泥のように働く!!

たまたま、今月は「木曜日」のブログの更新ができない。4週連続で更新無し。

その「木曜日」は、妻の仕事が休みの日だが、昨日は、大学関係の集まりがあるとのことで、夕方から出掛けていった。

従って、僕が子供に夕食を食べさせ、その後、お風呂に入れて寝かせることになる。

いつもとペースが狂うせいか?それとも「火・水」と連日で夜遅くまで出掛けていたせいか、昨夜は、お風呂から出てくると眠くなり、子供を寝かしつける前に、自分が眠たくなってしまった。

ところで、「火・水」は、独立行政法人 情報処理推進機構(IPA)主催の「IPAX 2009」という大きなカンファレンスがあり、僕もパネルディスカッションのコーディネーターを仰せつかったことは、前回のエントリーで書いたとおりだが、場違い?にも関わらず、とても楽しい2日間だった。

何が楽しさの要因だったかというと、結局は、一緒に仕事をさせていただいた「人たち」である。

僕がご一緒させていただいた「未踏LIVE」の運営を担当されていたプロジェクトニッポン(ドリームゲート運営事務局)の松谷さん、榎本さんという旧知のふたりはもちろん、今回が初めてだった同じくプロジェクトニッポンの河村さん、そして、何と言っても、IPA理事長の西垣さん(元NEC社長)と総務部長の北谷さんのお人柄が、関係者全員を温かい雰囲気に包んでいた。

西垣さんは、ドリームゲート・アワードの審査委員でもあり、昨年の表彰式でスピーチを拝聴し、そのお人柄を感じてはいたが、2日目の意見交換会の会場でご挨拶をさせていただき、ビジネスの話をさせていただいたが、NECという日本を代表する企業のトップをされていた方とは思えないほど、とても気さくな方だった。

その殆どが学生か20代であるIPA認定の「スーパークリエイター(天才プログラマー)」に対しても、また、僕のような人間に対しても、上から目線ではなく、同じ人間として話をして下さる姿勢には、ちょっとした感動を覚えた。

ところで、その西垣さんが学生との対談形式のイベントか何かで、「(若いうちは)10年ぐらいは、泥のように働け!!」という趣旨の発言をされたことが、あるブログか何かで批判され、いわゆる「炎上」したという話を伺った。

でも、僕は、西垣さんの仰るとおりだと思う。

そういう僕も、20代の頃は、いわゆる「雑巾がけ」をさせられていたし、一生懸命にやっていた。

36才にの時に創業したインタースコープの立ち上げ期には、月間「300時間」以上も働いていた。

でも、ベンチャーを立ち上げるということは、そのぐらい働くのが「普通」である。

何かを成し遂げたいなら。特に、若いうちは・・・。

一方、ここ1~2年は、体力の衰えが顕著になり、20代30代の頃のような働き方は出来ないが、でも、その「気持ち」や「姿勢」を忘れてはいけないとうことを、IPAX 2009 に関与させていただいたお陰で、思い出すことができた。

最近になく、とても楽しい2日間だった。

最後に、IPAX 2009関係者の皆様に、心からお礼を申し上げます。

「原点」に返る。

昨日は、僕がインタースコープ時代に大変お世話になったETICの山内さんと久しぶりにお会いした。

ETICも新たなステージに向けて挑戦をしようとしているらしく、そのことに関して、僕の意見を求められた。多少なりとも役に立ったようであれば嬉しく思う。

ところで、彼との会話の中で、自分の「原点」を思い出すひと言があった。

彼は、僕がインタースコープとしてETICからインターンを受け入れていた理由を今でも憶えており、ETICの事業を説明する際に、いつも、その「言葉」を使っている(紹介してくれている)という。

とても嬉しく、光栄なことだ。

「僕は、27才で初めて会社を設立し、28才になってすぐに起業したが、その当時、どこの馬の骨だか分からない若造に『リスクを取って仕事を発注してくれた人たち』のお陰で、今までやって来れた」。

「その恩返しの意味も含めて、今度は、僕が取れる範囲のリスクを取り、やる気のある学生の方々にチャンスを提供したい」。

そう考えて、インターンのみんなと一緒に仕事をしていたことを思い出した。

山内さんのそのひと言を聞いて、「そういう姿勢を忘れていた」ことに気がついた。

ところで、話は変わるが、先週の実家での法事の際、母が「原点に返れ」という意味だよと言った出来事があった。

僕の実家は、福島県郡山市で、人口34万人の典型的な地方都市だが、それでも日々、変化している。

お墓参りに行くために久しぶりに通った道に信号が付いていたりして、それに気を取られて僕が道を間違えたのだが、一緒だった叔父に、そこからお墓への道案内を頼んだ。

すると、冒険心いっぱい(チャレンジャー)の叔父は、なんと「田んぼの畦道(あぜみち)」に毛が生えたレベルの道をクルマで入っていった。

ケイタイで「大丈夫ですか?」と聞くと「大丈夫だ」との返事があり、僕も仕方なく、叔父の後に続いたが、結局、途中で断念して、元の道に戻った。

しかし、元の道に戻ること自体、とても大変だった。あわや、タイヤが脱輪しそうな状況だった。

何とか無事、一般の道路に戻れた時、母が「原点に返れという仏様の思し召しだよ」と言ったことが、とても印象に残った。

間違ったと思ったら、すぐにその過ちを認めて、「あるべき姿(自分の原点)」に返る。

母の話とETICの山内さんの話とでは趣旨が異なるが、自分の「原点に返る」ということを改めて考えさせられた。

母の誕生日。

今日は、ここ最近のエントリーからガラッと変わり、久しぶりに私生活に関する話。

昨日(3/23)は、僕たちの母の記念すべき満70才の誕生日だ。

本来は、数え年で70才が「古希」のお祝いのようだが、最近は満年齢で祝う人たちもいるらしく、今週末、僕たち3人兄弟家族が実家に集まり、母のお祝いをすることになっている。

以前のエントリーにも何度か書いているが、僕たちの母は、法的には「養母」である。

僕たち兄弟の生みの母は、僕が15才の時、45才で亡くなった。

その2年後、はやり既に他界している父と今の母が再婚し、その後、僕たちは「養子縁組」をし、現在に至っている。

父が生前、自分が亡くなった後も、我々息子達が今の母を守って欲しいという思いから、「自分(父)はそうしたいが、いいか?」と聞いていたことによるものだった。

たまたま僕が「長兄」ということで、父は僕にその話をしてきたが、僕は二つ返事で「YES」と答えた。

それから、もう何年になるだろうか。

これも、いつから続けていることか、僕自身も忘れてしまっているが、毎年、今の母の誕生日には、お祝いの「お花」を贈っている。

母は毎年、それをとても楽しみにしているようである。

もう10年以上も前のことだが、僕がうっかりお花の手配を忘れてしまった時に、母が「お花が届かない・・・」と言って、電話をかけてきたことがあった。

最初にお花を贈り始めた頃は、僕と弟たちの名前だけだったが、それぞれが結婚して、今は、僕たち兄弟夫婦、つまり「6人」連名で贈っている。

因みに、毎年、母の誕生日と母の日の「お花」を贈ることは、僕の担当になっている。

今年は、ロシアからの帰国日の翌日が母の誕生日だったこともあり、お花の手配をしてから出張に出掛けた。

ところで、今週末の帰省は、母の「古希のお祝い」以外に、生みの両親と父方の祖父母(一緒に住んでいた)の「法事」を兼ねている。

母は僕が15才、祖母は僕が20才、父は僕が24才、祖父は僕が25才の時に亡くなった。

つまり、母の33回忌、祖母の27回忌、父と祖父(前倒し)の23回忌だと思う。

また、それらの法要は、ずっと、今の母が行ってきた。

自分の夫の「前の奥さん」の法事を一生懸命にやっている母をみて、親族は、不思議で仕方なかったようだ。

無理もないと思う。余程、心の広い人でなければ、そんなことはできないだろう。

そんな母を最も心配し、最も頻繁に電話をし、何かにつけてイベントの企画をするのは、末弟である。

僕と次男は、それぞれ15才(ほぼ16才)、14才の時まで生みの母と生活してきたので、結果として「ふたりの母」がいる(特に僕は)感覚だが、三男(末弟)は「9才」の時に生みの母を亡くしており、それ以来、今の母に育てられてきているので、今の母に対する「感謝の気持ち」や「愛情」が、我々兄弟の中で最も強い。

ただ、我々兄弟にとって、今の母が「大きな求心力」となっていることは、お互いに口にはしないが、紛れもない事実である。

ある意味、生みの母が亡くなった時は、人間の「死」というものがよく理解できず(「生」についても)、また、とにかく無我夢中で、悲しんでいる暇も無かったのが偽らざるところだが、大人になった今は、人間の「生死」というものをよく理解しており、今の母が亡くなった時のことを想像すると、言葉に出来ないものがある。

弟たちは別として、僕の場合、妻の両親も他界してしまっており、僕らの子供にとっては、今の母が「唯一の祖母」であり、せめて、彼の中に「祖母の記憶」が残る年齢までは、今の母に元気でいて欲しいと思う。

言うまでもなく、人生は有限である。

でも、だからこそ、生きていく価値があるのだろう。

この週末は、親孝行をしたい。

「心」のビタミン剤。

インタースコープを創業して3~4年目ぐらいまでだったろうか、ETICが主催するイベントやシンポジウム等に呼ばれることが多々あった。

大概は「週末」。そう、休みを返上しての参加だった。

でも、僕には苦にならなかった。

やる気がある若者(大学生)の前で話をし、彼らと交流することで、多少なりとも役に立て、僕自身も刺激を受け、まさしく、WIN & WIN の関係だった。

最近は、ドリームゲートの仕事がそうである。

「合宿」や「出張」。それも、「週末や祝祭日」に。

でも、起業家や起業家志望の若い人たちとお会いし、彼らのビジネスプランに関するプレゼンを聴くことは、何より、僕自身にとって勉強になるし、僕の拙い経験が少しでも彼・彼女たちの役に立つとしたら、そんなに嬉しいことはない。

「ドリームゲート」の仕事は、今の僕にとって「心のビタミン剤」である。

日本人が忘れたもの。

この話も、佐藤英典さんのメルマガ『こころざし(心座視)』で読んだこと。

中国の小学校2年生の男の子が、お母さんに液晶テレビを買ってあげたくて、今年の春節(旧正月)にプレゼントすると決めて、幼稚園の頃から貯金をしていたというお話」。

僕が社会人になった頃は、初任給で両親やお世話になった人たちに、プレゼントを贈ったりしていた。

当時の日本社会には、そういう「教育」がなされていた。

「経済的繁栄」が「自己中心」を助長するのではなく、周囲に対する関心を増大させることに繋がれば、社会はもっと良くなるだろう。

「煩悩の塊」の僕だが、社会に出た頃のことを、もう一度、思い出そうと思う。

家族の歴史。

今日で正月休みも終わり。時の経つのは本当に速い。

法政大学ビジネススクール最終日の翌日からロシア出張に行き、12/29(月)に帰国。翌30日は友人宅で「もんじゃ焼きパーティ」をして大晦日に帰省し、1/3(土)に帰京。何とも慌ただしい半月だった。

帰省中は、今の母(養母)と僕たち家族の他に弟と父方の叔母夫妻とその子どもたちが集まり、何とも賑やかだった。

その翌朝、母が珍しく起きて来ないので、心配になって寝室に行き声をかけると、背中が痛いという。

どうやら、皆で集まる正月のために、老体に鞭打ち、お節料理をつくったようだ。とにかく、人に尽くすのが生きがいのような人なのである。

僕は僕で、強行軍のロシア出張の疲れが出たせいか、微熱があり身体が辛かったが、年末に読んだ宋文洲さんのメルマガの「思いやりとは言葉ではなく、行動である」というひと言を思い出し、久しぶりに、母の首と肩を揉んであげた。

「ここまで頑張るなよ」というほど、凝っていた。

ところで、僕の実家の居間には、父方の祖父母と父母の遺影(4人)が飾ってある。

帰省中のある時、僕らの子供が、その遺影を見ながら、僕に質問をした。

「あれは誰?」。「曾お祖父さん」。「その隣は?」。「曾お祖母さん」。「その隣は?」。「お祖父さん」。「その隣は?」。「死んじゃったお祖母さん」。

「死んじゃったお祖母さん・・・・?」

3才の子供ながらに、何かあると思ったのだろう。首を傾げていた。

そりゃそうである。「お祖母ちゃんの家」に遊びに来ているのだから。

その翌日、また、同じ質問をしてきた。

今度は「死んじゃったお祖母さん」と答えた後、その意味を、3才の彼にも分かるように?説明してあげた。

家族の歴史を感じた一瞬だった。

因みに、理解したのかどうかは分からないが、それ以降は質問して来なかった。

話は変わるが、今日は、子供を連れて明治神宮に初詣に出掛け、その後、新宿御苑に行った。

雲ひとつない青空と冬枯れの芝生が何とも言えない雰囲気を醸し出しており、僕は思わず、芝生に寝転び、空を見上げた。
シリアルアントレプレナー  「3度目の起業」と「初めての子育て」

中東では、イスラエルがガザに侵攻し、罪の無い多くの命が犠牲になっている。

その根源には、ロジックでは解決出来ない「民族問題」があり、物事の複雑さを考えさせられる。

こうして、正月を迎えられることは、幸せであることに疑う余地はない。

明治神宮でひいた「おみくじ」の言葉を大切に、今年一年、一日一日を大切に過ごしたい。

誰かに支えられて生きている。

2~3日前、年末調整に必要な書類を探していた時のこと。

僕たちの子供が生まれた時に、親しい方々から頂いたお祝いのカードを見つけた。

そこに書いてあるメッセージを読みながら、人間は、誰かに支えられて生きていることを再認識した。

とてもありがたいことである。

皆さんに感謝をしなければ・・・。