大学にペーパーテストは必要なのか?

「起業家精神」には、幼少期の環境や経験が大きく影響しているらしい。では、どのような環境や経験が起業家精神を育むことに繋がるのだろう?

僕の職業は「起業家」だ。でも、小学生の頃の僕を知る人には、今の僕は想像できないだろう。あるエピソードを紹介したい。

小学校からさらに遡り、幼稚園初日のことだ。

父方の祖父母と一緒に住んでいた僕は、幼稚園から帰宅後、祖母にこう訊かれた。

「泣いた子はいなかったか?」

「1人だけ、いた」。

「誰?」

「僕・・・」。

僕は、園庭の門を開けて、祖母の待つ自宅に、走って帰りたい衝動を必至に押さえていたが、遂に耐えきれず、泣き出してしまった。

小学生の頃は、それほど勉強ができるわけでも、できないわけでもなく、運動神経も発達しておらず、ごく普通の子供だった。

何が要因だったのかは分からないが、中学2年生の頃から、僕は大きく変わったように思う。親しくしていた友人からもそう言われた。

成績も良くなり、学級委員長をしたり、運動もできるようになり、目立つ存在になっていた。成長期は人によって異なるということなのだろう。

また、不良連中とも付き合うようになり、先生にとっては、扱い難い生徒だった。

ドラッカーは「起業家精神とは気質のことではない。何事にも原理原則があり、起業家精神にも原理原則がある。それを学ぶことで、誰でも起業家精神を身につけることができるし、起業家的に生きることもできる」と言っている。

起業家精神を理解する上で、とても大切なことがある。

それは「変化」を「善し」とすることだ。

起業家は必ずしも自ら変化を起こすとは限らない。

但し、変化を機会として利用する

1990年代の後半、数人の仲間と「自動車保険の見積り比較サイト」を立ち上げたのは、56年ぶりの法改正で、自動車保険が「自由化」されたという「変化」に着目したからだ。

それまでは、護送船団方式で、契約者の条件が変わらなければ、どこの保険会社で契約しても、殆ど同じ保証内容だった。それが、保険会社が自由に、保険商品を企画・設計できるようになった。つまり、「比較する」というニーズが生まれたということだ。

ところで、起業家精神は「ペーパーテスト」で測れるのだろうか?

他人の夢を笑わない」武蔵野EMC エピソード Vol.5

「世間一般の方々が想像する従来の大学の学部であれば、毎学期末にレポートの提出がありペーパーテストがある。そして、学生は「単位を取る」という目的に向かって日々の生活を送る。

1タームごとにシラバスと睨みあい、「楽単」で構成された時間割、出席計画をたて、縦の繋がりから過去問を入手し横に流す。

しかし、EMCでは違う。シラバスと睨め合う学生はいない。そんな無意味な履修登録は行われない。学生が自分の興味関心に基づき、教員の方々のタグを調べ、その授業が自分にマッチするようであれば、履修登録をする。

たくさん授業を取る必要も無い。授業内容に関しては、身につく力、得られる知見、経験が明確である。EMCで求められる力は、いわゆる実践力プレゼン能力だったり、グループをまとめる力世の中の課題を見つけ、「自分事にする能力」だ

必然的に、このような力をペーパーテストで測ることはできない。

「単位を取る」という側面からEMCを評価すると、ここほど楽な場所はない。

しかし、学生と教員に共通認識としてあるのは、単位の先にある「社会を創る上での実戦力」を身につけられる環境づくりであり、それが、EMCの魅力であると、入学してからの1年間で感じた」。

by 笠倉知弥(武蔵野EMC第1期生)

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みんな違って、みんないい。

そもそも人間は、もって生まれた才能も違うし、興味を持つ対象も異なる。性格も背格好も違う。

誰もが大谷翔平や羽生結弦になれるわけじゃない。持って生まれた才能が無ければ、努力しても花は咲かない。それが現実だ。

でも、自分が親からもらった才能や能力を最大限に活かすことは誰にでもできる。それさえせず、他人を羨んでも仕方ない。

武蔵野EMCは、多種多彩な学生が集まっており、同じ基準で比較することは意味がないことを教えてくれる。

「他人の夢を笑わない」EMCの魅力を伝えるエピソードVol.4 は「寮生活」にまつわるストーリーだ。

「今まで自分のまわりには、大学進学を目指してため勉強している人しかいなかった。

ところが、EMCに入ってみると、髪をピンクに染めている人、ピアスをしている人、めちゃくちゃウェーイな人など、アイドルになりたい!と宣言する人など、今までの自分の人生には存在しなかった、とにかくぶっ飛んでいる人がたくさんいた。

EMCの最初の一年は「寮」で生活を共にする。そんな型破りな同級生たちが怖くなり、一週間、部屋に引きこもり、鬱寸前まできた。

その後、ある女子から話しかけられて話してみると、とても面白い人で、その彼女のお陰で色々な人と関われるようになった。それまでの固定観念が崩れて、見た目だけの偏見で物事を見るべきではないと思った」。

by 紺野勝太(武蔵野EMC第1期生)

「みんな違って、みんないい」。この世の中に、誰一人として、同じ人はいない。EMCは、そのことを教えてくれる。

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スライダーは投げなければ習得できない。

ドリームビジョンの事業を整理し、晴耕雨読ならぬ「晴『読』雨読」生活を送っていた頃、読書の合間にゴルフのレッスンに通っていた。

どうすれば、より飛距離が伸びるのか? バンカーからボールを出すにはどうすればいいのか? アプローチには、どのような種類があり、どんなメリットとデメリットがあるのか?等、様々な「理論」を学んだ。

ベストスコアは「89」。今までに計3回、89で回ったことがある。たいしたスコアではないが、何度か100を切ったことがあるレベルだった僕が80台のスコアを出すことができたのは、ゴルフの「理論」を学んだからだ。

僕が通っていたのは、片山晋呉プロのコーチ(当時)として有名な谷将貴さんが経営しているスクール。片山晋呉さんにも一度だけ、そのスクールでお会いしたことがある。僕が「応援しています。頑張って下さい!」と言うと、「ありがとうございます!」と気さくに返事をしてくれた。

ところで、他人の夢を笑わない」武蔵野EMCの魅力を伝えるエピソードVol.3 は「理論と実践」に関する話だ。今年3月まで12年間、法政大学経営大学院(MBA)で教えていた僕にとって、身近なテーマでもある。

「僕は甲子園を目指して、野球に打ち込んでいた。残念ながら、甲子園へのキップを得ることはできなかったが、野球を通じて学んだことがある。

僕はピッチャーではなかったが、ストレートの球速を上げるためにも、切れ味の良いスライダーを投げるためにも、セオリー(理論)がある。バッターとして、どうすれば飛距離が伸びるのか? それにも理論がある。

但し、問題は「理論を学んだだけでは、野球は上達しない」ということだ。野球だけじゃない。自転車に乗れるようになるためにも、サッカーも水泳も、いくら技術本、理論の解説書を読み漁っても、実際にやってみなければ、何事もできるようにはならない。

それは「起業」も同じだと思う。

僕はいわゆる『学生起業家』だが、実際に起業してみて、初めて分かったことがたくさんある。創業メンバーとどうやって理念を共有し、同じ目的に向かって事業を推進していくのか? まだまだ分かったようなことは言えないが、理想と現実の違いを嫌というほど知らされた。

武蔵野EMCの教員の方々は、全員が現役の起業家やベンチャーキャピタリスト、新規事業の責任者だ。

「経験者の言葉」は重みが違う。「起業家」として様々な辛い経験をし、何度挫折しても挑戦し続けたからこそ、今がある。

そんな先生たちを、僕は尊敬している。僕もそんな大人になりたいと思う!」

by 大武優斗(武蔵野EMC第1期生)@VEL_yuto

彼には是非、10年後か20年後か分からないが、武蔵野EMCに戻ってきて、教員として後進の育成に取り組んで欲しい。Top Gun : Maverick のようにね(w)!

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他人の夢を笑わない。

僕も創設に携わった武蔵野大学アントレプレナーシップ学部(通称:武蔵野EMC=Entrepreneurship Musashino Campus)は、とてもユニークな学部だ。

教員は全員が現役の起業家やベンチャーキャピタリスト等。学生も多種多様でユニークな面々が集まっている。年齢的には僕の子供のような人たちだ。その彼・彼女たちとの交流から、様々な学びと刺激を受けている。

他人の夢を笑わない」というのは、武蔵野EMCの魅力を端的に表している。僕が担当する授業で、何人かの学生が異口同音に口にした言葉だ。

僕は、その言葉を自分のブログのタイトルとして、拝借することにした。

そして、そのタイトル以外にも是非、僕のブログを読んでくれる方々に知って欲しい武蔵野EMCの魅力がある。それを僕が担当するクラスの学生たちと一緒に考えた。これからひとつずつ、僕のブログで紹介していくことにする。

武蔵野EMCの魅力を伝えるブログ Vol.1

「私の夢はずっと『アイドル』でした。同時に『私なんかが・・・』と諦めていました。でも、EMCに入り、皆が夢を応援しあう姿を見て、『もしかしたら私も』と思い、授業内のプレゼンで「アイドルになりたいです!」と言ってみました。

『あなたが?』と引かれるのが怖かったけれど、皆から返ってきたのは、たくさんの拍手と『頑張れ!』でした。

EMCじゃなければ、自分の夢を認められない人生を後悔していたと思います。あの日のおかげで今は着実に夢に近づいています。

あなたの夢もここで叶えませんか?」

by 重久紀香(武蔵野EMC第一期生)

彼女はまだ、夢の途中にいる。敢えて、厳しいことを言えば、その夢が叶うかどうかは何も保証されていない。でも、その夢に向かって一歩、踏み出さなければ、絶対にその夢は実現しない。

ところで、「希望学」という学問があることをご存じだろうか?

東京大学の玄田有史教授が中心となって始められた研究だ。

玄田教授たちが2005年に実施した調査によると、小学6年当時で「71%」、中学3年当時で「66%」が、自分の将来において、何らかの具体的な「希望する職業」があったそうだ。

しかし、その希望は多くの場合、実現していない。

希望していた職業に就いた経験がある人の割合は、中学3年の希望については15%、小学6年の希望に至っては、僅か8%に過ぎない。つまり、子どもの頃に希望した職業に就くことは実現困難ということだ。

では、将来に対する「希望」や「夢」を持つことは無意味なのか?

しかし、前述の調査結果によると、希望を持つことが、将来の職業選択や人生にに大きな影響を与えているという。

具体的には、小学6年生の時に希望する職業があったとする人々の場合、「86%」が仕事において「やりがい」を経験したことがあると答えているのに対して、希望が無かった人々の場合、その割合は77%に留まっている。

さらに、希望には、個人的な精神充実に留まるものもあれば、個人が希望を持って行動した結果として、それが何らかの「社会的な影響」を及ぼすものまである。

つまり、より多くの人々が希望を持てる社会を実現することは、活力に満ちた社会を実現することに繋がるということだ。

日本は、特に若者が将来に対して希望を持ちにくい国だという。

そんな日本を変えるべく創設されたのが、武蔵野EMCだ。

会社に入るか、社会を創るか」。

自分の思考と行動で、世界をより良い場所にできると本気で信じる人を増やす」。

これが、武蔵野EMCの理念であり、我々が目指すものである。

是非一度、武蔵野大学オープンキャンパスにいらしていただき、その空気を感じて欲しい。

妻の入院とスープカレー。

「眼の前が真っ暗になり、歩けない・・・」。そう言って電話を掛けてきたのは、今週の月曜日(7/18)。勤務先からの帰宅途中だった。

高2の長男を迎えに行かせて、何とか帰宅したのが18時少し前。メニエル病の持病がある妻は、激しい目眩と激しい腹痛を訴えており、そのまま横になっていれば治るという感じではなかった。

救急車を呼ぼうと思い、119番に電話するも、話し中で一向に繋がらない。東京都の救急対応相談窓口があり、そこに電話をするも同様な状況だった。30分ぐらいしただろうか。ようやく繋がったので事情を説明すると、とにかく、119番に掛け続けて下さいという。繋がらないので、そちらに電話をしたというと、とにかく、繋がるまで掛けて、繋がったら、相手が電話に出るまで鳴らしっぱなしにして待って下さい、という。そんなこんなで、救急車を呼ぼうと思い、電話を掛け始めてから、救急車が来てくれるまで、3時間を要した。尚且つ、救急車に妻を乗せてもらった後、救急隊員が受け入れ先の病院に片っ端から電話をしている。受け入れ先が見つかるまで、20分・・・。

結果的には虫垂炎(いわゆる盲腸)で、命に別状はないが、これが脳梗塞等、一刻を争う病気だったら、どうなっていただろうか?

コロナ対応に力を入れるのは良いが、そのせいで、他の重篤な病気の方で救えるはずの命が救えなかったということが、間違いなく、起きているだろう。それでいいはずがない。

日本は、あまりにコロナに過剰反応しているとしか思えない。BA5は感染力が強いというが、重症化リスクは少ないと聞いている。先月、約2年半ぶりにヨーロッパへ出張した際、ロンドンでもアムステルダムでも、98%程度の割合で、殆どの人がマスクをしていなかった。ここでも日本はまた「ガラパゴス」だ。

さて、話を妻の入院に戻すと、二人の子どもの食事の世話や買い物、洗濯など、とにかく忙しい。もちろん、仕事もしているわけで、子どもたちに夕食を食べ終わらせた頃には、もうヘトヘトである。

今までも、妻が乳がんの手術で入院したことがあったが、今回は、いつもの「キャベツスープ」だけでなく、今までに作ったことのない料理を作ろうと思い、様々な新メニューにチャレンジした。今日は「土用の丑の日」で「鰻」を買ってきたが、それだけでなく、ゴーヤチャンプルーを作った。

妻が入院した次の日、いつものスーパーに買い物に行き、人参、玉ねぎ、じゃがいもを買い物かごに入れていたところ、目の前に「スープカレー」の素が置いてあるのが目に入った。本当は普通のカレーを作るつもりだったのだが、予定を変更し、スープカレーを作ることにした。その瞬間、ひとりの消費者として初めて、クロスセルの効果を実感した。

朝起きたらその日の天気予報を確認し、朝食を用意している間に洗濯機のスイッチを押す。ブロッコリーを茹でている間に豚肉を炒める。数日先の献立を考えながらスーパーに行く。時間は限られている。

僕のような凡人は、当事者にならないと分からない。そのことを理解した。

下北沢と西荻窪。

学生時代の僕は、弟と一緒に下北沢に住んでいた。

弟は、弁護士を目指して司法試験の勉強をしていたが、父が他界し、何年に渡るか分からない、さらに言えば、何年挑戦しても合格する保証のない司法試験への挑戦を断念し、実家の福島県郡山市に帰ることになった。そして、僕は仕方なく、下北沢を離れた。その数年後、弟は念願の司法試験に合格した。

弟と二人で住み始めた頃の下北沢は、休日の午前中、トレーナーで買い物に行っても大丈夫だったが、いつしか人気の街になり、週末はHanakoを片手にしたカップルや女子で溢れるようになった。今にして思うと、日本社会がバブル経済に向かう時期だった。毎年のように家賃が高くなっていき、ひとりで払うのは無理があった。

後ろ髪を引かれながら下北沢を諦め、1987年の夏、汗だくになりながら引っ越ししたのは、代々木八幡にあった風呂なしのアパートだった。窓の外は小田急線。窓を開けると、電車の中の人が見えた。救いは、アパートの斜向いに銭湯があったことだ。

さすがに、そのアパートに住み続けるのは耐えらず、僕は井の頭線の東松原から徒歩6-7分、小田急線の梅ヶ丘からも徒歩8分程度のところに移り住んだ。いわゆるプレハブの安アパートだったが、築浅で日当たりがよく、まあまあ快適だった。下北沢に戻りたかったが、安月給の僕には無理だった。

2年ぐらい住んだだろうか? 僕は井の頭線の久我山に引っ越した。都心からはだいぶ遠くなったが、急行なら渋谷から15分。さらに3駅乗れば、吉祥寺。僕は久我山が気に入り、6−7年、住んでいた。

妻は東京生まれの東京育ちだが、方向音痴なのと、生まれ育った東急沿線とは雰囲気が異なり、久我山は好きではなさそうだった。

当時の僕は、株式会社クリードエクセキュートという、ちっぽけな会社を経営していたが、ある時、主力事業(という程の規模ではなかったが)だったDTP(Desktop Publishin)のビジネスからスパッと撤退した。1億5,000万円あった売上が、翌年には1,800万円に激減。僕たち夫婦は経済的に困窮した。

僕は、人生の「何かを変える必要がある」気がしていた。

大前研一氏は、人生を変えるためには、3つの方法しかないと言っている。それは、1. 付き合う人を変える。2. 時間の使い方を変える。そして、3. 住む場所を変える。だった。

他力本願ではなく、自分の意思で変えられることは何か? と考えた僕は、妻の土地勘のある東急線のエリアに引っ越しをすることにした。

妻は、どうせまた途中でやっぱり「東急沿線は止めた」となるだろうと思っていたらしいが、引っ越した先は、目蒲線(現目黒線)と大井町線が交差する「大岡山」という場所だった。既に他界してしまったが、妻の叔母が住んでいた2階建ての戸建ての1階部分に移り住んだ(叔母は代々木上原に引っ越した)。小さな庭も付いていた。

大岡山は、東京でも有数の高級住宅街で、近所には映画監督の篠田正浩氏と女優の岩下志麻さん夫妻の豪邸があった。

高級住宅街の一角の小さな戸建ての家は、住心地は良かったが、その頃の僕たちは、人生で最も貧乏な時代だった。拙著「挫折のすすめ」にも書いたが、3つではなく、4つ100円で売っていた名もないメーカーの納豆しか買えなかった。

詳細は割愛するが、その後、幸運にもネットバブルの最終列車に飛び乗ることができた僕は、ビットバレーの起業家のひとりとしてメディアにも取り上げられるようになり、創業メンバーのひとりとして立ち上げたウェブクルーは2004年9月21日、東証マザーズに上場した。社長(共同創業者)として立ち上げたインタースコープは、ネットリサーチ業界の御三家の一角として数えられるようになり、2007年2月、Yahoo! Japan にM&Aで売却した。

それから8年後の2015年。スーパーマーケットやレストランの店内で野菜を栽培するテクノロジーの開発に取り組んでいた、ベルリン発のInfarm というスタートアップと知り合った。僕が経営していたサンブリッジ グローバルベンチャーズという会社で主催していたInnovation Weekend というピッチイベントを、初めてベルリンで開催した時だった。

当時のInfarmは、プロトタイプのInStore Farm が一台あるだけだったが、3人の創業者と会い、彼らであれば、この壮大なビジョンを具現化できるだろうと思い、事業計画等は一切検討せず、投資をした。

リクルート創業者の江副さんの著書「かもめが翔んだ日」には、痛く心を揺さぶられた。

インタースコープを経営していた頃だった。僕にとっての初めての著作「自分でできるネットリサーチ」の原稿を書かなければいけなかったのだが、そんなことはお構いなしに、渋谷マークシティのスターバックスで、人目を憚らず、泣きながら「かもめが翔んだ日」を読んでいた。

「元リク」のある方から「平石さんは『自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ』を実践されていますよね」と言われたことがある。

その時は、そんなもんかな・・・という程度にしか思わなかったが、改めて振り返ってみると、まんざらそうでもないか、と思う。ネットベンチャーの後、教育関連の事業を行おうとしたり(それは上手く行かなかった)、その後はスタートアップに投資する側になり、極小規模ながらファンドを組成し、今度は、アグリテックといえば聞こえは良いが、野菜を栽培し、スーパーマーケットで販売する事業の日本法人を設立したりと、たしかに、自ら新しい機会を創り出し、それに取り組んで来た。

快晴の土曜日。JR中央線「西荻窪駅」構内に入っている「紀ノ国屋」に行った。店内で「収穫作業」をしてくれているスタッフの陣中見舞いのためだ。因みに、彼女の入社日は、僕の誕生日である。

西荻窪は閑静な住宅街でありながらサブカルチャー的な雰囲気を併せ持っており、どこか下北沢に似た雰囲気がある。ユニークな飲食店もたくさんある。

土曜日はいつもそうなのだが、自宅から西荻窪に向かう道は渋滞が激しい。

Google Map の推薦を信用し、環七から梅ヶ丘へ向かう道を入り、梅ヶ丘駅前を右折。北沢警察署の前を通り過ぎ、突き当りを左折した。角にあったガソリンスタンドはファミリーマートに姿を変え、僕が住んでいたアパートは無かったが、未熟だった20代の頃の自分を思い出した。

最近の僕は、若かった自分を思い出しては哀しい気持ちになる。ノスタルジーで片付けてしまうのはどうにもしっくりこない。その感情の源泉は何なのだろう?

ここには書いていないことも含めて、辛いことはたくさんあったが、それでも、僕の人生は幸運に恵まれている。20代の頃の自分はあまりにも未熟で危なっかしく、よくまあこうしてやって来れたなあと思う。

そんな人生もいつかは終りが来る。生きていることは、それだけで素晴らしいし、そう思える人生を送れているのは、とても幸せなことだ。そんな幸せな人生が砂時計のように残り少なくなっていくのは、どうにもやり切れない。

懐かしい住宅街の道を走りながら、自分の気持ちに気がついた。

中川とポルシェ。

ブログに書くほどではないかとも思ったが、前回の投稿からだいぶ時間が経っていることもあり、文字にしておくことにした。気になって読んだコラムに衝撃を受けたので。

大学生の頃、一冊1,000円もするカーグラフィックという月刊誌を毎月買っていた。大学進学で上京後、2年目から一緒に住むようになった弟もクルマが好きで、2人で知識だけは増えていった。当然、クルマを買えるお金があるわけもなく、カーグラで学んだ知識をもとに、2人でクルマ談義をするだけだったが、それも楽しかった。

大学2年生の頃だったと思うが、マツダのファミリアという2ボックス、色は「赤」が大人気になり、僕はレンタカーで赤のファミリアを借りてドライブに出かけたりした。こうして文字にしてみて改めて思い出したが、当時は、クルマを運転すること自体を目的にして出掛けることをドライブと言っていた。そして、ドライブの最中に聴くためにお気に入りの音楽を録音した「カセットテープ」と一緒に、楽しい娯楽として機能していた。1980年代のことである。

気になって読んだコラムは「松任谷正隆さん」が毎月、JAF Mate に寄稿されているものだが、その結末に、僕は思わず「えっ!」と声をあげてしまった。

僕と同年代以上の方には説明するまでもないと思うが、彼は無類のクルマ好きで知られている。本業の音楽活動に加えて、クルマ関係のコラムを書いたり、今は無いと思うが、以前はカーグラフィックTVというテレビ番組があり、そのパーソナリティをしていたりした。

今月号のコラムには、彼の本業の音楽活動に関することが書いてあり、奥さんでもあるユーミンのツアーバンドのギタリストして活躍されていた中川さんという方のことが紹介されていた。

彼もクルマが好きだったらしく、松任谷さんの影響で、ポルシェに乗っていたそうだが、ある年の苗場でのユーミンのライブを最後に病気が見つかり、あっけなく他界されてしまったそうだ。

そして亡くなられる直前に、ご自分でポルシェを処分されたという。

そのことを後で伝え聞いた松任谷さんは、「その時の彼の気持ちを思うと、今でも胸が張り裂けそうになる」と綴っていた。

昭和の高度経済成長期に生まれ育った人間に共通する価値観なのか、クルマは経済的成功のシンボルのひとつだ。カーグラフィックを読んでいた大学生の頃から20年後、創業に関わったウェブクルーというスタートアップのIPOで得たキャピタルゲインで、BMW Z4 3.0i を買った。人生で初めて買ったクルマだった。そんな僕も人生で一度は、ポルシェのオーナーになりたいと思っている。

大学生の頃ほどクルマに対する関心は無くなったが、それでもクルマが好きなのと、松任谷正隆さんのファンでもある僕は、とても楽しく、そのコラムを読み進めていたのだが、最後の最後で、中川さんという寡黙なギタリストの最後を知り、想定外の結末に、心が動揺した。

自分でも何を伝えたいのか? 何を文字に残しておきたいのか? 整理できていないが、会ったこともない中川さんというギタリストの人生から、何かを訴えられている気がした・・・。

※出典:写真はポルシェ・ジャパンのウェブサイトよりスクリーンショット。