内なる声に耳を澄ます。

昨日のお昼前、渋谷駅南口と東急プラザを繋ぐ横断歩道と横断歩道の間で、THE BIG ISSUE JAPAN を買った。前号も同じ場所で購入したのだが、今回も同じオジさんが売っていた。

僕が「前回の号も買ったんですよ」と言うと「ああ、そうでしたね」と言って、屈託のない笑顔を返してくれた。

代金の200円を受け取った手はアカギレがひどく、ハンドクリームも塗れないんだろうなと思うと、ちょっと可哀想な気がした。でも、彼は元気そうだった。僕なんかよりも、とっても。

そして、「次の号に私が載る(掲載される)んです」と言って、嬉しそうに話していた。

表紙を開くと、前号でも読んだ「私の分岐点」というコーナーがあり、ああ、そうだったなと思いながら、今回のインタビュー対象である「勝野 洋」さんの記事を読んだ。

彼の奥さんはキャシー中島という人だが、彼女と結婚した後は急激に仕事が減ったという。でも、そのことは予想していたと答えている。

彼は一時的な人気ではなく、しっかり板についた役者になりたいと思っていたので、将来に備えた乗馬の訓練や普段できなかった土いじりなどをして、心静かに過ごしたという。

また、彼は自分から進んで役者になったのではないらしいが、一生、役者でやっていくことに迷いがなくなったのは「40代」入ってからだという。

そして、「人(人生)には何度か大きな岐路が訪れると思うのですが、そんなときは素直になって、内なる自分の声に耳を澄ます。どちらに行けば得をするかと考えるのではなく、自分の原点を振り返り、童心に返るんです。そうすれば必ず道が開け、いい方向に向かうと思いますよ」と言っている。

「内なる声に耳を澄ます」という言葉は、5年前に「逆求人フェア」というイベントで出会った学生に、僕自身が言ったことでもある。

今度は、自分がそうする時に来ているような気がしている。

ゴールは何か?

先々週の土曜日、ETICが主催する「STYLE」というソーシャルアントレプレナー・ビジネスプラン・コンテストの2次審査のメンターとしてお招きいただいた。

何人かの方がメンターとして参加していたが、その中のひとりに、NPO法人ケア・センターやわらぎ の代表理事を務めている石川治江さんという方がいる。

石川さんとは、やはり、ETICが主催するイベントで知り合い、その後、STYLEの審査員としてご一緒させて頂いている。

彼女は、1947年生まれなので「59才」であるが、とても若々しく、強い「精神力」と「意志」を持っており、とってもステキな方である。経営センスも抜群で、大きな会社の社長も充分に務まるだろうと思う。

その石川さんがSTYELの2次審査で言っていた言葉で印象に残ったのが、「ゴールは何か?」ということである。

当然のことながら、ひとりひとりのゴールは異なるし、ゴールを決められるのは、自分しかいない。

すべては、自分の意志であり、結果に対する責任は、自分で負うしかない。

「自分が負える責任は何か?」を知ることが必要であり、負えない責任は負ってはいけないということだろう。

決して、見栄やプライドでは責任は終えないし、本当の「ゴール」は、そんなもので決められるものではないと思う。

そんなことを考えるきっかけを与えて頂いた一日だった。

創業メンバー。

このブログのタイトルのように、僕は今までの人生で「3度の起業」をした。それを含めて創業に携わったのは「6社」。

つまり、僕にとっての創業メンバーも、僕が創業メンバーの立場になったことも、それぞれ3社ずついるし、ある。

今日は、ドリームビジョンの創業メンバーである「安田 裕」という人物のことを書こう(紹介しよう)と思う。

彼とは、僕がインタースコープを経営していた2002年の夏、知り合った。法政大学の学生だった安田くんが、インターンとしてインタースコープに入ってきた時だった。

ドリームビジョンを創業したとほぼ同時に、法政大学のビジネススクールと提携をして講座運営を始めるなど、法政大学とは縁があるように思う。

話しを安田くんに戻すと、僕がインタースコープ時代に受け入れた50人ぐらいのインターンの中で、彼は珍しく「リサーチャー」や「研究開発」指向ではなく、「事業やビジネス」をどうやって「運営」するか?に興味のある学生だった。類は友を呼ぶのか、彼と同時期に入って来たもうひとりの学生も同じような指向性を持っていた。

彼がインタースコープで働いていた頃は、それほど一緒に仕事をしたわけではなかったが、インターンを卒業し就職をした後も、頻度は高くなかったが交流は続いていた。

彼はインタースコープに来る前、映画の配給会社でバイトをしていたり、舞台演出の仕事をしたりしていたらしい。外見は今風で普通だが、結構な変わり種だし、頑固な人間である。そして、将来は「起業」をしたいと思っていたそうである。

しかし、どうすれば起業できるのか?そのためには、どんな能力が必要なのか?ということが分からず、ETICの起業家育成ゼミのようなものに通ったりもしていたと、ETICの方から聞いていた。

それらのことを意識していたわけではないが、2005年の夏、僕の将来構想を誰かと議論をしたいと思い、食事に誘ったのが安田くんだった。

それから半年ぐらい議論を重ねるうちに、彼が当時、勤務していた会社が、組織変更や分社化や出向うんぬんという時期と重なり、彼としても、僕と一緒に起業するなら今だと思うようになったらしく、僕よりもむしろ彼の方が、積極的に、僕らの構想の具現化を急ぐようになった。自分の20代の頃を見るような気がしていた。

当時の僕は、僕から頼んで田部さんにインタースコープの社長になってもらった経緯もあり、また、創業者として投資家から億単位の資金を調達してきているという責任もあり、そう簡単にインタースコープを退任するわけにはいかず、また、正直に言って、40才を超えて「3度目の起業」をすることの「リスク」に躊躇してもいて、踏ん切りがつかずにいた。そんな僕の背中を押したことのひとつが「悠生」の誕生であることは、以前にもこのブログに書いたとおりである。

それでも、インターネットリサーチ業界はもちろんのこと、ネットビジネス全体においてもそれなりの認知度になったインタースコープを去り、もう一度、スクラッチから事業を立ち上げるという決断をすることは、そう簡単なことではなかった。

正直な話し、ドリームビジョンを立ち上げて4~5ヶ月経った頃から、28才で起業してから一度たりとも計画通りに行ったことのない事業計画が、「想定の範囲」の内か外かは別として、またしても、自分が考えたとおりには行かないことが分かり、希望よりも「不安」の方が先に立つようになっていた。

もっと具体的に言えば、20代や30代での失敗と異なり、40才を超えて事業に失敗することの意味やダメージをリアルにイメージできるようになり、事業の成功イメージではなく、失敗した時のダメージが僕の頭を支配するようになっていた。

それまでの僕は、大企業に勤める人達が組織を飛び出すことを恐れたり、40才を超えるとリスクを取れなくなるという「心情」を理解できずにいたが、そのお陰で身を以て理解できるようになった。

そのトンネルは、ここ数ヶ月(3ヶ月ぐらいだろうか?)続いていたが、人間とは不思議なもので、あるひとつの出来事がきっかけで、思考のパラダイムを変えることができるようである。

何が僕の思考パラダイムをシフトさせたか?については、またの機会に書こうと思うが、考えてみれば、今までの起業家人生の中で、そのようなことは幾度となくあった。

さて、話しを安田くんのことに戻すと、彼の良いところ、才能や能力があると思うところは、

・物事を機能に分類して、プロセス設計をしようとするところ。
・そのことを、組織運営に落とし込もうと思案するところ。
・コスト意識が非常に優れているところ。
・常に物事の優先順位を考えて仕事をしているところ。
・やりたいことではなく、やるべきことを優先する(やる)。
・他人を頼らず、常に自分自身で考え、行動するところ。
・精神的にタフ(心が強い)で、常に安定しているところ。

である。

その中でも、特に「精神的にタフ(心が強い)」な点は「持って生まれた資質」だと思うが、彼の今後の職業人としての人生の中で、最も大きな「強み(武器)」になると思う。

精神的に不安定で「心が弱い」僕に、彼のような「精神的な強さ」があったら、インタースコープは上場できていたかもしれないと思う。

また、常に、自分がやりたいことではなく、今の自分が、今の立場と状況において「やるべきこと」だと考えたことをやる「意志の強さ」がある。これは、とても素晴らしい姿勢であり、能力である。常に、やりたいことを優先してしまう僕に最も欠けているところである。

一方、ここは改善した方がいいだろうと思うところは、何事も他人を頼らず自分で考え自分で判断し行動する、つまり「自立」しているが故に、物事を自分の中でギリギリまで溜め込んでおり、こちらが何か不満があるだろうなと思い話しをすると、その時点で初めて、クリティカルな話しをする点である。

その内容は僕自身の欠点に関することが殆どなので、僕としても、対応が難しいことが多い。先日もそのような話しになり、今後は、遠慮せずに早め早めに「アラート」を出して欲しいという話しをした。

僕が20代の頃に働いていたODSというコンサルティング会社のモットーのひとつに「言わないことは聞こえない」というものがあったが、僕自身も彼と仕事をする中で、常日頃からお互いの考えを確認することが極めて重要であることを、ODSのその言葉の意味を、改めて勉強させられた。

人間は誰しも、自分の思考プロトコルで考え行動しているので、相手が自分と同じような思考プロトコルを持つ人間でない限り、自分が考えていることは「言葉」にして言わなければ相手に伝わらない。

話しは変わるが昨晩、マーケティングジャンクションの吉澤さんと会っていた時に「創造性というのは、異なる遺伝子(種)が交わる(配合)ことによって起こる」という話しを伺ったが、ここ数週間で僕の中で起きたパラダイムシフトは、僕とは異なる安田くんという遺伝子と一緒に仕事をしてきたことにより生まれたと思っている。

僕の強みは、日常の些細な出来事であっても、そこに何らかの「意味」を見出し、それを「メッセージ」として対外的にアウトプットできる能力にあると思っているが、そういう僕の能力と、実務に優れた安田くんの能力を「配合」すれば、きっと、素晴らしいアウトプットを生み出せると思っている。

あとは、その「仕組み(組織的構造)」をどう造るか?である。

右脳オリエンテッドな僕と、左脳オリエンテッドな安田くんと、そのふたりを上手く「繋げる人」が表れれば、ドリームビジョンはテイクオフすると思う。

というより、そういう人を「本気で探して連れてくる」ことが、出来は悪いが、経営者である僕の仕事である。

続ける。

昨晩は、講座運営で大変お世話になっている法政大学の小川教授とジャスダック公開企業の経営者の方と会食をする機会を頂いた。

その経営者の方と僕(ドリームビジョン)の間に接点があるのではないか?とのことで、小川先生がそのような機会を設けて下さった。ありがたいことである。

その席で僕が改めて自覚した(認識を新たにした)ことは、「続ける」ことの大切さと大変さである。

自分自身のマーケティングも考えて、シリアルアントレプレナーとか3度目の起業とかと言っているが、それは、味方を変えれば、ひとつのことを続ける根気がないこととも言えるし、必ずしも良いことばかりではない、ということである。

ただ、僕自身は、この選択は「自分にとって必要なこと」だったと思っており、ここまでは、これで良かったと思っている。

問題は、これからの生き方である。

「40(歳)も過ぎたし、まあ、これで最後にするんですね(笑)」という言葉を、帰り際に小川先生から頂戴したが、「これで最後=これしかない(次のチャンスはない)」と理解し、頑張ろうと思う。

小田急百貨店

僕の父親は、僕の出身地である福島県郡山市にある、とある総合病院の事務長をしていた。

その病院は、従業員が2,000人規模の大きな病院で、東大や女子医大等の医学部の教授に週に何回か診察に来てもらっていたり、その交渉事だったりで、定期的に東京に出張に来ていた。

その父は、僕が大学を卒業した翌年、僕が24才になった5日後、55歳の若さで亡くなった。

父は生前、出張で東京に来る時は必ず、前もって連絡をくれ、スケジュールに余裕がある時は、当時、弟と住んでいた下北沢のアパートに泊まりに来た。余裕がない時でも、どこかで待ち合わせて、夕食に誘ってくれた。

僕が下北沢に住んでいたことと、父の帰りのことを考えてか、新宿で食事をすることが多かった。

今朝は、新宿でアポがあり、その帰りに小田急百貨店に寄り、エレベーターに乗ったのだが、小田急百貨店だったか、My City だったかで食事をした、かれこれ20年も前のことを「ふっ」と思い出した。

父が、どれだけ僕や僕ら兄弟のことを心配し、愛情を注いでくれていたかが、悠生が生まれてからは、より一層、分かるようになっており、一瞬、胸が詰まった。

今まで感じたことのないほど、亡くなった父親にもう一度会いたいと思ったが、それは2度と適わないことを考えると、何とも言えない感情が沸き上がって来た。

「親の心、子知らず」というが、何とも親不孝な子供だった。

悠生を育てていくいことで、その罪滅ぼしができたらと思う。

原宿のカフェ

今のオフィスに越してきた頃から気になっていたカフェがある。カフェというよりも、昔ながらの「喫茶店」と言った方がいい。

そのカフェには、随分前、おそらく、15年ぐらい前に、一度だけ入ったことがある。

昨日、考え事をしたくて、15年ぶりにお店に入った。

すると、店内には誰もいなくて、まるで僕だけの書斎のようだった。

笑顔のステキな女性(40代後半だろうか)が出迎えてくれた。

二言三言、言葉を交わすと、来年の1月で29年になるらしい。

今ほど賑やかになる前から、原宿の街の変遷をずっと見てきたのだろう。

丁寧に煎れてくれたコーヒーを飲みながら、いつだったかのエントリーに書いたユニクロの柳井さんの著書「一勝九敗」の巻末にある同社の経営理念を読みながら、ドリームビジョンのことや自分自身のことを考えてみた。

カッコ良く言えば起業して、実際には、組織では生きられずにスピンアウトしてから、15年になる。

いつも全力で走っては躓き、挫けそうになり、でも、その都度、色んな人に励まされて立ち直り、生きてきたが、ここ1年は、うまく言葉に表せないが、今までの人生とは異なる慌ただしい生活をしてきて、ちょっと立ち止まって考えてみたかった。自分自身のことや会社のことを。

こんなに速かった1年は、今までになかったと思う。

話しは変わるが、ここのところ、また、悠生が夜中に起きるようになり、睡眠不足気味である。午後になると集中力が無くなるので、また、マッサージに通うようになった。

その帰りに寄り道をして、そのカフェに入った。

お陰で、少し気分が和らいだ。

ところで、昨夜は久しぶりに妻と話しをした。

臨床心理を勉強している彼女は、いつも冷静で客観的である。どうしろとは言わないが、絡まった糸を整理するきっかけを提供してくれる。

お陰で、少し気持ちが整理できた。

私のすべて。

つい先日、西麻布の某所で開催されたパーティ?で、KAZという方と知り合った。

僕の義理の叔父(日系二世)と同じ名前ということもあり、親近感を持った。

その彼のGREEのプロフィールを見ていて、強烈に心に刺さったひと言があった。

お嬢さんのことを「私の宝物、アイドル、お姫様、、、私のすべて」と紹介されていた。

写真を見ると、とってもカワイイ。彼がメロメロになっている姿が目に浮かぶ。

「私のすべて」。

子供ができる前だったら、彼の言葉は、これほど、心に留まらなかったと思う。

今日は18:30過ぎに会社を出て、保育園に悠生を迎えに行き、帰宅後は彼をお風呂に入れ、アトピー気味の肌にクリームを塗り、麦茶を飲ませ・・・と慌ただしくしていたが、KAZさんの気持ちが痛いほど分かる。

女の子でなくて・・・本当に良かったと思う。