「スマートフォン化」する「自動車」。

著書「パラダイス鎖国」で有名なシリコンバレー在住の海部美知さんが書かれた、「スマートフォン化する自動車」なるコラムを読んだ。

大袈裟に言えば、移動手段が主たる機能であった「クルマ」が、「I.T.端末」的機能が「主」となり、移動手段としての機能が「従」となるというものだ。

日本では若者のクルマ離れが指摘されて久しいが、その意味合いや度合いは別として、そのようなトレンドは米国でも見られるという。

つまり、かつては「若者のライフスタイルの象徴」であった「クルマ」や「ドライブ」が、今日では「I.T.端末」や「Facebook, Twitter」等のプラットフォームになっているということである。

たしかに、そう言われてみれば納得がいく。

ウォール街を擁するNew York(東海岸)であれば、今でもMercedes Benz やBMW等の高級ドイツ車がライフスタイルのシンボルとして機能しているのかもしれないが、このエントリーを書きつつ思い出してみると、シリコンバレーの友人とクルマの話題で盛り上がった記憶はない。

クルマの話題で言えば、日本でも電気自動車の「TESLA(約1,200万円~)」が販売された(る?)が、500~600万円で買えるスポーツセダン(BMW3シリーズやAUDI A4と同等クラス)が発売されたら、そのデザインにもよるし、インフラの整備にもよるが、きっと、爆発的に売れると思う。

何が「クール」かは、時代と共に確実に「変わっていく」ということだ。

ところで、今年4月から法政のMBAで教えるようになり、色々な本を読むようになった。

昨年の秋以降、ドラッガーやジャック・アタリ、ミルトン・フリードマン等の本を読むようになったことは以前のエントリーで書いたが、人に教える立場となり、その結果、自分自身が学ぶことが多い。

最近、よく思うのは、ドラッガーの言う「事業の定義は陳腐化する」ということ。

それは、つまり、職業人としての「自分の定義」も「陳腐化」する、ということだ。

よくご存知の方は読み飛ばしていただければと思うが、ドラッガーの言う「事業の定義」は「3つの要素」からなる。

第1は、「組織を取り巻く環境」。すなわち、社会とその構造、市場と顧客、そして、技術動向についての前提。

第2は、組織の「使命」すなわち「目的」。

第3は、自らの「使命」を達成するために必要な「強み」についての前提である。

そして、

・第1の「環境」についての前提は、組織が「何によって対価を得るか?」を明らかにし、

・第2の「使命」についての前提は、組織が「何を意義ある成果とするか?」を明らかにする。

・第3の「自らの強み」についての前提は、リーダーシップを維持していくためには、いかなる分野で抜きんでなければいけないか?を明らかにする。

また、「事業の定義」を達成した時はお祝いをする時ではなく、陳腐化した定義を「書き換える」時である。

少なくとも、3年に一度は、自分たちの「事業の定義」を見直す必要があるとドラッガーは言う。

このことは、組織のみならず、組織の「構成員(経営者であっても同様であるし、社会という組織の一員として考えれば、誰にも当てはまる)」である「ひとりひとりの人間」にとっても同様なことが言える。

人も組織も自動車も・・・。

まずは「現在地」を測定する。

今日は、とても楽しい時間を過ごすことができた。

ファニーズという、名前のとおりオモシロイ会社(映像制作)を経営している中道さんという方と、ついこの間まで学生起業家だった銭本さんという方と、久しぶりに会って食事をした。

銭本さんとは彼が学生の頃、ETICのイベントを通じて知り合って以来、かれこれ3年ぐらいの付き合いになるが、中道さんとは昨年の夏、銭本さんを通じて知り合い、じっくりと話をしたのは、今日が初めてだった。

詳細は割愛するが、色々な本を読み、学校に通って勉強したり、自分自身で色々と考えても、なかなか目標に到達できない理由のひとつ(おそらく、かなり大きな理由のひとつ)は、目標なり目的地は明確になったとしても、自分自身の「現在地」を測定(明確化)できていないからではないか?という話になった。

た���かに、現在地が分からない(迷子のようなものだ)のでは、目的地までの距離も方向も難易度も分からないわけで、徒歩でも行けるのか?自転車ぐらいは必要か?それとも、クルマか、あるいは飛行機でないとシンドイのか?「手段」も特定できないことになる。

ひょっとしたら、手持ちのガソリン(材料)では、目的地には到達できない位置にいるかもしれない。

登山であれば致命傷である。

こうして書くと当たり前のことだが、自分自身の現在地を正確に把握していないことが多い。

僕自身も含めて・・・。

「生ゴミ」と「おむつ」と「当事者意識」。

久しぶりの雨でクールダウンした東京。

何週間ぶりかで、最高気温が30度を下回った。

ところで、月曜日は「燃えるゴミ」の日で、僕たちが住んでいるマンションでは、管理人の方が朝早くにゴミを外のゴミ置き場に移動する。

出掛けに「生ゴミ」を捨てに行った際、ゴミ箱の「おむつ専用」という文字に目が留まった。

2年ちょっと前までは、僕たちも、そのゴミ箱のお世話になっていたことを思い出した。

そして、たった2年前のことなのに、もう頭の中から消えていることに、自分でも驚いた。

同時に、自分は当事者ではないこと(目にしなくなってしまったこと)に「当事者意識」を持つことの大変さに、改めて気づかされた。

そういう意味では、政治家が一般の国民の生活をリアリティをもって理解するには、相当な「意思」の強さが必要だろう。

いや、政治家に限らず、日常生活においても、ビジネスにおいても、それは同じである。

「相手の立場になって考えろ」。

僕の好きな、ゴッドファーザーの教えでもある。

物事を決めるのは「主観」なのである。

ビジネススクールも夏休み。

僕が担当しているゼミ形式の授業も、今週を最後に「オフィシャル」には9月半ばまでお休み。

但し、途中でゼミとしての補講があり、また、個別に補講をリクエストされているので、実質的にはあまり変わらないというか、むしろ、大変かもしれない(笑)。

ところで、昨日のゼミで、主査の小川教授が、「なるほどな・・・」と思うことを仰っていた。

それは、プランの善し悪しはさておき、周囲の助言や提案を、本人が「納得」しているか?ということ。

人間は客観的に見てどんなに素晴らしい提案でも、自分にとって「納得」がいかなければ、それにコミットすることはない。

つまり、それが客観的に支持されていようがいなかろうが、物事を決めるのは「主観」なのである。

そのことを再認識させられた。

小川先生のご専門は講義形式の授業は別として、ゼミ形式の授業では、あまりテクニカルなことは言わない。

それはむしろ、僕の役割であり、小川先生がアドバイスするのは「本質的」なことだけである。

人間は誰しも、腑に落ちれば、黙っていても突き進む。

小川先生は、そのことを熟知されているのだろう。

あなたは、何をやりたいのか?

問うべきは、そのことである。

今の日本には、あまり楽しいことがない。

幸いにして妻は元気になったが、彼女の入院騒ぎで疲れたのか?それとも、寝ている間のエアコンが原因か?は分からないが、ようやくよくなった鼻の調子が悪くなった。

4月に発病した���急性副鼻腔炎」の時と同じような症状と鼻の奥に痛みを感じ、「えっまた・・・」という嫌な記憶が蘇ったが、今朝、耳鼻科に行ったところ、再発ではないだろうということでホッとした。

日曜日の午後、昼食から戻ったら急に疲れが出て、1時間強ぐらい昼寝をしたのだが、その後も身体が鉛のように重く感じられたので、入院騒ぎで疲れたのだろう。

さて、入院騒ぎで放置しておいた「iPad」の設定に先程から取り掛かった。

「写真」データをiPadにコピーしなければ既に使える状態になっていたと思うが、8017枚あるらしい写真の取り込みに時間がかかっており、暫くはそのままにしておくしかなさそうである。

道理で写真の同期のところには、最初はチェックが入っていなかったわけである。

ところで、8/1(日)の日経新聞に、マサチューセッツ工科大学(MIT)の名誉教授の「レスター・サロー氏」のインタビューが載っていた。

僕はサロー教授のことは、その名前ぐらいしか知らないが、「中国の経済成長は今年は年率10%だと言われている。これは怪しい。10%成長は都市部に限った話で、地方に住む9億人はゼロ成長だ。中国全土が10%成長するには、都市部の4億人が33%成長しなければ牽引できない。地方を含めれば中国の経済成長は率は3%程度だろう」と語っている。

その上で「私は米国のGDPの数字は信じる。数字を集計する人間に、大統領によって更迭されない独立性が担保されているからだ。彼をクビにできるのは議会だけ。GDPを集計する人間が大統領や首相に更迭される可能性がある国の統計数字を信じてはならない」と付け加えている。

因みに、著名投資家のジム・ロジャーズ氏も、ロシアや中国の統計数字を信用してはいけないと主張している。

また、日本の「内需」が広がらないのは「イノベーションがないからだ。日本の消費者は米アップルの多機能端末『iPad』のために徹夜で行列するが(僕にはその心理は理解不能だ/笑)、ソニー製品のためには並ばない。ワクワクするような楽しさがない」と言っている。

そのとおりだと思う。

朝一番のお客さんを社員全員が並んでお辞儀する日本のデパートを「極めて非生産的」だと喝破しているが、僕もエレベーターに乗る客人を「頭を下げて見送る日本の風習」は「理解できない」。

僕なら握手をして、目を合わせて見送って欲しいし、僕はそうしている。

その方がよっぽど感情がこもっていると思うのは、僕だけなのだろうか?

日経新聞記者の「お辞儀は日本の文化のひとつです」という言葉に、サロー教授のインタビューは「もちろん、どちらの文化が優れていると言っているわけではない。だが、米国文化の方が経済成長に適している。我々は産業主体の経済が『知識主体』の経済に移っている。ジョブスCEOやビル・ゲイツ氏、ウォルト・ディズニー氏がつくり出すような知識だ。人々は楽しいものには金を払う。今の日本にはあまり楽しいことがない」と締めくくられており、それには同感する。

そして、その「楽しさ」の源泉とも言える「イノベーションを生むのは政府ではなく『教育』だ。大学で教授の言うことを黙って聞いているような学生は使い物にならない。教授の言葉に疑問を呈し、教授が知らないことを発見するような学生がイノベーションを産む」と言っている。

法政にも、そういう学生がたくさんいて欲しい。

ところで、僕は昨年11月に日経新聞の取材を受け「茶髪の中年男性」と紹介された。

日経新聞は数年前からベンチャー欄を無くしてしまったが、そのようなジョーク?を許容する日経新聞は楽しいカルチャーの会社だろうか?

理解に苦しむところである(笑)。

「測定」できないものはコントロールできない。

亀井さんが辞任したのは喜ばしいことだが、結局は「連立維持」。

後任の閣僚も国民新党から出すようだし、計算の結果という匂いが充満している。

民主党としては、郵政グループ23万人の「票」が欲しいのだろうし、農家(農業従事者:約240万人)の所得保証にしても、結局は「票田」確保だろう。

そもそも「労組」が支持基盤の民主党は、いったい、誰のための政党か?

ということを先程、Twitterに書いたのだが、はたして、参院選の結果はどう出るだろうか?

ところで、先日のエントリーでも書いたとおり、僕がアドバイザリーボードのひとりを仰せつかっているNPO法人NEWVERY理事長の山本さんが2冊目の本を書いた。

とても読み易く、勉強になることがたくさん書いてあり、ちょうど半分ぐらいまで読み進めた。

彼にとっては嬉しいことではないかもしれないが、そこまで読み進めながら、僕と「感受性」というか、物事の捉え方というか考え方が似ていると思った。

でも、僕が彼の年齢だった頃とは雲泥の差がある。

もちろん、彼の方が数段優秀という意味だ。

色々と勉強になったことがあるが、そのひとつをご紹介すると、「測定できないものはコントロールできない」ということと、常に、自分達がやっていること&やろうとしていることの「成果は何か?」を問い続けている、ということだ。

僕がやろうとしていることの「成果」は何か?を明確に「定義」し、その「成果」を「測定する指標」は何か?つまり、何でもって僕がやろうとしていることの「成果」を判断するのか?を「明確」にすることが、イコール、提供する「商品・サービス」をも明確にする、ということである。

そのことを改めて考えさせられた。

そのきっかけを提供してくれた山本さんに感謝したい。

一瞬も一生も美しく。

「梅雨入り前」の今日。

東京は「本格的な夏の到来」の「予告編」とも言える陽射しが降り注ぎ、「暑い」エネルギーを感じた。

ところで、今朝は投資先のイミオで定例の経営会議があり、彼らのオフィスがある乃木坂に向かった。

JR原宿で千代田線に乗り換える途中、駅構内で「資生堂」のポスター(企業広告)が目に留まった。

「一瞬も一生も美しく」というコピーと、昭和30年代か40年代と思しきモノクロの写真があった。

そこには、着物姿の女性と子供が写っており、その「清楚さ」と「質素さ」が妙に印象的で、経済的にはまだまだ「発展途上国」だったはずの日本が持っていた「将来に対する希望」のようなものが感じられた。

と同時に、「この国には何でもある。だが、『希望』だけがない」という村上龍の言葉を思い出した。

経済発展は、日本社会に何をもたらしたのか?