自分自身であることの孤独。

インタースコープを経営している頃、自社のウェブサイトにある自己紹介ページに、「僕にとってのチャレンジとは、一生、自分らしく生きていくことです」と書いていた。

では、僕にとっての「自分らしさ」とは何か?

それは、いくつかの要素があるが、

・常に何かに挑戦をしている。
・イノベイティブなことに挑戦する。
・社会的に有意義なことを行う。
・人間関係を大切にする。
・一生懸命に頑張っている人を応援する。
・経済合理性を求めつつも、人の感情の機微を大切にする。
・長いものに巻かれない。

こんなことである。

文字にしてみると、特別難しそうなことではないと思われるかもしれないが、自分を貫くことが辛くなる時がある。

自分自身のことを書きたいところであるが、なかなか分かりすい事例がないので、先日もブログに書いた田坂広志さんの著作(自分であり続けるために)で描かれていたことを紹介したいと思う。

それは、「一つ目国の悲劇」というものだが、ある旅人が、旅の途中で道を見失い、住人のすべてが「一つ目」の国に迷い込んだという話し(寓話?)である。

その旅人は、最初の頃は、一つ目の人々を不思議に思い眺めていたが、徐々に自分だけが「二つの目」を持っていることが異常なことのように思えてきて、最後は「その孤独」に耐え切れず、自ら片方の目を潰し、一つ目になってしまったという。

古くから僕のブログを読んで下さっている方はご存知の話かもしれないが、ここまで書いて自分自身の事例を思い出した。

僕が小学生の頃、友達5~6人でラーメン屋に入った時、その中のひとりでガキ大将風の奴が最初に「味噌ラーメン」を頼んだところ、他の友人は僕も私も「味噌ラーメン」と続き、僕だけが最後に「塩ラーメン」と頼んだ。すると、「なぜ、お前はみんなと同じものを食べないんだ」と言われたので、「なぜ、自分の小遣いで自分が好きなものを頼んじゃいけないんだ?」と言ったところ、次の日から僕は「仲間外れ」にされた。

でも、僕は、その彼に迎合することはしなかった。

僕が「自分らしい生き方」ということに拘り、そういう生き方を貫こうとしている人を応援したいと思うようになった、原点なのかもしれない。

スピードスケートの清水選手

先日の日経新聞にスピードスケートの清水宏保選手の記事が載っていた。

長野五輪で金メダルを取り、ソルトレークシティでは銀メダルを取ったスピードスケートの頂点に立っていた彼が、トリノ五輪では「18位」に沈んだ。金・銀・18位という順位が示すように、彼の存在感も薄れていったのは事実だと思う。

特に、長野五輪での「デビュー」が鮮烈だったが故に、その残像を背負うことになった彼は、周囲の期待に応えるために、凡人には想像さえできないような苦悩と努力があったのだと思う。

その清水選手が、トリノ五輪では「ただこなしていた」と語っている。情熱もモチベーションも上がらず、勝ち負け以前の「限界」を見たという。

最近、最初に起業した頃のこと、鳴かず飛ばずだった頃、インタースコープを創業した頃、VCから1億以上のお金を調達したものの、本当に結果を出せるのだろうか?と思い、日々、不安で仕方が無かった頃、インタースコープがようやく軌道にのったものの、自分の役割について悩んでいた頃のことを思い出しており、清水選手の胸の内に想いを馳せた。

清水選手は、進退を思い悩んだ結果、今年3月に「現役続行」を宣言したが、その後も「迷いというか、いろいろな不安がある中、このままスケートを続けていいのかと思っていた」らしい。

吹っ切れない気持ちを抱える中で、清水選手が気づいたことがあるという。それは、「様々な経験をしているから、余分な情報が入って邪魔をする」ということだそうだ。

頭の中をリセットするには約半年かかったとも書いてある。実績抜群のベテランゆえのこだわりをぬぐうと、再び視界が開けてきた、とも。

また、8才年下の杉森選手に職人を紹介され、「靴を作ってもらいたいと思う人と出会えた」という。

そして、「今は、あそこで辞めなくてよかったという感覚がある」と語っている。

孤高の人が好き(憧れ)で単純な僕は、新聞や雑誌の記事を読むだけで、とても励まされ、勇気づけられる。

清水選手の「生き方」には、とても深いものを感じる。

「変化は痛みを伴う」。

昨日は、法政大学ビジネススクールと共同で運営しているオープン講座があり、オールアバウトの江幡さんにゲストとしていらしていただいた。

江幡さんとのQ&Aセッションで、僕自身が勉強になったことがたくさんあったが、その中でも「やりたいこと・できること・やるべきこと」という話しが最も印象に残った。

オールアバウトというか江幡さんのマネジメントの考え方として、今までの経験から、本人の考えや志向性に係わらず、「やるべきこと」にコミットして、それをやりきった人で、「満足しなかった人(充実感を覚えない人)はいない」という話をされていた。

自分の人生を振り返ってみると、理屈では分かっているし、他人には「Want/Can/Should」の3つが重なったことが「Will」だとか言っていたくせに、自分自身は「Want」で生きてきたと思う。

もちろん、色々な苦労をしてきたし、そうせざるを得ない局面においては、「Should」を優先してきたと思うが、僕自身の基本的傾向として、自分のやりたいこと(Want)を優先してしまう傾向が強いと思う。そのことは、妻にも指摘されている。

必ず「変化は痛みを伴う」し、ましてや、この年になって自分を変えられるのかどうか分からないが、少なくとも「変わる努力」をしなければ変われないのは間違いない。

ゴルフと同じでフォームの矯正には多大な努力と時間を要するが、今が最後のチャンスだと思うので、勇気をもって変わる努力をしようと思う。

プライドを捨てる。

先月からベンチャー企業にフォーカスした「人材紹介」を始めたことにより、人事部の方とお会いする機会が増えた。今までの僕のキャリアの中では最も縁遠い人達だった。

「人事」というキーワードで、おもしろい話しがある。

僕が20代の頃に働いていたODSというコンサルティング会社の後輩で、インタースコープの創業メンバーでもある「久恒 整」という人間から聞いた話しである。

ODSでは様々なセミナーを開催しているが、彼が言うには「マーケティング関係の人は10分遅れてくる人が多い。経営企画部の人は、だいたい時間ピッタリに来る。人事部の人は、10分前に来る」という。この話を聞いた時、僕は妙に納得してしまった。

人事関連でもうひとつご紹介すると、つい最近お会いした、あるベンチャー企業の人事責任者の話しで、とても印象に残った話しがある。

「前職での成功体験がある方が入社してくることが多いですが、その『成功体験を捨てる』ことが出来る人は、当社でも『成功します』ね。逆に、『プライドを捨てられない人は成功しない』か、成長するまでに時間がかかりますね」。

とても納得できる話しだった。

更に言えば、自分のことを言われているような気がした。

頭の中では、スクラッチに戻ってのスタートだと分かっているつもりだったが、僕の心の片隅に、インターネットリサーチ業界をリードしてきたという自負があり、それが知らず知らずのうちに「手間ひまを惜しむ」姿勢を生んでいたように思う。

というか、事実、そういうところがあった。素直に反省をした。

こうして反省する機会を与えてくれた方と出会えた僕は、幸せな人間である。

「東京タワー」と「恵比寿ガーデンプレイス」と」「ホテルオークラ」と「川嶋あい」。

初めて東京タワーに上ったのは、中学3年生の時だった。当時、福島県郡山市に住んでいた僕は、修学旅行で東京に来た。悠生が物心がついたら、連れていこうと思う。

その東京タワーのふもとにある東京プリンスホテルは、僕が高校生や大学生の頃、帝国ホテルやホテル・オークラとは違う意味で、憧れのホテルだった。

その東京プリンスホテルで昨晩、ネットベンチャー仲間のリアラスの井手さんのお父さんの「お別れ会」があった。

井手さんのお父さんは、たしか競輪関係だったと思うが、「新橋商事」という会社を、文字どおり「新橋」で経営されていた。地元の経済会にかなり影響力があった方だったようで、お別れ会には、約1,300人の方が参列されたという。

会場には、お父さんの若かりし日々の写真が飾ってあったが、事業家のにおいがプンプンする、楽天的で社交家な感じの笑顔が似合う方だった。子は親の鏡とは、こういうことを言うのだろうと思った。ご冥福をお祈りしたい。

ところで、悠生はすっかり良くなったが、看病疲れから、妻が発熱してしまった。

元気で所狭しと動き回る悠生の面倒を看ていると彼女が休めないので、今朝は10時前から近所の恵比寿ガーデンプレイスに悠生を連れて散歩に行った。

ガーデンプレイスの入り口にあるカフェに入り、コーヒーを頼んだ。外国人のお父さんが男の子を連れて散歩に来ていた。アメリカ人のようだった。彼との会話(アクセント)から、そう思われた。とても気さくな人だった。子供は子供が好きのようで、彼の子供(もうすぐ2才になるらしい)も、悠生に微笑みかけている。

彼らが店を出ると、今度は黒ブチの眼鏡をかけたオシャレなお父さんと女の子が入って来た。やはり、外国人親子だ。場所柄、外国人が多い。日本語でコーヒーと食べ物を注文していた。

次は、サングラスをした金髪のお母さんと3人の娘が入って来た。ここは日本だというのに、英語で注文をまくしたてている。発音が典型的なアメリカ人だ。「少しは日本語を覚えろよ」と心の中でつぶやいた。

夜はインタースペースというアフィリエイト事業を行っている会社の東証マザーズ上場記念パーティにお招きいただいており、ホテルオークラに行った。ネットベンチャーの上場記念パーティとしては、非常に重厚な演出だった。

ふっと横を見るとミクシイの笠原さんが立っていた。「久しぶりですね」と声をかけたところ、僕が眼鏡をかけていたせいか、最初は分からなかったようだった。眼鏡を取って、「元インタースコープで今はドリームビジョンという会社を・・・」と言うと、「そうでしたね」という表情をされた。二言三言挨拶をして、その場を立ち去った。

妻の熱が下がらないので、乾杯の後、そうそうに失礼しようと思い出口へ急ぐと、リアラスの井手さんから声をかけられた。彼とは縁があると思う。

「お疲れ様でしたね」と挨拶をしていると、今度はサイバーエージェントの西條さんと投資担当の鈴木さんとお会いした。

しばらく、4人で話しをした後、「今日は所用があるので・・・」と言って会場を出た。

家に帰ってくると、悠生は元気で遊びまわっており、妻はぐったりした表情をしていた。悠生をお風呂に入れ、食事をした。悠生はその間もはしゃいでおり、食事をするのも一苦労である。

ようやく悠生を寝かしつけて、テレビをつけた。スポーツニュースでゴルフの結果を確認した後、テレビ東京にチャンネルを合わせると、「川嶋あい」という歌手の特集をやっていた。

九州から上京して堀越学園に入学し、歌手デビューを目指したが、現実は厳しかったという。九州の母に泣きを言うと、「九州女やろ。もう少し頑張りや」と励まされたという。因みに、血は繋がっていないらしい。彼女は養女ということだ。

その母と「路上ライブを1,000回やる」と約束したそうだ。3年間かかって、その約束を実現した。しかし、その途中で、お母さんは亡くなったそうである。

1,000回の路上ライブを達成する前に、苦労が実ってプロでビューを果たしていた。それでも、母親との約束を守るべく、路上ライブは続けたという。

もうひとつ、母親と約束したことがあったらしい。「渋谷公会堂でライブをすること」。2003年だったか、2005年の3月30日に、それも、実現させたらしい。僕の誕生日である。

そういえば、川嶋あいの特集の前に、僕の好きな「伊達公子」の特集をやっていた。

この週末は色々なことを考えていた。ドリームビジョンのこと、自分のこと。そして、家族のこと。

自分のエネルギーを何に集中(フォーカス)させるべきか?

すべての答えは「自分の中にある」。

そんな話しを何かで読んだことがある。

勇気をもって前に進みたい。

ディープインパクトにみる「引き際の美学」。

数日前の新聞で、ディープインパクトが今季限りで引退するという記事を読んだ。にわかファンのくせに、胸に迫るものがあった。

僕は競馬のことを殆ど知らないが、馬主の方のコメントとして「来年は重しのハンディが大きく、簡単には勝てない(難しくなる)。『有終の美』を考えて今季限りにした」というという趣旨のことが書かれてあった。どんな世界でも「世代交代」は避けられないということだろう。

アイルトン・セナ、伊達公子、中田英寿など、僕の好きな人達は皆、引き際が潔いというか、ピークの時に引退をしている。セナは引退ではないが、やはり、ピークの時にこの世を去ってしまったが故、人々の心に強く刻まれたと思う。僕が好きな人の中では、カズだけが例外で今も現役に拘っている。

スポーツ関連に限らず、政治家にしても、起業家にしても、その人の生き方が「引き際」に表れると思う。

僕も常に、潔い生き方をしたいと思っている。

闘う大和撫子。

ネットエイジの上場記念ゴルフコンペに行く朝、途中で立ち寄ったナチュラルローソンで「Number(Sports Graphic)」という雑誌を買った。

表紙に「永久保存版 F1鈴鹿」と書かれており、僕が大好きだった「アイルトン・セナ」の顔写真が大きく載っていて、抵抗できずに買ってしまった。

F1の話しはさておき、表紙をめくると、そこには「闘う大和撫子」と題して、卓球の天才少女「福原 愛」の躍動感溢れる写真が載っていた。そして、小さな文字で且つたった数行の解説に「悔しさを押し殺し、2008年の北京だけを見つめ続ける」と書いてある。

彼女の心境に想いを馳せた。

僕はスポーツがとても好きだ。その理由は「自分の限界に挑んでいる」からである。

そういう意味で僕は、「起業家」と呼ばれる人や「創業者」が好きだ。

でも、起業家よりも、スポーツ選手が好きな理由は、ごまかしが利かないからかもしれない。すべてのことがダイレクトに「数字」に表れる。

僕がゴルフが好きな理由もそこにある。

すべてが自分との戦いであり、すべてが「数字(スコア)」に表れる。運も不運も含めて。でも、それが「結果」である。鈴鹿グランプリでシューマッハがマシントラブルでリタイアしたのも。

その結果を出すために「ひたむきに努力をする」スポーツの世界に、僕はチャレンジ精神と純粋さと誇り高さを感じる。

そして僕も、自分自身の生き様と事業を通して、そのことをより多くの人に伝えたい。

それが、僕が「起業家」であり「創業者」という生き方を選んでいる理由である。