濃厚な寮生活。

いつどこにいてもSNSで繋がれる今の時代、「寮」の存在意義は何だろう?

「アントレプレナーシップ(起業家精神)」を学ぶことをテーマに掲げた日本初の学部に集った約70名は、個性豊かなどという月並みな言葉では形容し切れない、男女ともに規格外の若者たち。

そんな彼らが寝食を共にし、自分たちの夢を語り、時に議論を戦わせ、お互いの理解を深める。その場所が、武蔵野EMCの「小平寮」だ。

「他人の夢を笑わない」EMCの魅力を伝えるブログ Vol.7

「毎日、共同生活を送ることで、友達を超えた家族に近い関係の友達が約70人できました。

朝はみんなで学校に行き、みんなで課題をし、夜は人生、価値観について語り合う時間が大変貴重でした。

特に仲良くなれたのはお風呂場でした。裸で語り合う大風呂は、つい声が大きくなり過ぎてしまうほど話に花が咲き、友人関係も広がりました。思い返せば、お風呂で仲良くなった友達もたくさんいました。

嫌というほどお互いを知る。自分を曝け出す環境はストレスになることもありますが、自分の弱みもオープンにして相談できる一生の仲間が多くできたことは、自分にとって、とても貴重なことでした」。

by 佐藤健太(武蔵野EMC第1期生)

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大学にペーパーテストは必要なのか?

「起業家精神」には、幼少期の環境や経験が大きく影響しているらしい。では、どのような環境や経験が起業家精神を育むことに繋がるのだろう?

僕の職業は「起業家」だ。でも、小学生の頃の僕を知る人には、今の僕は想像できないだろう。あるエピソードを紹介したい。

小学校からさらに遡り、幼稚園初日のことだ。

父方の祖父母と一緒に住んでいた僕は、幼稚園から帰宅後、祖母にこう訊かれた。

「泣いた子はいなかったか?」

「1人だけ、いた」。

「誰?」

「僕・・・」。

僕は、園庭の門を開けて、祖母の待つ自宅に、走って帰りたい衝動を必至に押さえていたが、遂に耐えきれず、泣き出してしまった。

小学生の頃は、それほど勉強ができるわけでも、できないわけでもなく、運動神経も発達しておらず、ごく普通の子供だった。

何が要因だったのかは分からないが、中学2年生の頃から、僕は大きく変わったように思う。親しくしていた友人からもそう言われた。

成績も良くなり、学級委員長をしたり、運動もできるようになり、目立つ存在になっていた。成長期は人によって異なるということなのだろう。

また、不良連中とも付き合うようになり、先生にとっては、扱い難い生徒だった。

ドラッカーは「起業家精神とは気質のことではない。何事にも原理原則があり、起業家精神にも原理原則がある。それを学ぶことで、誰でも起業家精神を身につけることができるし、起業家的に生きることもできる」と言っている。

起業家精神を理解する上で、とても大切なことがある。

それは「変化」を「善し」とすることだ。

起業家は必ずしも自ら変化を起こすとは限らない。

但し、変化を機会として利用する

1990年代の後半、数人の仲間と「自動車保険の見積り比較サイト」を立ち上げたのは、56年ぶりの法改正で、自動車保険が「自由化」されたという「変化」に着目したからだ。

それまでは、護送船団方式で、契約者の条件が変わらなければ、どこの保険会社で契約しても、殆ど同じ保証内容だった。それが、保険会社が自由に、保険商品を企画・設計できるようになった。つまり、「比較する」というニーズが生まれたということだ。

ところで、起業家精神は「ペーパーテスト」で測れるのだろうか?

他人の夢を笑わない」武蔵野EMC エピソード Vol.5

「世間一般の方々が想像する従来の大学の学部であれば、毎学期末にレポートの提出がありペーパーテストがある。そして、学生は「単位を取る」という目的に向かって日々の生活を送る。

1タームごとにシラバスと睨みあい、「楽単」で構成された時間割、出席計画をたて、縦の繋がりから過去問を入手し横に流す。

しかし、EMCでは違う。シラバスと睨め合う学生はいない。そんな無意味な履修登録は行われない。学生が自分の興味関心に基づき、教員の方々のタグを調べ、その授業が自分にマッチするようであれば、履修登録をする。

たくさん授業を取る必要も無い。授業内容に関しては、身につく力、得られる知見、経験が明確である。EMCで求められる力は、いわゆる実践力プレゼン能力だったり、グループをまとめる力世の中の課題を見つけ、「自分事にする能力」だ

必然的に、このような力をペーパーテストで測ることはできない。

「単位を取る」という側面からEMCを評価すると、ここほど楽な場所はない。

しかし、学生と教員に共通認識としてあるのは、単位の先にある「社会を創る上での実戦力」を身につけられる環境づくりであり、それが、EMCの魅力であると、入学してからの1年間で感じた」。

by 笠倉知弥(武蔵野EMC第1期生)

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みんな違って、みんないい。

そもそも人間は、もって生まれた才能も違うし、興味を持つ対象も異なる。性格も背格好も違う。

誰もが大谷翔平や羽生結弦になれるわけじゃない。持って生まれた才能が無ければ、努力しても花は咲かない。それが現実だ。

でも、自分が親からもらった才能や能力を最大限に活かすことは誰にでもできる。それさえせず、他人を羨んでも仕方ない。

武蔵野EMCは、多種多彩な学生が集まっており、同じ基準で比較することは意味がないことを教えてくれる。

「他人の夢を笑わない」EMCの魅力を伝えるエピソードVol.4 は「寮生活」にまつわるストーリーだ。

「今まで自分のまわりには、大学進学を目指してため勉強している人しかいなかった。

ところが、EMCに入ってみると、髪をピンクに染めている人、ピアスをしている人、めちゃくちゃウェーイな人など、アイドルになりたい!と宣言する人など、今までの自分の人生には存在しなかった、とにかくぶっ飛んでいる人がたくさんいた。

EMCの最初の一年は「寮」で生活を共にする。そんな型破りな同級生たちが怖くなり、一週間、部屋に引きこもり、鬱寸前まできた。

その後、ある女子から話しかけられて話してみると、とても面白い人で、その彼女のお陰で色々な人と関われるようになった。それまでの固定観念が崩れて、見た目だけの偏見で物事を見るべきではないと思った」。

by 紺野勝太(武蔵野EMC第1期生)

「みんな違って、みんないい」。この世の中に、誰一人として、同じ人はいない。EMCは、そのことを教えてくれる。

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スライダーは投げなければ習得できない。

ドリームビジョンの事業を整理し、晴耕雨読ならぬ「晴『読』雨読」生活を送っていた頃、読書の合間にゴルフのレッスンに通っていた。

どうすれば、より飛距離が伸びるのか? バンカーからボールを出すにはどうすればいいのか? アプローチには、どのような種類があり、どんなメリットとデメリットがあるのか?等、様々な「理論」を学んだ。

ベストスコアは「89」。今までに計3回、89で回ったことがある。たいしたスコアではないが、何度か100を切ったことがあるレベルだった僕が80台のスコアを出すことができたのは、ゴルフの「理論」を学んだからだ。

僕が通っていたのは、片山晋呉プロのコーチ(当時)として有名な谷将貴さんが経営しているスクール。片山晋呉さんにも一度だけ、そのスクールでお会いしたことがある。僕が「応援しています。頑張って下さい!」と言うと、「ありがとうございます!」と気さくに返事をしてくれた。

ところで、他人の夢を笑わない」武蔵野EMCの魅力を伝えるエピソードVol.3 は「理論と実践」に関する話だ。今年3月まで12年間、法政大学経営大学院(MBA)で教えていた僕にとって、身近なテーマでもある。

「僕は甲子園を目指して、野球に打ち込んでいた。残念ながら、甲子園へのキップを得ることはできなかったが、野球を通じて学んだことがある。

僕はピッチャーではなかったが、ストレートの球速を上げるためにも、切れ味の良いスライダーを投げるためにも、セオリー(理論)がある。バッターとして、どうすれば飛距離が伸びるのか? それにも理論がある。

但し、問題は「理論を学んだだけでは、野球は上達しない」ということだ。野球だけじゃない。自転車に乗れるようになるためにも、サッカーも水泳も、いくら技術本、理論の解説書を読み漁っても、実際にやってみなければ、何事もできるようにはならない。

それは「起業」も同じだと思う。

僕はいわゆる『学生起業家』だが、実際に起業してみて、初めて分かったことがたくさんある。創業メンバーとどうやって理念を共有し、同じ目的に向かって事業を推進していくのか? まだまだ分かったようなことは言えないが、理想と現実の違いを嫌というほど知らされた。

武蔵野EMCの教員の方々は、全員が現役の起業家やベンチャーキャピタリスト、新規事業の責任者だ。

「経験者の言葉」は重みが違う。「起業家」として様々な辛い経験をし、何度挫折しても挑戦し続けたからこそ、今がある。

そんな先生たちを、僕は尊敬している。僕もそんな大人になりたいと思う!」

by 大武優斗(武蔵野EMC第1期生)@VEL_yuto

彼には是非、10年後か20年後か分からないが、武蔵野EMCに戻ってきて、教員として後進の育成に取り組んで欲しい。Top Gun : Maverick のようにね(w)!

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他人の夢を笑わない。

僕も創設に携わった武蔵野大学アントレプレナーシップ学部(通称:武蔵野EMC=Entrepreneurship Musashino Campus)は、とてもユニークな学部だ。

教員は全員が現役の起業家やベンチャーキャピタリスト等。学生も多種多様でユニークな面々が集まっている。年齢的には僕の子供のような人たちだ。その彼・彼女たちとの交流から、様々な学びと刺激を受けている。

他人の夢を笑わない」というのは、武蔵野EMCの魅力を端的に表している。僕が担当する授業で、何人かの学生が異口同音に口にした言葉だ。

僕は、その言葉を自分のブログのタイトルとして、拝借することにした。

そして、そのタイトル以外にも是非、僕のブログを読んでくれる方々に知って欲しい武蔵野EMCの魅力がある。それを僕が担当するクラスの学生たちと一緒に考えた。これからひとつずつ、僕のブログで紹介していくことにする。

武蔵野EMCの魅力を伝えるブログ Vol.1

「私の夢はずっと『アイドル』でした。同時に『私なんかが・・・』と諦めていました。でも、EMCに入り、皆が夢を応援しあう姿を見て、『もしかしたら私も』と思い、授業内のプレゼンで「アイドルになりたいです!」と言ってみました。

『あなたが?』と引かれるのが怖かったけれど、皆から返ってきたのは、たくさんの拍手と『頑張れ!』でした。

EMCじゃなければ、自分の夢を認められない人生を後悔していたと思います。あの日のおかげで今は着実に夢に近づいています。

あなたの夢もここで叶えませんか?」

by 重久紀香(武蔵野EMC第一期生)

彼女はまだ、夢の途中にいる。敢えて、厳しいことを言えば、その夢が叶うかどうかは何も保証されていない。でも、その夢に向かって一歩、踏み出さなければ、絶対にその夢は実現しない。

ところで、「希望学」という学問があることをご存じだろうか?

東京大学の玄田有史教授が中心となって始められた研究だ。

玄田教授たちが2005年に実施した調査によると、小学6年当時で「71%」、中学3年当時で「66%」が、自分の将来において、何らかの具体的な「希望する職業」があったそうだ。

しかし、その希望は多くの場合、実現していない。

希望していた職業に就いた経験がある人の割合は、中学3年の希望については15%、小学6年の希望に至っては、僅か8%に過ぎない。つまり、子どもの頃に希望した職業に就くことは実現困難ということだ。

では、将来に対する「希望」や「夢」を持つことは無意味なのか?

しかし、前述の調査結果によると、希望を持つことが、将来の職業選択や人生にに大きな影響を与えているという。

具体的には、小学6年生の時に希望する職業があったとする人々の場合、「86%」が仕事において「やりがい」を経験したことがあると答えているのに対して、希望が無かった人々の場合、その割合は77%に留まっている。

さらに、希望には、個人的な精神充実に留まるものもあれば、個人が希望を持って行動した結果として、それが何らかの「社会的な影響」を及ぼすものまである。

つまり、より多くの人々が希望を持てる社会を実現することは、活力に満ちた社会を実現することに繋がるということだ。

日本は、特に若者が将来に対して希望を持ちにくい国だという。

そんな日本を変えるべく創設されたのが、武蔵野EMCだ。

会社に入るか、社会を創るか」。

自分の思考と行動で、世界をより良い場所にできると本気で信じる人を増やす」。

これが、武蔵野EMCの理念であり、我々が目指すものである。

是非一度、武蔵野大学オープンキャンパスにいらしていただき、その空気を感じて欲しい。

下北沢と西荻窪。

学生時代の僕は、弟と一緒に下北沢に住んでいた。

弟は、弁護士を目指して司法試験の勉強をしていたが、父が他界し、何年に渡るか分からない、さらに言えば、何年挑戦しても合格する保証のない司法試験への挑戦を断念し、実家の福島県郡山市に帰ることになった。そして、僕は仕方なく、下北沢を離れた。その数年後、弟は念願の司法試験に合格した。

弟と二人で住み始めた頃の下北沢は、休日の午前中、トレーナーで買い物に行っても大丈夫だったが、いつしか人気の街になり、週末はHanakoを片手にしたカップルや女子で溢れるようになった。今にして思うと、日本社会がバブル経済に向かう時期だった。毎年のように家賃が高くなっていき、ひとりで払うのは無理があった。

後ろ髪を引かれながら下北沢を諦め、1987年の夏、汗だくになりながら引っ越ししたのは、代々木八幡にあった風呂なしのアパートだった。窓の外は小田急線。窓を開けると、電車の中の人が見えた。救いは、アパートの斜向いに銭湯があったことだ。

さすがに、そのアパートに住み続けるのは耐えらず、僕は井の頭線の東松原から徒歩6-7分、小田急線の梅ヶ丘からも徒歩8分程度のところに移り住んだ。いわゆるプレハブの安アパートだったが、築浅で日当たりがよく、まあまあ快適だった。下北沢に戻りたかったが、安月給の僕には無理だった。

2年ぐらい住んだだろうか? 僕は井の頭線の久我山に引っ越した。都心からはだいぶ遠くなったが、急行なら渋谷から15分。さらに3駅乗れば、吉祥寺。僕は久我山が気に入り、6−7年、住んでいた。

妻は東京生まれの東京育ちだが、方向音痴なのと、生まれ育った東急沿線とは雰囲気が異なり、久我山は好きではなさそうだった。

当時の僕は、株式会社クリードエクセキュートという、ちっぽけな会社を経営していたが、ある時、主力事業(という程の規模ではなかったが)だったDTP(Desktop Publishin)のビジネスからスパッと撤退した。1億5,000万円あった売上が、翌年には1,800万円に激減。僕たち夫婦は経済的に困窮した。

僕は、人生の「何かを変える必要がある」気がしていた。

大前研一氏は、人生を変えるためには、3つの方法しかないと言っている。それは、1. 付き合う人を変える。2. 時間の使い方を変える。そして、3. 住む場所を変える。だった。

他力本願ではなく、自分の意思で変えられることは何か? と考えた僕は、妻の土地勘のある東急線のエリアに引っ越しをすることにした。

妻は、どうせまた途中でやっぱり「東急沿線は止めた」となるだろうと思っていたらしいが、引っ越した先は、目蒲線(現目黒線)と大井町線が交差する「大岡山」という場所だった。既に他界してしまったが、妻の叔母が住んでいた2階建ての戸建ての1階部分に移り住んだ(叔母は代々木上原に引っ越した)。小さな庭も付いていた。

大岡山は、東京でも有数の高級住宅街で、近所には映画監督の篠田正浩氏と女優の岩下志麻さん夫妻の豪邸があった。

高級住宅街の一角の小さな戸建ての家は、住心地は良かったが、その頃の僕たちは、人生で最も貧乏な時代だった。拙著「挫折のすすめ」にも書いたが、3つではなく、4つ100円で売っていた名もないメーカーの納豆しか買えなかった。

詳細は割愛するが、その後、幸運にもネットバブルの最終列車に飛び乗ることができた僕は、ビットバレーの起業家のひとりとしてメディアにも取り上げられるようになり、創業メンバーのひとりとして立ち上げたウェブクルーは2004年9月21日、東証マザーズに上場した。社長(共同創業者)として立ち上げたインタースコープは、ネットリサーチ業界の御三家の一角として数えられるようになり、2007年2月、Yahoo! Japan にM&Aで売却した。

それから8年後の2015年。スーパーマーケットやレストランの店内で野菜を栽培するテクノロジーの開発に取り組んでいた、ベルリン発のInfarm というスタートアップと知り合った。僕が経営していたサンブリッジ グローバルベンチャーズという会社で主催していたInnovation Weekend というピッチイベントを、初めてベルリンで開催した時だった。

当時のInfarmは、プロトタイプのInStore Farm が一台あるだけだったが、3人の創業者と会い、彼らであれば、この壮大なビジョンを具現化できるだろうと思い、事業計画等は一切検討せず、投資をした。

リクルート創業者の江副さんの著書「かもめが翔んだ日」には、痛く心を揺さぶられた。

インタースコープを経営していた頃だった。僕にとっての初めての著作「自分でできるネットリサーチ」の原稿を書かなければいけなかったのだが、そんなことはお構いなしに、渋谷マークシティのスターバックスで、人目を憚らず、泣きながら「かもめが翔んだ日」を読んでいた。

「元リク」のある方から「平石さんは『自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ』を実践されていますよね」と言われたことがある。

その時は、そんなもんかな・・・という程度にしか思わなかったが、改めて振り返ってみると、まんざらそうでもないか、と思う。ネットベンチャーの後、教育関連の事業を行おうとしたり(それは上手く行かなかった)、その後はスタートアップに投資する側になり、極小規模ながらファンドを組成し、今度は、アグリテックといえば聞こえは良いが、野菜を栽培し、スーパーマーケットで販売する事業の日本法人を設立したりと、たしかに、自ら新しい機会を創り出し、それに取り組んで来た。

快晴の土曜日。JR中央線「西荻窪駅」構内に入っている「紀ノ国屋」に行った。店内で「収穫作業」をしてくれているスタッフの陣中見舞いのためだ。因みに、彼女の入社日は、僕の誕生日である。

西荻窪は閑静な住宅街でありながらサブカルチャー的な雰囲気を併せ持っており、どこか下北沢に似た雰囲気がある。ユニークな飲食店もたくさんある。

土曜日はいつもそうなのだが、自宅から西荻窪に向かう道は渋滞が激しい。

Google Map の推薦を信用し、環七から梅ヶ丘へ向かう道を入り、梅ヶ丘駅前を右折。北沢警察署の前を通り過ぎ、突き当りを左折した。角にあったガソリンスタンドはファミリーマートに姿を変え、僕が住んでいたアパートは無かったが、未熟だった20代の頃の自分を思い出した。

最近の僕は、若かった自分を思い出しては哀しい気持ちになる。ノスタルジーで片付けてしまうのはどうにもしっくりこない。その感情の源泉は何なのだろう?

ここには書いていないことも含めて、辛いことはたくさんあったが、それでも、僕の人生は幸運に恵まれている。20代の頃の自分はあまりにも未熟で危なっかしく、よくまあこうしてやって来れたなあと思う。

そんな人生もいつかは終りが来る。生きていることは、それだけで素晴らしいし、そう思える人生を送れているのは、とても幸せなことだ。そんな幸せな人生が砂時計のように残り少なくなっていくのは、どうにもやり切れない。

懐かしい住宅街の道を走りながら、自分の気持ちに気がついた。

あの日。

人生は短いよ。人生100年時代とか言うけど。若い日々は、あっと言う間に通り過ぎる。

子供の頃にお世話になった叔父さんや叔母さんたちが旅立ってしまう年齢になったせいか、子供の頃や自分が若かった頃のことを思い出す。

父は珍しく、急いでいた。制限速度を超えているのは、小学生の僕にも分かった。長い坂道を父のクルマで病院に向かっていた。小学校4年生か5年生の頃だったと思う。あれが人生で初めての入院だった。

地元の総合病院で働いていた父は、とても仕事が忙しかったようで、一緒に遊んでもらった記憶は無い。時々、どこどこに連れて行くという約束をしては、いつも前日になって、仕事が入ってしまい、連れていけなくなった・・・と言っていた。母は、子どもたちを遊びに連れて行ってあげたいという気持ちは分かるけと、行けなくなるとガッカリさせるだけなので、本当に行けることが確実になるまで、何も約束しない方がいいでしょう、と父に言ってた。

コロナ禍の中、息を引き取った叔父は、僕が高校生の時、大雪が降った日、バンドの練習で楽器を運ぶためにクルマを出してくれた。僕の父親(彼にとっては義理の兄)に対する手前もあっただろうけど、本当に他人に優しい、素晴らしい人だった。残念ながら、告別式には参列できなかった。

思い出せば、長男は幼少の頃から気難しく、神経質だった。数学が得意で、Garage Band で作曲を始めた彼の姿を見て、一昨年のクリスマスに、僕は彼にMacBook を買ってあげた。妻に似て、金銭感覚がシビアで、最初は「どうして、そんな高額なものを買ってきてしまったんだ・・・」と涙を流しそうにしていたが、音楽ユニットを結成し、今ではFinal Cut Pro等を使いこなし、昨年の夏には、FMラジオにも出演した。

この両親からどうしてこういう天真爛漫な人間が生まれて来たのか?と思うほど、次男は底抜けに明るく、社交性に優れており、誰とでもすぐに友達になれる。アフタースクールのキャンプでバスに乗る時も、隣が知らない子だろうがまったく気にせず、帰って来る頃には仲良しになっている。長男のような理系の脳ではないと思うが、兄の様子を見様見真似で、Garage Band で作曲をしたりしている。週末は、友達の家に行ったり、彼らを我が家に呼んだりと、学年の違う子どもたちとも楽しく遊んでいる。

彼らがいなかったら、去年の紅白をみるまで、きっとヨアソビは知らなかったし、ヨルシカもね。

田坂広志さんがご自身のブログか何かで若さの貴重さに気づくのは、残念ながら、若さを失った時だということを仰っていた。その時は、理屈としては理解していたが、今になって、哀しいほど、その意味を実感する。

そりゃいろいろあるけど、生きていることは、それだけで素晴らしい。そう思える人生を送れていることに、感謝しかない。

人生は短いね。