「心」の「余裕」。

仕事に限らず、余暇の過ごし方でも、「心」に「余裕」がないと上手くいかない。

仕事では、リラックスした(肩の力が抜けた)集中力が発揮できないし、余暇では、余暇を心から楽しめない。

「精神的な余裕」が、何にも増して大切だということを最近、富に感じる。

音楽の効用。

先程のエントリーで「音楽」のことを書いたが、文明が発達する以前から「音楽」は人々の生活に無くてはならないものだった。

冷蔵庫も電子レンジも無い生活を送っているアマゾンの奥地に今なお棲息する部族にも、「音楽」は親しまれている。

物理的には新しいモノは創造しないが、音楽という存在は、人々の生活を「豊かに」してくれる。

人間は、感情の生き物である。

ドリームビジョンは「マジメ過ぎる」!?

今日は、授業の一環として今週一週間、法政大学からインターンに来ていた2人からのプレゼンテーションがあった。

9/8(月)カットオーバー予定の「挑戦する生き方」をテーマとしたメディアと、そもそもドリームビジョン自体に対する提案がプレゼンのテーマである。

それぞれ自分の持ち味を活かした、とても素晴らしい提案だった。

詳細は割愛するが、ふたりの提案に共通していたことは、ドリームビジョンは「マジメ過ぎる」ということ。

まあ、僕の性格が反映されているんだろうけど、人生を懸けて何かに挑戦するにしても、悲壮感が漂っていては周囲が緊張してしまう。

「目から鱗」って感じでした(笑)。

あまりシリアスになるのは止めて、もっとファンキーに行こうっと!!

「挑戦」自体を楽しんでやっていかないとね。

>インターン生のふたり、Thank you very much !!!

「ブログの自分」と「リアルの自分」。

昨日、とあることでライフネット生命保険の出口さん(社長)と岩瀬さん(副社長)にお会いした。

その席上で、岩瀬さんからこんなことを言われた。

「平石さんって、実際に会うと力強いものがあるじゃないですか。でもブログから伝わってくる平石さんて、ちょっと違いますよね・・・」。

たしかにそうだと思う。

「でも、ブログの中の僕は『力強く』て、実際に会った僕は『弱々しい』よりもいいですよね?」と言ったら、「そうですね。それが逆だったらいやですよね(笑)」という返事が返ってきた。

傍から見れば何気ない会話かもしれないが、僕は何故、そういう「ギャップ」が存在しているのか?を考えた。

それは、事実として、僕の中に「臆病」で「繊細」で「弱虫」な自分がいるからだと思う。

随分昔の話しになるが、僕にとっての最初の起業のパートナーであり、その会社からスピンアウトして現在は自分で会社を経営している堀水から、「平石は『弱虫』なんだよ」と言われたことがある。

なかなか出来る事ではないが、僕は「自分のすべてを受け入れたい」と思っている。

多少は「才能」のある自分も、その才能を開花させる���めの「努力」が足りない自分も、「他人の評価」を気にして「カッコいい自分」でいたい自分も、同じく「他人の評価」を気にするあまり、一般的定義での「失敗」を恐れる自分も、たくさんの「お金」が欲しい自分も、でも、お金よりも「社会的意義」や「自分の価値観」を大切にしたい自分も・・・。

ブログの中(読んで下さっている大半の方々とはお会いする機会がない)だからといってカッコつけた話しを書くよりも、むしろ、僕の「弱い」「臆病」な、よく言えば「繊細」な部分を書いた方が、素直でいいような気がしている。

何故なら、リアルの僕は「弱い自分」を受け入れながら、どうやってそれを「克服」し、前に進めるか? それこそ、カッコ良く言えば、毎日毎日、戦っているのだから。

何事にも「外面」と「内面」があるとすれば、リアルの僕は「外面」で、ブログの僕は「内面」なのだろう。

他人という鏡に映った自分でなく、自分の心の中の鏡に映った自分を見る。

一昨日のワークショップの帰りの電車の中で、例によって読みかけだった篠塚建次郎さんの本を読み終えた。

ご自身の今までのラリー人生を綴った本で、難しい話しは何もなかったが、得るものがたくさんあった。

特に、最後の章で彼が語っていた「これから(60才以降)の人生は、まだ、20年もある。先のことは分からない。今を一生懸命に生きるしかない」という一言が心に響いた。

僕は現在、44才。もう44才という思いもあるが、仮に、64才まで現役で働くとすると、あと20年もあることになる。社会に出てから22年目になるが、それと同じぐらいの時間がある。

20代や30代の頃のような「瞬発力」は衰えてきているのは事実だが、持久力というか、ペース配分を考えながら仕事をするコツがわかってきたし、洞察力や判断力は間違いなく向上していると思う。

そう考えれば、今までとは違った意味で「楽しい20年」を過ごせるような気がする。

篠塚さんも「今までは『勝つ』ことしか頭になかったが、パリダカには、他にも様々な楽しみがあることを知った」と言っている。

ところで、読み終えた本の表紙をめくってみると、そこには「2007年6月27日」という文字と共に篠塚さんのサインが書いてある。

先日のエントリーで、今年の夏休みは実際の日数よりも長く感じられたと書いたが、篠塚さんとの出会いは、何故か、つい先日のことのような気がする。

「透明感のある瞳と笑顔」が素敵な人である。

ところで、タイトルに書いた言葉は、ある人から言われた言葉である。

「他人の評価に一喜一憂していては、本当の【自由】は得られない」という意味だ。

一昨日のワークショップでの久保さんも相田みつをも同じことを言っている。何事にも「普遍的」な理があるということだと思う。

暑中見舞い。

いつ頃からだろうか、暑中見舞いを送ることを止めた。実効性のない儀礼を止めたということだ。

ところで、その「暑中見舞い」だが、数日前、ANAからHTML形式での暑中見舞いが届いた。ANAのマイレージ会員に向けて送っているのだろう。

そこには間違いなく「CRM」という概念に基づき、売上に繋げたい狙いがあるわけだが、印刷コストと郵送費が不要とは言え、わざわざHTML形式のメール原稿を作り、送ってくれることは嬉しいものである。

その暑中見舞いには、いくつかの水の入った風船が瀬戸物の器に浮かび、明朝体の文字が縦に並んでおり、和風情緒に溢れ、涼しさを醸し出している。

忙しい毎日だからこそ、季節感が大切である。

そして、僕に対しては、CRM効果ありである。

頼まれてもいないのに、こうして、わざわざブログに書いているわけだから。

追伸:JALのマイレージにも入っているが、今のところ、暑中見舞いは届いていない。

「ブラームスの小径(こみち)」。

原宿駅の「竹下通り」から少し横に入ったところに「ブラームスの小径(こみち)」と呼ばれる細い通りがある。僕は毎朝、その小径を通って通勤している。

東京も梅雨入りしたのだろうか?その小径には、きれいな「紫陽花(あじさい)」が咲いている。紫陽花以外にも樹木(アカシアだろうか?)があり、黄緑色の葉がしっとりとした風情を醸し出している。まるで原宿とは思えないような空間である。

僕の気のせいかもしれないが、東京では「紫陽花」の花を見る機会が少ないと感じている。

僕が子供の頃は、住んでいた家の庭にも紫陽花があったし、街中でもしばしばきれいな紫陽花を見ることができた。

「ブラームスの小径(こみち)」を通るたびに、そんな子供の頃の記憶が蘇ってくる。

心が休まる瞬間である。

追伸:インタースコープを創める前に経営していた会社のオフィスも原宿にあったが、「ブラームスの小径(こみち)」の樹木は、その頃よりもだいぶ大きくなったように思う。今ほど葉っぱが通りに被さっていなかった気がする。