発展と社会の成熟は、確実に「選択肢の幅」を広げてくれる。

だからこそ、僕のような人間でも、なんとか生きていける世の中になるのである。

しかし、今日の日本には未だに古いイデオロギーが色濃く残っており、「労働者は資本家に搾取される弱者であり、政府が救済しなければならない」と考えられているのかもしれないが、「知識・スキル」がポータブルであることを考えれば分かる通り、資本家が知識労働者を搾取しようとすれば、より良い条件の組織に逃げられるだけである。

さらに言えば、今日の社会において「資本家」とは誰を指すのか?

未公開尚かつオーナー経営者の企業(オーナーの出資比率が過半数の企業)であれば、経営者=資本家だが、筆頭株主でも10%もないような上場企業においては、資本家は元を質せば「個人の集合」ということになる。

つまり、資本家=経営者だった時代とは前提条件が異なるのである。

1999年(だったと思う)、BCGの内田和成氏が「デ・コンストラクション経営革命」という本の中で、バリューチェーンが「unbundling(アンバンドリング)」され、新しい秩序に基づき「re-bundling(リ・バンドリング)」されるということを書いたが、これからは「働き方のデ・コンストラクション」が起こると思う。

これは「既に起こった未来」であり、これからは「組織を離れて組織と働く人」が増えるだろう。

いや、僕がフォローしている「つぶやきの達人」たちの中には、既にそういう「生き方」をしている人がたくさんいる。

「農本主義」時代は「地域」という地理的な集合が「コミュニティ」を形成していたが、工業化に伴い、日本では「大企業」がその機能を代替するようになった。

しかし、産業の高度化およびI.T.化と規制緩和によるグローバリズムの進展により「職場」というコミュニティが崩壊し、精神的な「絆」の「unbundling(アンバンドリング)」が起こったと同時に、「価値観」や「生き方」により自分が属するコミュニティを決めその発展を願うという「re-bundling(リ・バンドリング)」が起きている。

先日のエントリーで書いた「マズローの6段階欲求説」のとおりである。

それが、TwitterやSNSが支持される要因であり、Web2.0時代の本質である。

そして、既存のルールが制度疲労を起こし、時代に合わなくなった今日という時代は、既得権益に果敢に挑戦し、新たな構造を創れる可能性のある、とても大きなチャンスでもある。

ところで、僕はここ数日の出来事を通じて、「人間は自分のために生き、自分の責任を全うすることで、結果として全体に貢献し、より良い社会を創ることになる」ということを再認識させられた。

僕が「人間は自分のために生きる」というのは、他人に優しくすることも、私利私欲を抑えて社会のために良いと思うことするのも、はたまたおカネがすべてと思い、より多くのおカネを稼ぐことに没頭することも、いずれも「自分の価値基準」に忠実に生きるということであり、他人に優しくすることで、私利私欲を抑えて社会に奉仕することで、他でもない「自分の満足」を追求している、という意味である。

シェークスピアが言うように「人間一度しか死ぬことはできない」のであれば、他人の批判を恐れて無難に生きて無難に死ぬよりも、自分の価値観を信じて、それを貫く「生き方」をし、その「生き方」に相応しい「死」を迎えたい。

まだまだ、そこまで達観はできておりませんが・・・・。

「成果」のあがらない理由。

「急ごうとする。そのために遅れる。成果をあげる者は『時間と競争しない』。ゆっくり進む」。

ご存知の方も多いと思うが、上記は「ドラッガーの言葉」である。

これを実践するには「分析」ではなく(に加えて)、「勇気」が要る。

だから、優先順位の前に「劣後順位(何を行わないか?何を捨てるのか?)」が問われるのだと思う。

何故なら、何事もちょっと見よりも時間がかかるし、予期せぬことが起きるし、予期せぬことは大概のケースにおいて「厄介」なことなので、予期せぬ時間を取られる。

「バフェット」も言っているが、多くのミスをしない限り、人生では「1つか2つ」のことを上手くやればよい(考えてみれば、ゴルフも同じだ)。

でも、凡人は、自分の能力に自信を持てないので、ひとつのことに集中する(絞る)ことが「不安」になり、あれこれ手をつけたがる。

そういう僕もね。

身内の話で恐縮だが、僕の妻は「時間の使い方」と物事の「優先順位と劣後順位」のつけ方が素晴らしい。

そうでなければ、30才を過ぎてから予備校に通い(受験勉強をし)、大学に編入し、大学院に進み、臨床心理の資格を取ることはできなかっただろう。

こうしてブログを書きながら思い出したが、実家で弁護士をしている弟も、「時間の使い方」と物事の「優先順位と劣後順位」のつけ方が素晴らしい。

ひとつのことに集中(つまり、それ以外は捨てること)せずしては、成果は上げられない、ということだ。

「人生の残りホール」が短くなってきた僕は、「劣後順位」を突き詰めて、不要なものはバンバン捨てていかないと、すべてが中途半端で終ってしまう。

いつまでも過去の成功の余韻に浸っているわけにもいかないし(そもそ���、余韻に浸れるほどのことではないし)、やらかしてしまった失敗を引きずっていても仕方ないし・・・。

残りホールで「もう1チャンス」あると思っているけど、「1チャンス」しかないとも思っている。

あれもこれも読もうとしても時間が足りずにすべては読めないわけで、だったら、読もうと思ってブックマークしたり、クリックする「努力?(行為)」自体が「時間の浪費」である。

だから、体調を崩すわけか・・・(痛)。

「理解」とは「行動を伴う」こと。